近世紀行文紹介カルチャーセンターの周辺

1 はじめに

それでなくても私の話は、あちこちに広がってどこに行き着くのかわからなくなりがちだから、結論を最初に書いておくことにする。
一昨年の忘年会だったと思うが、川平敏文氏が挨拶の中で「郷土史家と同じにならないように」という若い人たちへの注意を述べられた。その後で挨拶した私は「郷土史家を活用して大学の人手不足、学界の研究者不足を補う構想は難しいだろうか」というような反論めいた疑問を呈した。
これだけでは何のことか誰にもわからないだろうと思ったから、せめて川平氏だけには、後で説明に行こうと思っていたら、いい気持ちで酔っ払って、そのままになってしまった。
これは、その時に話そうと思ったことである。要するに、多分全国で膨大に存在する、研究者になりたいと望み、さまざまな努力をしている、郷土史家をはじめとした一般の方々を、専門的な研究者として大学や学界に迎え入れる方法はないものだろうかという提案である。
行き着く先を示したからには、これから先の話はかなりとりとめもなく、拡散し迷走するが、最後は予定通り着地する予定なのでどうかお許しいただきたい。

2 授業と研究

まだ現職のころ、若い同僚にときどき言っていたのは、あまり急いで本、特に一般の方も対象にした、売れそうな本を出すものではないということだった。
教員採用の資格審査をしているとわかるのだが、最近は業績として若い人でも立派な単行本を何冊も送って来る。内容も立派である。だが、どことなく詰めが甘くて、証明や資料がものたりない。これは多分、一般の読者に拒絶反応を起こさせないため、編集者と相談して、少しでも冗長と感じそうな部分を省くからだ。それがわかっても、その分評価は低くせざるを得ないが、いささか後味が悪い。学術誌の論文などはその点安心して読めた。
別の理由もあった。私自身はわりと一般の方にも読んでいただけそうな本を書いたし、新聞雑誌等で紹介されることもあった。ところがそうすると、さまざまなところから講演や執筆の依頼が舞いこみ、あっという間に話題がなくなる。「同じことをしゃべってもいいのだ、同じことを聞いてもむしろ皆喜ぶ」と言う話も聞いたが【注1】、私にそこまでの度胸はなかった。
そういう講演や執筆はまだ断ればそれですむ。もっと困ったのは、大学以外の一般の方々から、さまざまな資料や原稿が直接送られて来ることだった。本来はありがたいことのはずだが、こちらにそこまでの余裕がない中、畢生の大作のような原稿の束を「読んでいただきたい」「添削をお願いしたい」と送って来られると、どうしていいかわからない。何とかしようと思っている内に日が過ぎて、お返事さえもさしあげないままになり、これも大変心苦しい。一度など何年もそのままにしておいた方に、やっとお返事を出そうと思ったら、すでに亡くなっておられて、申し訳ないばかりだった。
もともと私は仕事が遅く筆不精で、いろんな方に失礼をしている。しかし、どちらかというと、目上の人や同業者にはそういう非常識なことをしても、学生や一般の方には誠心誠意急いで対応するように心がけて来た。それでも、そういう資料や原稿は何となく放置してしまった根底には、学生や趣味のカルチャーセンターの受講生とは一味ちがう、研究者になろうという志を持った一般の方に対して、どのように対応するべきか、私の中で整理ができていなかったからである。
そもそも、カルチャーセンターの受講生の中にも、そのような志を持つ方はいる。その一方で、まったくそのような思いはなく、ただ私と古典や変体仮名を読むことがひたすら楽しいという方もいる。芸術、スポーツ、創作等々、あらゆるサークル活動めいたものが常に抱える悩みだろう。厳しい修行でプロをめざしたい一方、あくまで楽しくやれれば満足という、二つの欲求は常に混在し、個人の中にさえ、両者は併存する。

私は基本的にはカルチャーセンターでも大学の授業でも、話す内容や態度を変えたことはない。ごくたまに、さまざまな分野の専門家が一般の人を対象に話をする講座に参加する機会がある。もちろん全部ではないが、講師の話す内容の薄さと綾小路きみまろ風の狎れた饒舌に、こちらが身のすくむ思いがしたこともしばしばだ。著名な研究者にもそういう人がいて、この人はもちろん学会発表などではこうではないどころか、緊張して聴衆に敬意を示すのだろうと思うと、なおのことやりきれなかった。
大学の授業では、そういう人はどうなのだろう? 最近、ある大学で学生にまじって、自分の専門分野ではない授業を聞く機会があった。比較的若い講師の講義内容は、これまた自分の体験談や学生との対話やTV番組の紹介だけに終始し、これで授業と言えるのかと聞いていて途方に暮れた。
昨今のいわゆる「わかりやすい授業」の弊害かと暗澹としたが、思えば昔から自分の専門研究と学生への授業は切り離して、漫談や雑談に終始する大先生は存在したのかもしれない。私の学生時代にも年間まったく授業をしないで、受講届さえ出せば単位をくれる著名な大教授がいた。ちなみに国文学の先生ではない。私自身の周囲には、知る限りではそういう人はいなかった。巧拙はあったかもしれないが、皆が誠心誠意、全力つくした授業をしていたと記憶する。だが、今となっては、それが、どれだけ恵まれた感謝すべきことだったのか、そんな必要のない普通のことだったのか、私にはよくわからない。

3 挫折した夢

カルチャーセンターに話を戻す。私が地域の方々とやっていた研究会のほとんどは自分の専門である江戸紀行の翻刻だった。私は課題をいっさい与えず、一方的に私がテキストをその場で翻刻しながら現代語訳して読み上げ、それを各自がそれぞれに清書して来たものを全部朱で添削しては返却することをただくり返した。課題を与えたり発表させたりして競争心や劣等感を持ってもらいたくなかった。そもそも私はそのような濃密な感情を参加者と共有したくなかったのだ【注2】。
私の住む地域はもともとかなり文化度が高く参加者も優秀な人が多かったのか、まったく古典や変体仮名に触れたことのない方々が半年もすると時に私以上に変体仮名を読めるようになって来た。当時はまだパソコンも普及していなかったので、私はその方々に原稿の清書を分担してもらって、いくつもの翻刻を学術誌に掲載し『近世紀行文集成』(葦書房)など数冊の著書にした。お名前も共同執筆者としてすべて記し、いずれはこれが大学とは別の、地域から全国に紀行研究の情報を発信する基盤となることを予想していた。
私ひとりが胸に抱いていたその計画が誰にも知られないまま挫折し消滅した原因は、大きくは大学改革による私の多忙化や、社会全体の電子化によってパソコンを使わない高齢の参加者の手書き原稿が活用しにくくなったことなどがある。しかし、それを克服するだけの力が私と参加者に欠けていたのも事実である。

研究会の参加者の多くが、かなり読みにくい資料の文字も私の手を借りないで読めるようになった頃から私は、この方々をより専門的な研究ができるようにしたいと何度か試みた。しかし、註釈をつけるとか地図を作るとか、出版社からのゲラの校正をするとか、一段階進んだ作業をしようとしても、「それよりは、これまで通り新しい資料を読んで行きたい」という希望が強く、結局はそこに戻った。「このままでは私が突然死んだら、皆さん方だけでは続けていけなくなりますよ。私がいなくてもやっていけるようにしておかないと」と脅かしても、「先生がいなくなったら、研究会は即解散で、おしまいです」とさばさば言われると、苦笑して黙るしかなかった。
向上心や野心がないと言えばそうだが、最も成長が著しく、そこらの院生や若手研究者よりも完璧な翻刻原稿を作って来るような数名が、そのような発言をし、「私たちの原稿を使われるよりは先生がお一人でなされた方が本当はずっと早いのでしょうに」と、にこやかに言われるのを聞くと、これだけ実力がある人だからこそ、専門家とそうでない人との差をよく知っていて、ひたすらに私と資料を読んで翻刻しつづけることを老後の楽しみとする中で自分なりの完成をめざし資質を磨くという、節度と無欲の徹底ぶりに私は圧倒された。

その一方で、めだたないながらも、発展や変化を望む人もいたようである。「まだ次の本は出ないのですか」と気にしたり、私の間違いを指摘して「ずっと気になっていたんです」と満足したりする人には、そういう要素があったのだろう。ところが不思議なことに、そういう高い段階を意識する人はほぼ例外なく、出して来る原稿が雑で、ほとんど使い物にならず、まさに私が一人でやった方がずっと早い状況だった。あるいは私が会議の合間にコンビニでパンをくわえて紙パックのコーヒーで流し込みながら必死になって朱を入れて添削したような原稿を何度返しても、同じ間違いをまったく訂正して来ない。たまたまだが、その方がパソコンを使っておられたので、新しい段階に進む際の戦力にできないかと期待もしたのだが、前回と同様の誤りを犯した原稿が何十回も提出されるのを見ると、そんな希望は泡と消えた。
向上心と野心。無欲の研鑽。それがこうまで別々になるのはたまたま私の周囲だけの事象だったのだろうか。

その両方を併せ持っておられるような方に、皆とは別の原稿の翻刻をお願いしたことがある。まだその当時はまったく注目されていない、江戸紀行の名作者小津久足の膨大な紀行類だった。その方は有能で精力的で次々に完璧な翻刻を私の手を借りずに完成させて下さった。ところが長編紀行の数編を翻刻された後で、その方は「できればそろそろ他の紀行の翻刻がしたい」と遠慮がちに希望された。
その後私も忙しくなり研究会も自然と休みが多くなり、やがて解散したため、その方の希望に応える機会はないままだった。しかし、どちらにしても私はどう対応したらいいか決められないままだったかもしれない。かすかに感じた衝撃は、これだけ優秀な方でも、大量のすぐれた作品を翻刻する中で、その作者や作品に対する興味が深まって行くことはないのかという驚きだった。何もわからないまま闇雲に膨大な近世紀行の作品を読んで行く内に、どこまでも行き着くところまで進んでみたいと思い、行先などわからなくても足をとめることなど考えなかった自分の方が、専門家とか一般人とかには関係なく、異常な少数派だったのかもしれないとさえ感じた。

いずれにしても問題は、そういった方々に向かって私が何も言えなかったことだ。少なくとも、「あなたの原稿は使い物にならない」「あなたの添削をするのは時間の無駄だ」「十や二十の作品を翻刻したぐらいで何を言うか」という意味の注意や指摘はするべきだった。だが、「この人たちは学生ではない」「研究者をめざしているのではない」という思いが、いつも私の口を閉ざした。
卑怯だ、と思わなかったわけではない。傷つけられる心配はなく、素人という安全な場所に立ちながら、正当な評価を避けつつ、より高い場所への挑戦を望むなどということが、いったい許されるものなのか。
しかし、では、だからと言って、そのような人たちはどこに行けば、自分の要求を満足させられるというのだろう。

4 激怒の背景

私は以前名古屋の公立大学に勤務していたとき、聴講生か何かの資格でいろんな授業に出席していた上品でお洒落な老婦人のことを思い出す。国文学関係の受講生ではなかったようで、私や同じ講座の先生の授業に出席しておられたことはない。それなのになぜ私が知っているのか今でもわからないが、その方はよく満員の大講義室で最前列に座って、講師に質問をされたりしているようだった。廊下で講師を呼び止めて話し込んでおられるのも見た気がする。
その方が聴講生か何かの資格を奪われて大学に来られないようになってしまったという話を私は多分講座会議の後の雑談で聞いた。それもまたどういうことか忘れたが、決定されたのは私が参加できない何かの委員会で、もうその時はすべてが終わっていた。
私は講座で一番の若手のいわば小娘だったが聞くなり激怒して、何という大学かと口を極めて罵った。年かさの先生たちは私のそんな激昂ぶりを、「ああ、だめだもう、こうなったら」と言って見守りながら、むしろ自分たちの思いを代弁してくれて小気味良いという感じで、ちょっと嬉しそうな顔もしていた。その決定の席にいた数人は「だって、出席者は皆、深刻な顔さえしていなかったですよ」「むしろバカにしたように笑っていましたよね」と私に教えるように言い合って、私は最低です救いがたいですと怒りつづけたが、厳しい言い方をするなら、それだけ私が逆上した背後には、私自身がその老婦人を見るたびに感じていた、嫌悪感や不快感と紙一重の危機感や違和感があって、その後ろめたさのせいだったかもしれない。
同じ講座の高齢の女性教授が、後で私に、その老婦人が大学を去る前に廊下でたまたま会ったこと、その方は目に涙をいっぱい浮かべて別れを告げられたことを教えた。「授業を乱すとか質問がうるさいとか言うのなら、まずは注意をしてあげればいいのに、いきなり追い出すなんてあり得ませんよ」と、その先生は心から怒っていた。
何もかも、今では考えられないことだ。だが、その老婦人の積極的な学問への好奇心を持て余して、軽蔑気味に笑いながら退学処分を決定した大学の雰囲気も、それに怒りながら自分の中に同様の思いがあることを自覚していた私の忸怩たる思いも、今の時代にまだ決して消えてはいない。

私自身が送られて来た、一般の方々の論文や資料を放置してしまったのだから、あの時の大学と大した変わりはないだろう。
なぜ放置してしまったかと言うと、どのように対応していいかわからなかったからだ。適当に賞賛して返すだけでは、あまりにも不誠実と思った。その一方で、どこかに紹介したり自分の研究に資料として利用したりするには不安が残った。
かつて著名な中世文学の先生が、一般の方から渡された翻刻の労作をめくりながら、「どれだけ信用できるのだろうか」と独り言のように言っておられたことがある。ご自分の指導する学生や院生の仕事に対するのとは全く異なるその態度に、若かった私は見ていて「そんなに差があるものなのか」と漠然と不思議だった。しかし今なら何となくわかる。一般の方々の心血注いだ論文や翻刻は、突然手元に送られて来て、力作であることがわかっても、果たして正確か、必要な手続きが踏まれているか、調べようも知りようもない。
考えてみれば、それもおかしなことである。名前や顔を知らなくても、論文や翻刻を見れば信頼できる仕事かどうかはわかるはずだ。
だが、それらの原稿の多くは、私が読んだり書いたりして来た論文や翻刻と、構成や手法が常に微妙に異なっていた。それを基準に達していないと見るか、別の基準にのっとって書かれていると見るか、いつも私は迷わされた。
比較的、構成が整い、論証の手続きも手堅くなされているような論文でもなお、それが不十分だったり不安定だったりして、普通の学術論文とは歴然と一線を画す差がある。普段は気にとめずに読んだり書いたりしている論文が、母国語のように自分の思考に馴染んだものであったことを、あらためて思い知らされる。

そんな時、思いめぐらすのは、そもそも私自身や周囲の研究者たちは論文の書き方をどうやって学び、身につけて来たのかということだった。
文献学も文芸学も民俗学も構造主義も、古今東西の文学理論を私はほとんど知らないし、そのどれかによって研究を進めているという人も今はあまりいないだろう。結局は大学の授業や指導教員の指導、学会や合評会の中でいつとはなしに論文の書き方や研究法を身に着けて行く人が大半だろう。
時々、学術誌の特集などで、「最も影響を受けた論文」を研究者にアンケートする企画があり、聞かれたらどうしようといつも心配だった。自分が強い印象を受け、お手本にしようとした国文学の論文が特になかったからである。結局自分が論文を書くときに何を手本にしていたかと言えば、大学時代に読んだマルクスの「反デュ―リング論」とエンゲルスの「家族・私有財産・国家の起源」で、前者から演繹法を後者から帰納法を学ぶというより感じとって、それをめやすに論文を書いていたとしか言いようがない。
また、私の研究対象は江戸の紀行だったが、その中心は原資料を集めて整理して行くというもので、それを基本としながらも私は常に紀行の一つひとつを、あくまでも文学作品として鑑賞する姿勢を失うまいとし続けた。一方、紀行研究には本来なら現地調査が欠かせないだろうが、時間の関係だけでなく私はあえてそれをしなかった。それは私の紀行研究の大きな弱点だろうが、それを行うことによって文学作品としての鑑賞に影響が生まれるのを、無意識の内に私は避けた。
あえて言うなら、そういった私の逡巡や選択の中には、文献学や文芸学や民俗学といったさまざまな学問につながる要素があるだろう。
そういったことは、多分誰もが自分の研究を進める中でやっている。それは自然に、また偶然に身についていくものかもしれない。少なくとも体系的に整理した方法論として大学でそれを教える講義を私は体験しなかった。そして、カルチャーセンターや公開講座でも、それに類したものは見たことがない。【注3】
したがって一般の方々がこういったことを、短期間で確実に学ぶ機会はおそらく非常に少ない。私のカルチャーセンターでの体験のように、優秀な方なら何かの機会に触れることがあれば、部分的局部的な知識や技術については、かなり速く専門の研究者と同様の、時にはそれをしのぐ水準のものさえ身につける。しかし大学で長く過ごした学生や教員と比較するとそれはあくまで突出し限定された範囲であり、不規則でむらがあり、欠落した部分が多い。そのことを正確に意識できないまま、一般の方々と研究者が触れ合うと、理解し協力しあうことは難しくなる。

5 何とか活用できないのか

一般の方々が送ってこられる論文の中には、既存の研究を継ぎ合わせただけの、論文の体裁を整えてはいても、とても論文とは言えないものも時にある。再三にわたって評価を促されると、そのことを伝えるしかない。しかし、そうして論文まがいの文章を書いておられる方の誇りと喜びがよくわかるだけに、この情熱や熱意を、もっと活用できないものかとも思ってしまう。
絵画や音楽、スポーツや演劇なら、持って生まれた才能や資質は超えられない壁としてある。しかし、理系文系を問わず、学問研究はかなり誰でもできるし、特別の才能は不要と私は考えている。
少なくとも私がやっている江戸紀行の研究は、単純に資料を探し、丁寧に翻刻し、註釈をつけて紹介するだけで、学界にも人類の未来にも大きな成果となる。何か学問的なことをやりたいという欲望を持つ人なら、踏むべき手順と守るべき手続きを覚えてもらいさえすれば、ひととおりの研究者にはなれる。そういう作業ができるなら、それ以上の分析や読解も可能だろうが、もしそれが無理ならそこまでだけでも十分である。
おそらく江戸紀行以外の分野でも、同じことは言えるのではないだろうか。長い時間をかけてひとりでに身につく分析力や読解力を今さら要求できない高齢者でも、真剣で熱心ならできる作業のようなものが必要な研究対象は少なくないはずだ。そうやって、多くの方々に基本的な研究の手順を教える機会を作ることで、文学ではなく文学研究に関心のある人々の協力を得られるなら、予算削減で人不足の状況の解消にも少しは役立つのではないだろうか。

だから私は郷土史家に代表されるような、一般の文学研究者の方々を、敬遠したり疎外したり、専門的な研究者と区別しようとしたりするよりは、そのような人たちに研究者に必要な技術や手続きを、例えがいいか悪いか知らないが昨今の介護職の養成講座なみの速さで身につけてもらって、国文学研究の、安心して使える新しい戦力として活用した方がよいのではないかと思うのだ。そのために、公的援助も取る熱意で、大学や地域や企業にそのような講座を開いてもいいのではないかと思うのだ。案外、若手の研究者からも受講希望が殺到しそうなのが少し心配ではあるのだが。

6 譲れない一線

ただ、ひとつ大切なことがある。このようなことをめざすなら、逆に「一般の文学研究者のようになってはならない」という気持ちを決して失わないようにしなければならない。その厳しさを第一にして、このような養成講座は運営されなければならない。

「しょせん学生ではないから」「専門の研究者ではないから」と、自分のカルチャーセンターの受講生の不十分な学習態度を私は改めさせようとしなかった。それに限らず、もっと課題を与えて時間内に発表させるなどの負荷を与えたとしたら、講座が新しい発展を遂げたか、もっと早くに崩壊したか、それはどちらかわからない。どちらが受講生を愛している行為だったか、それも私にはわからない。
しかし考えてみると、学生に対しても私はかなりそれと同じ態度で望んでいた。熱心に演習や卒論に取り組み、質問に来たり資料を求めたりする学生にはできる限りの対応をしたが、怠けている学生に注意をしたり叱咤激励したことは自慢ではないが長い教師生活で一度もなかった。そんな学生がわずかに調べた資料とも言えない紙切れを持ってクリスマスや年の暮れの、卒論の提出期限ぎりぎりにかけこんで来ても、あわてず騒がずその切れ端に目を通して、するべき作業を指示し、数日間で進捗状況をチェックしつつ予定を修正し、最終的には何とか卒論のかたちを作って本人もそれなりに達成感を得るまでにした。
もちろんそれは教師生活も終盤にさしかかってから到達した境地ではあったが、我ながら奇跡のような手腕だとひそかな自己満足にひたっていた。定年直前の数年間は、真面目で勉強熱心な院生の指導でさえ、規模が大きいだけでそれに近くて、膨大な資料を駆使する遠大な計画でも、次々に作業を指示して無駄なく成果を積み重ね、相当立派な論文を完成させて、これまた自分の指導能力に人知れず酔っていた。彼ら彼女らも大変な努力をしたのは確かだが、私がそうやって指導している限り、不安も絶望も一度も感じることはなかっただろう。言われるままに努力していたら、いつの間にか目的地に到着しており、それは自分の力だったと確信もできたはずだ。そういう点でも私は理想的な教師だった。

そして、最低の教師だった。今になってそれがわかる。彼ら自身が迷い苦しみ選び決意する機会を、私はすべて奪ってしまった。おたがいにいやな思いをしたくない、傷つけあいたくないという、たかがたったそれだけの、自分の甘えと臆病から。
彼らは学問研究が何であるかをおそらくは何一つ知らないままに卒業した。彼らのことも、学問のことも私は愛していなかった。前からわかっていたことだが、私は教師に向いていない。学者としても落第だ。

私がここまで長々と書いて来たような、一般の文学愛好者の方々とのふれあいは、ここを読んでいる研究者の誰もが、地域やさまざまな組織やその他で体験して来ておられるだろう。そして、研究者と一般の方の間に不必要な懸隔を置かないでほしいと、ここで訴えて来たわりには私は常に、研究者の精神を理解しない人たちに対して冷たい逃げ腰を決めこんで、にこやかに沈黙して来た。
時に怒りやいらだちが交じることがあったとしても、仮に少々さげすみに近い感情があったとしても、一般の方々の文学研究に対して、専門家の立場から忌憚なく厳しい指摘を行って相手も自分も甘やかさない研究者こそが、私が提言する「一般の文学研究愛好者を、専門の研究者集団に呼び込む」計画には重要で欠かすことのできない存在なのだ。そこに必要なのは私のような人間ではない。

  1. これを私に言ったのは、白石悌三氏である。優れた俳諧研究者であっただけでなく、「白石君も光源氏のようだったが、そろそろ年をとって曇る源氏になったね」と今井源衛先生が陰で冗談を言うほどダンディーだった同氏は、各種の文学講座でもわかりやすい話で熱心なファンが多かった。そういうファンの女性は追っかけのように別の場所の講演にも来て最前列に座っている。氏がその方は既にもう聞かれたはずのことを話した後に気がひけて、つい「……ですよね」と言って目を向けると、その方はとても満足げに大きくうなずかれるのだそうである。
  2. 当時は大学改革の嵐の中で会議づけだった私は、この地域の皆さんとの研究会でやっと研究の雰囲気に触れていられた。疲れて眠りそうになるので、無駄話をして毎回時間を費やしたりもした。一番救われていたのは私だっただろう。
  3. 学生の卒論指導のためなら似たものはあるが、それも多いわけではない。
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