近世紀行文紹介江戸紀行研究最前線

(図々しいタイトルですみません。地域の公民館の文学講座の資料で、ちょっと悪乗りしてしまいました。まあ、紀行をやってる人は少ないので、そうまちがってはいないつもりですけど…びくびく。)

(1)最初から訂正

江戸時代の紀行文を研究している人はあまりいないので、私の中公新書「江戸の紀行文」、ぺりかん社「江戸の旅と文学」「江戸の旅を読む」などが、今は一番詳しくてまとまった江戸紀行の本であると言ってよいだろう。
だが、その中でも一番新しい「江戸の紀行文」は数年前に出した本なのに、もう訂正するところが出て来た。恥しいことだ。

その本でもそれまでも私はずっと、「江戸の紀行というと、芭蕉しか有名ではないが、本当は芭蕉は異色作で、代表作とは言えない。少なくとも二五〇〇点以上の写本・版本が現存している可能性があり、その中で芭蕉の影響力は低く、特に評価もされていない。それが明治以降になってから、芭蕉だけが注目され、他の紀行は読まれもしないまま、つまらない、と片づけられてきた。しかし、その中には名作がたくさんあり、あえてあげるなら、江戸時代前期の貝原益軒の『木曾路記』、中期の橘南谿『東西遊記』、後期の小津久足『陸奥日記』の三つである」と言って来た。

だがその後、気がついたのだが、明治に入っても江戸紀行は「つまらない」と言われてはいないし、芭蕉の作品だけが突出して過大に評価されているわけでもない。明治の初めから昭和の初めにかけて、帝国文庫や有朋堂文庫などが大規模な古典文学全集を作るが、その中で江戸時代の紀行はちゃんと何冊も入っていて、むしろ優遇されている。芭蕉の紀行も、入っているがたくさんの作品の中の一つでしかない。帝国文庫は何回か出されているが、昭和の初めの編者が民俗学者柳田国男のものでは、貝原益軒の重要性もちゃんと認められて作品も大きくとりあげられている。

私は近代のことは詳しくないが、研究者の方の論文によると、たとえば自分も紀行を書いた田山花袋は、芭蕉の「おくのほそ道」と南谿の「東西遊記」を江戸時代の名作として高く評価していた。どっちがいいかと迷ってもいて、最後は芭蕉に傾くのだが、南谿の作品も同じぐらい評価していたのだから、注目していたし知ってもいたことになる。

ではいつ、なぜ、「江戸時代の紀行は面白くない」「文学的価値はない」といった完全否定が学界の定説になってしまったのか。これはまだ私にもわからない。ただ推測としては昭和十八年刊行の鳴神克己「日本紀行文藝史」が、あるいは決定的な役割を果たしたかと予測している。これ以前で江戸紀行を否定した説も、これ以後で江戸紀行を評価した説も、今の所見当たらない。

この本は古代から近代まで、まさに紀行文芸と呼ばれるような作品をすべて取り上げて評論した、大変優れた内容だが、芭蕉の「おくのほそ道」を徹底的に評価して詳しく紹介する一方、江戸時代の他の紀行はまったく見るべきものはなく、特に江戸後期は「紀行文学の崩壊した時代」と片づけている。それでも明治以降にはまた名作が生まれると書いているので、そこも論理的ではないし不自然だが、とにかくこれだけよく書かれた本で、これだけ完璧に否定されたら、江戸紀行の評価はもう決まってしまったかもしれない。

鳴神氏のことは調べてもよくわからないのだが、解説によると、「誰もやらない分野を精力的に研究した孤高の研究者」のような書かれ方をしていて、つまり江戸紀行を詳しく研究していた人は、他にいなくて、なおさらこの本を信用する他、当時の人はなかったのではないだろうか。
以上が私の本の訂正、すなわち最新情報である。

(2)江戸紀行概略

他は訂正はないので、「江戸の紀行文」にも述べた、私なりの江戸紀行文学史の概略を言う。
代表作家は、前にあげた三人だ。それに加えると、初期の林羅山、中期の本居宣長であろう。
それから、個人ではないが、見逃せない重要な存在は中期の蝦夷(北海道)紀行と、後期の国学者の紀行である。どちらも量も多く、江戸紀行の流れに大きな影響を与えた。
なお、これ以外に、私が研究する前から有名で知られていた江戸紀行作家としては、菅江真澄、古川古松軒、松浦武四郎、高山彦九郎などがいる。

(3)伝統に抗して

これらの紀行で翻刻(活字化)されているものを読んでみようと一般の方がされた場合、わりと文章が読みやすいものと、かなり読みにくいものがあるのに気づかれるだろう。読みやすいのが俗文で漢文調や口語体がまじる。読みにくいのが雅文で、平安時代の文学のような昔ながらの文章である。
江戸時代の人の感覚では、文学は正統で伝統的な「雅」の文学と、実用的で新しい「俗」の文学に区別され、もちろん雅文学の方が高級である。ちなみに今の私たちが江戸文学と言って連想する、芭蕉や西鶴、近松、馬琴、秋成、歌舞伎や浄瑠璃(文楽)は、すべて俗文学である。雅文学は、漢詩、和歌、連歌、物語など、古くから存続していたもので、紀行も雅文学である。

いわば正統で格調の高いものだから、その形式や文体は維持したいと紀行作者たちは思う。しかし、それまでの紀行は京都だけが文化の中心だった平安時代、さらに打ち続く戦乱で全国が荒廃した中世の旅だから、つらいもの、苦しいもの、作者の心情を中心に旅の恐れや悲しみを語るもの、というのが定番だった。「土佐日記」「十六夜日記」をはじめとした名作も、そうして生まれる。
だが、江戸時代になると、各藩の文化が地方で発展し、平和になって旅も安全に娯楽化し、紀行文学を築いていた土台の環境と心情が激変した。芭蕉の「おくのほそ道」は、その中であえて昔の旅の雰囲気を再現して成功しているが、多くの作家にとっては、楽しく楽になった旅の中で、そんな昔ながらの苦しくて悲しい旅の記録を綴ることは不自然だし無理があって、現実とかけはなれた退屈な作品にしかならなかった。そういう駄作も多いことが「江戸紀行はつまらない」と言われる原因になった面もある。

朱子学者で教育者である一方、すぐれた文学者でもあって、もちろん古典紀行もよく読んでいた貝原益軒は、新しい時代の新しい紀行を書くために、そういう昔ながらの伝統を捨てた。彼は「実際に旅する人の役にたつように、あるいは旅に行かないひとにも情報が得られるように」をモットーに、作者個人の心情はまったく書かずに、徹底的に旅先の土地の情報をひたすら具体的に正確に、俗文で綴るという新しい紀行を書いた。元禄時代、江戸時代の前半の中ごろ、ちょうど芭蕉と同じ時期である。

彼の作品は京都の柳枝軒(茨城屋太左衛門)という本屋から、大型の本が普通の紀行ではなく、小型の実用書の案内記という形で出版され、江戸時代を通じてよく読まれた。本居宣長、橘南谿、小津久足など、後の紀行作家たちにも引用され影響が大きい。彼の作品が江戸紀行の基礎を築いたと言ってよい。俗文でわかりやすく書くこと。旅を楽しいものとして描き、つらいことがあっても嘆かないこと。正確で詳細な現地の情報を記事の中心とすること。いずれも、後の江戸紀行が基本として守った姿勢である。

ただ、益軒の紀行が新しいものを生み出すために、犠牲にしたものがある。それは、「個人的な記事がほとんどない」「誇張や虚構がまったくない」ということだった。
前者については益軒自身が晩年に出版はされなかったが「壬申紀行」という、個人的な記事も加えたより紀行らしい紀行を書いているし、紀行全体の流れとしては、本居宣長「菅笠日記」にはじまる国学者たちの多くの紀行が、再び個人的な心情を、江戸時代の旅にふさわしい幸福な楽しい雰囲気で描き出すことに成功した。その最高の到達点が小津久足の紀行類である。
後者については次の項で述べる。それは具体的には南谿に対する古松軒の批判となってあらわれているので、わかりやすい。

(4)奇談集との関わり

橘南谿の「東西遊記」は江戸中期の天明時代、京都の医者だった作者が、全国をめぐった時の体験や見聞を記した作品で、とにかく読みやすくて面白い。
益軒同様よく読まれた紀行だが、図書館の目録では紀行ではなく読本などとして分類している時もあり、実際その本のかたちは、益軒の案内記より大きいが、紀行よりは小さい。見てすぐわかるが、これは奇談集の体裁だ。

私は多分初めて、この作品と作者について、「けっこう話を面白くするための嘘があるかもしれない」と指摘したが、それまでは信用できる資料として研究者の論文でも扱われていた。それは書き方のスタイルがそうで、益軒が築いた基礎そのままに、知識人が旅をして見聞したことを正確に伝えますというもので、文体も知的で、読む人を安心させる。
だが、それは、そういうポーズなのであって、これは一つの創作でもある。そういう書き方がもうすでに人々の中に、好ましい旅人と紀行というかたちで歓迎されるようになっているから、それを踏襲するのである。

そしてこの紀行は、「中央より僻地の地方の方に古い美しい文化が残る」「日常の安定した世界の中に突然思いがけない異世界が見つかる」という、二つのテーマを徹底的に守っていて、それにあてはまらない場面や設定は登場しない。これはリアルを装った虚構の物語であり、芭蕉の「おくのほそ道」や、最近問題になるテレビのドキュメントのやらせと同様、事実ときわきわのところで、面白くわかりやすく読ませるように編集され構成された作品である。そもそも本の形式が奇談集になっているのが、それを証明している。

南谿とほぼ同時代の岡山の郷土史家古川古松軒は名前もよく似た「東西遊雑記」という大部の紀行を記していて、出版はされなかったが、写本で広く伝わっている。その中で彼は南谿の「東西遊記」の記事のいくつかを虚構ではないかと批判する。
形式からして奇談集の体裁をとる「東西遊記」にあえてこういう批判を古松軒がしているのは、「東西遊記」が嘘もまじるのが当然の奇談集ではなく、正確な情報を伝える益軒以来の江戸紀行として読まれてもいたことを、逆に証明するだろう。

もともと紀行はジャンルがあいまいで、詩集や歌集、句集、地誌、名所図会など、多くの他のジャンルの作品と線引きが非常にしにくい。中でも奇談集は「東西遊記」という代表作が典型的なように、紀行と厳密には区別できない。
行った順序ではなく、項目別に面白い話をまとめて書いているのも奇談集の特徴だが、紀行を読んでいると、実に中途半端にこの形式をとっている作品も時にあって、もしかしたら、「奇談集」ですよ、という形式をとることによって、各地の藩の内情など、公にするのがはばかられることを書けるという意識や状況も当時あったのではないかという推測も生まれる。

古松軒の南谿批判は、益軒が築いた「正確な事実のみを情報として伝える」という江戸紀行の精神の基礎が、紀行作家たちの中で強固に生きていたことを示す。また南谿のように確信犯でそれを破って「面白く読ませるために虚構を使う」作家もまたいたことを示す。さらにまた、それを利用して、公開が難しい正確な情報を虚構という名のもとに書き残そうとする意識も存在したことを予測させる。それこそ秘密保護法に抵触するような各地の貴重な情報も、紀行には多く書きこまれているわけで、そういう配慮が生まれたとしても不思議ではない。

(5)蝦夷紀行、国学者、そして小津久足

古松軒の「東西遊雑記」のうち、「東遊雑記」が蝦夷紀行であるように、江戸時代中期、田沼意次の蝦夷開拓によって、多くの幕臣が蝦夷地へ赴き、多くの紀行を残した。これはそれこそ「正確な情報」を知らせないと大変なことになるから、未開の土地の風土や産物、人心について絵図もまじえた膨大な文献は、いずれも非常に具体的で詳細である。これが江戸紀行の描写や記述に大きな影響を与えた。

また、宣長をはじめとした国学者たちは、文章修行もかねて多くの紀行を書き、それは俗文の要素をとりいれたわかりやすい雅文の模索、個人的記事や心情も加えた新しい旅人像など、益軒の基礎を活かしつつも中世以前の紀行の伝統も復活させるという大きな役割を果たした。
その頂点が伊勢の商人で歌人で蔵書家で馬琴の友人でもあった小津久足である。彼の記した膨大な紀行は出版されず写本でもそれほど流布してはいない。彼の財力をもってすれば出版は容易だったはずで、これは彼自身が公開を望まなかったからだろうと、菱岡憲司氏は指摘する。しかしその作品の完成度は非常に高く、近代の紀行文学につながるものである。

(6)江戸紀行研究の現状

小津久足については現在菱岡憲司氏が精力的な論考を重ね、近く本にもなる予定である。また、久足の「陸奥日記」は、震災で被害を受けた東北各地の当時の様子を詳しく描いていることから、現地の方々のためにも刊行しようという計画もあると聞いている。
紀行が比較的少ない中国地方では、森為泰という幕末の歌人が明治の初めまでわたる膨大な紀行を残しており、現地の方々と大学の研究者が協力して翻刻紹介を進めているようである。
高山彦九郎の紀行については、最近勝又基氏が「孝子を訪ねる旅」という、大変行き届いて面白い著作を出された。
いずれも、研究者や大学だけでなく、紀行の題材となった現地の方々との関わりの中で、郷土史に関心のある方々や地方自治体との協力が行われているのが注目される。

実は近年、教育予算の大幅な削減で大学は疲弊し、研究者が十分な研究をできる基盤は少なくなる一方だ。その状況も改善しなければならないが、東北の震災で貴重な資料が多く消失したように、全国に残る紀行の資料を早く整理し活字化するのも急務である。
郷土史家や地元の方、自治体の方々で、こういった資料に関心を持って個人的に作業をされている方も多いのだが、やはり学界で通用するためには専門的な基本のやり方があって、それを守ってもらわなくてはいけない。だが、これは研究者や大学の責任だが、そういう手順を一般の方にわかりやすく伝えるような講座や本がまだ少ない。というか、ないに等しい。
何とか専門的な研究者と一般の方々や地域が協力して、こういう作業を各地で発展して行くようにできないものかと、つくづく思う。

ただ楽しみのために厳しいことは考えないでやりたい、という気持ちと、せっかくなら広く世間に紹介されて大学の非常勤講師になるぐらいの実力をつけたい、という気持ちと、両方の思いが地域の方々の中にはあると思う。どちらもわかるし、どちらもそれだけが先行すると困る。そういうことを考えながら、こういうことの可能性を探っていければと考えている。 (2016.1.22.)

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