近世紀行文紹介カ行の部

目次

題名だけからは内容の見当がつかない近世の紀行文を、できるだけ数多く、簡単に紹介してゆきたい。近世紀行文を研究する際の、あるいは翻刻する際の、何かの参考になればと思う。一応ア行から始めるが、順序はやや前後することもある。また、内容の概要紹介を主とするため、書誌等については詳述しないこともある。(なお「その一」については、「福岡教育大学紀要」第39号を参照されたい。)

懐玉抄露柱堂鳥酔

「校註俳文学大系紀行編」所収。寛政十三年の鳥酔の忌日の一年前、かつて各地の旅に同行した弟子たちが亡師を偲んで稿をまとめた旅の句集。上巻は京都、奈良から播磨に至り、下巻は東海道、木曽路、東北など、範囲が非常に広い。地名を項目ごとにあげて、それに関する記事を記し、句を詠む。だが、しばしば長い記述があって、土地の伝説や、旅中の出来事などを述べ、描写は具体的で面白い。

改元紀行大田南畝

帝国文庫「続紀行文集」・「大田南畝全集」第八巻所収。享和元年、幕府の命をうけて江戸から大坂へ下った時の紀行である。東海道を通っていて、各地の風俗、旅の様をよく描き、また古典も充分に引用している。題材の選択といい、文体の工夫といい、東海道の紀行としてのみならず、近世紀行としての、一つの到達点を示す名作であろう。

海道日記山鹿素行

「山鹿素行集」第七巻に「東海道日記」として所収。承応二年、江戸から京都までの紀行。地名を項目に立てて説明を加える。日付や個人的記事は無く、簡略で地誌的。林羅山「丙辰紀行」に感じが似ている。箱根より先は、やや記述が詳しい。内容は道筋や古戦場についてなど。道がぬかるんで、「足入」という記述が多い。

革令紀行大田南畝

「大田南畝全集」第八巻所収。文化元年、公務のため長崎に赴く時のもので、東海道の部分は「改元紀行」と重複するために略し、尼崎から須磨、明石にかけての、源平の古跡を主とした見聞と、室から小倉までの船旅の模様が中心である。あまり長い作品ではないが、作者の他の紀行と同様に、観察は細かく、感性は鋭い。とりわけ「あつもりそば、熊谷ぶつかけ」などもある、須磨のあたりの観光地化している様子などは、他の紀行には見られない、詳しさである。

笠の花冬翆館素 他

天理図書館蔵。板本一冊。「花洛寺町二条下 俳諧書林 橘屋治兵衛梓」の刊記。金陵窟梅五、皎々園文車と三人の合作である。上の山から出発して北越、木曽路、伊勢、南紀から、大坂、須磨、明石、金比羅、有馬、天の橋立、京都を経て、東海道を過ぎ、日光から那須野、白川を巡って帰る、享和三年一月から五月にかけての大旅行。ただし、句が主で、記事はほとんど無く、紀行文としては特に興味を引くものはない。

神野山日記間宮永好

「房総叢書」所収。国学者である作者が、嘉永七年、妻や友人とともに、江戸から神野山の桜を見に行った時のもので、付近の各地を見物し、古書を引いて考証を行っている。近郊遊覧記らしく、一行の交流が明るく描かれ、風景描写も美しい。同叢書の解説は、この紀行を高く評価した上で、「たゞ、斯くまで複雑な思想を擬古文で表現した苦心は同情に堪へない」と言っている。たしかに国学者たちの、この豊富で冷静な考証と、彼らが目指した和文の完成とは統合しにくい要素があろう。幕末の勤皇の志士たちの、和文で書かれた戦記などでは、その印象は更に著しい。

雁がね日記海若

九州大学図書館蔵。板本二冊。刊記なし。天保六年十月十七日に江戸を出発し、鎌倉や伊豆を遊覧して、東海道を清水まで行く。翌年の四月までかかる、ゆっくりとした旅で、豊富な内容で、細かく綴る、明るい雰囲気の紀行文である。近郊遊覧記の特徴をよく備えているといっていい。清水孝欽、早川敬明らの序跋あり。この本は多く残っており、よく読まれたようである。

かりの冥途松岡行義

宮内庁書陵部蔵本(写本一冊。白に茶の横縞表紙、24.5×16.6cm、十行書、全十二丁、墨付十一丁。左肩打付書、外題「かりの冥途」、内題なし。奥書なし。)による。「九月の廿あまり一日君の仰せことのままに吾妻を出たつ」と始まる。やや時代が早いか、冒頭で長く前途の不安を述べる。東海道を下って草津を経て京に着く。(石山寺のこと詳しい。)更に難波に行き、船で金比羅に参詣、小倉から内野(このあたりの記述は簡単)を通って、後九月二十日に久留米に着いて終わる。全体に少し古めかしい感じがあり、九月二十六日にはさよの中山で、気分がすぐれないのを敢えて出立するなど、しきりに、「君の仰こと」を重視している。末尾に「日坂のむまやにてよめる長歌」二丁を付す。

閑居語家仁親王

宮内庁書陵部蔵の自筆本による。仮綴、共表紙の、写本一冊。22.8×22.8cm。五行書、五丁。外題「閑居語」、内題も同じ。末尾に「家仁」と署名。しかし内容は、儒教の教えなどを引いて、父母へ仕える道や、君臣の心がまえ等を簡単に述べたもの。全く紀行ではない。

翫月紀行加部琴堂

無窮会図書館平沼文庫蔵。板本一冊。文久三年、上毛から更級へ月見に行った紀行文。泰堂老人の漢文の跋あり。琴堂と貫乎が同道しており、二人が交代に筆をとる。発句を交えて、軽妙な洒落た筆致で、旅の趣や土地の人々を活写し、故事も引用するなど、短いが豊富な要素を持つ、巧みな作品である。

管見紀行吉見義方

岡山大学池田文庫蔵本。写本仮綴一冊。天保八年卯月二日、上野東叡山の徳川家の墓所が、前年の嵐に損じたのを修理するため、上司らとともに、その一帯を調査した折りのことを記したもの。遠山景元も営作の係として同行している。「御宮の方へ、歩をすむ、折からに、菜園の麦、小麦、大根、くたちの畑、芥子の花のこちよげなる、朝露いまだかはきもやらで、日ともに映じたる、いと見所あり。『こはおほやけの勤の労をわすれ、郊外遊覧の心地せるを』など興じ給ひて」などと、一日に五里の行程を歩いた、調査行を作者は楽しむ様子である。描写も具体的で、短い作品だが、当時の墓所の様子などがよくわかる。

寛政紀行小林一茶

「一茶叢書」五所収。寛政七年の正月、讃岐の観音寺から松山、道後を巡って、丸亀から岡山に渡り、播磨、大坂近辺を遊観する。発句が多いが、少し長い文もしばしばある。各地の俳人との交流を記す、明るい、のどかな紀行で、太平の世を讃美している。

寛保三年道行喜三二

静嘉堂文庫蔵。写本二冊。八月二十日過ぎに江戸を出発して、近江の甲賀に行く紀行文である。東海道を経て(大井川の描写が詳しい)、甲賀の油目の里に着き、数日の滞在の後、京都に赴く(以上第一冊)。京見物をして(歌人の百合女との交流あり)、大津、水口を経て、伊勢参宮をし、桑名から名古屋、岐阜を経て木曽路に入り(木曽の桟橋のことあり)、高崎、倉が野を経て帰宅する(以上第二冊)。翌延享元年の三月までにかけての非常にゆっくりとした旅である。和歌が多く、記述はしばしば簡単だが、要所々々に詳しい描写があって、しかも全体の統一がとれている。京都の名所も、他の紀行が陥りやすい地名の羅列に終わっていない。なお、「此ノ喜三二ハ平澤常當に非ず」という挿紙あり。

汗漫日記西山拙斎

大阪大学図書館蔵。写本一冊。外題は「小天地閣叢書 坤集」。10行書、八十七丁とかなりの長編である。歌人で、歌枕を訪ねての旅などしたいと願いつつ、仕事の忙しさや健康の不安などのためなかなか実現できずにいた作者が、明和二年、京都の「何がし中納言」の日光参詣の一行に加わることを、京都の友人に勧められて出発するもので、吉備から岡山、姫路を通って京都に至り、同所を遊覧の後、一行に加わって東海道へ向かう。赤坂から木曽路に入り、和田峠、諏訪、倉が野、太田、板橋、今市を経て、日光に着く。木曽路の記事が詳しいのに比べると日光の記述は簡単で、まもなく江戸に向かっている。江戸の記述もあまりない。帰途は、東海道を通り、鎌倉など途中の名所に立ち寄る。この部分の記事も詳しい。大坂から船に乗って、岡山に帰り、帰宅する。末尾に数丁にわたって紀行の制作や旅についての長い述懐がある。その後に、寛政四年に木下義質(十四才)が書写した旨の奥書があり、次に漢文の自跋がある。続いて、「去年の枝折」という芳野紀行が数丁付き、更に漢文の記が二つ付くが、いずれも、別の作品であろう。穏やかな和文だが、素直なみずみずしい感覚で、旅のさまや、心境や、目にふれたものを綴っている。長編の佳品というべきであろう。

鍼盲録斎藤馨

学習院大学図書館蔵。写本一冊。天保十年、昌平学にあったが、気分が晴れず、病に鍼をうつような気で旅行を思いたったと冒頭にあり、本来は「鍼肓録」であろう。八月末に江戸を発ち、千住から土浦、鹿島、銚子、浦賀など巡って、九月の半ばに帰る漢文紀行。安積信が批評を加えている。それに「巧於模写、真如画幅」と評するように、海浜などの風景描写が美しい。他の記事も具体的で活気がある。筑波山登山の記事も珍しい。

巌邑紀行宇都宮由的

中野三敏先生蔵。板本一冊。宝永元年九月、「書林 宇兵衛」の刊記あり。明暦三年、遊学先の京都から、故郷の岩国に帰る時の紀行文。大坂から兵庫、明石を遊覧して、船で瀬戸内海を通って岩国に至る。漢文と和文を交えて記述しており、感傷性は少なく、土地の様子や古跡の由来について述べている。湊川、一の谷、屋島など軍記物をよく引用する。時代は古いが、林羅山の「丙辰紀行」のように、近世紀行の特徴を示すものと言ってよい。

官遊紀勝渋江長伯

国会図書館、筑波大学、尊経閣文庫、内閣文庫、無窮会図書館等の蔵本による。すべて写本である。江戸後期に、幕府の御薬園掛として活躍した本草学者の長伯が、文化六年の九月から十一月にかけて、駿河・甲斐・伊豆・遠江の諸州に、幕府の命により、薬草を採取するための旅をした折りのものである。しかし、いわゆる採薬記に比すと、きわめて文学的であり、絵図も交えて、読みものとして充分に意識されている。無窮会のものは、その一部で、その他の諸本はいずれも四冊から八冊と大部の、長編紀行で、質量ともに、近世紀行の代表作の一つであろう。後半に至って次第に、漢文調から和文調に変化し、描写が詳しくなっている。なお、拙稿「渋江長伯『官遊紀勝』について」(福岡教育大学紀要三十三号)を参照されたい。

喜雨行記合離王

京都大学図書館蔵本。板本一冊。刊記なし。外題「後神風集」。安永七年、大坂から京都、草津、鈴鹿山を経て、伊勢神宮に参詣した漢文紀行で、ほとんどが漢詩である。旅先での詩の贈答が多く含まれ、風景描写などもあるが、さほど珍しい記事は見えない。作者は、合麗王、また細合離と文中にあり、細合方明であろう。

癸卯游草荻角兵衛

大阪大学図書館蔵。写本一冊(「庚子游草」と合)。10行書、16丁。頭欄に作者は肥後熊本藩士で、天保十年の遊歴の記録とある。長州、肥前の二項目に分かって、一つ書で、土地の風俗や産物や歴史、政治などを詳しく記す。前書きなどはない。奥書もなし。

己亥紀行奥田士元

内閣文庫「三奇一覧」の附。外題は「洞津先生紀行」。内題「己亥紀行 附録」。年代は不明。文政頃の写か。四月、宮子亮等と熱海に遊び、その後、勢州に帰る途次の漢詩三十八首である。東海道を通って、熱田から船に乗る。逆輪川(酒匂川)、節川(富士川)などの詩で、旅の様も窺われて面白い。末尾に委懐堂主人のものらしい、甲寅の夏、暑さを紛らすため、これを書写した旨の奥書があるが、「三奇一覧」は表紙や中表紙の目録と内容にも、ややくいちがいがあるなど、成立等はまだ検討の要がある。

帰雁中村伊太夫

「南部叢書」六所収。文化十年、クナシリ勤番の武士で俳士の作者が、任地に赴く際の江戸から盛岡までの短い紀行文。玉山六兵衛がクナシリで写して「魯国船渡来記」の前に記したもの。冒頭に老父母との別れの辛さを言う。発句を交え、記述は文学的だが簡単である。「おくのほそ道」の影響が見える。

帰雁記松浪某

新潟大学図書館蔵。写本一冊(「おくれし雁」と合)。「大君のそのかみより世々を経てしろしめす国の事しらずしもやとおもひ、遠きをも近きをも、見聞しに任せて聊書記しぬ」と冒頭にあって、一つ書に越前国の社寺や古跡について記したもの。古歌や地誌を引いて、記述は詳しく明瞭である。書名は末尾の歌「君が住越路の春を人問ば田の面もわかず帰る雁金」による。正徳二年の奥書あり。更に、安永二年に帰橋子、寛政十年に藤井五十足が写した奥書がある。

紀行(吉田重房)

国会図書館「静山叢書」の内。内容は吉田重房(菱屋平七)「筑紫紀行」である。ただし冒頭の静山の序文は、紀行文や旅についての考察があり、また末尾に附された「摂州名区抜抄」には益軒の影響も見えて、興味深い。写本二冊。茶色表紙、左肩白題簽。外題「静山叢書之内 紀行 上」。10行書。第一冊107丁、墨付106丁、他に地図1枚。第二冊127丁、墨付126丁。末尾48丁が「摂州名区抜抄」である。

紀行引路羅省庵編

国会図書館蔵。板本一冊。弘化三年自序。末尾に「有分軒蔵刻」とある。紀行の書き方について記したもので、使用することの多い用語や文字、また歴代の年号などを辞書の体裁で示し、旅にあたっての、紀行を記す際の心がけを箇条書に記す。最後に文例として、「入蜀記」「土佐日記」を抄出する。紀行文研究の上の、非常に貴重な資料である。(福岡教育大学特書課程・前川直美さんの協力による。)

癸庚紀行詩平田宗敬

大阪大学付属図書館蔵。写本一冊。16丁、13行書。天保癸卯から庚子にかけて、作者が京都に滞在し、また厳島や金比羅に参詣した折によんだ、90首近い漢詩集。宮維清や今藤訥庵らの跋文多し。

紀行黒うるり山河房

天理図書館蔵。一鼠と烏朴合作の奥州紀行。冒頭に涼袋の序文がある。句もあるが、文も簡略ながら多い。江戸から日光道を経て松島を訪れ、仙台まで行って帰途につく。末尾に再び涼袋が二人が、この紀行を持って帰ってきた時の様子を記しており、紀行文制作の過程を知る一材料となる。全体に短く、簡単な記述ながら、旅の様子をよく伝える作品である。(福岡教育大学国語科・平井智加香さんの協力による。)

紀行雑録伊藤東峯

天理図書館蔵。横本一冊の写本。目録には、文政十年の成立とある。京都を出発して南紀を巡る二週間余の旅の間に記した日記で、その前後に土産物や宿屋についてのメモ、旅に関する諸注意が細かく書きこまれている、実際に使用された備忘録である。当時の旅を知る上に極めて貴重な資料である。

紀行詩巻後藤文煕(庸)

刈谷図書館蔵。写本一冊(「遠遊草」と合)。天明元年、但馬温泉に浴した時の漢文紀行。佐屋のあたりから、鈴鹿、瀬田を経て京都に至り、遊覧の後、奈良、大坂に行き、兵庫、明石を見物して、高砂から但馬に至る。温泉に浴して、帰途は天の橋立、宮津に立ち寄り、京都から美濃路を経て戻る。ほとんどが漢詩で、風景描写が多いが、古戦場にも興味を示している。冒頭に、磯谷正卿、松平秀雲、岡田挺之(序文も)らの餞別吟があり、交流の様子が知れる。

紀行集

京都大学図書館蔵。写本一冊。外題に、「雲史伊勢紀行 本居対話 吾妻の閑書 打出の浜の記 全」とあり、この四編が収められる如くであるが、「本居対話」四丁は、「雲史伊勢紀行」二十八丁の中に誤って挿入されているようでもあり、両者の関係は判然としない。「伊勢紀行」は天明八年のもので、句を交えつつ、図なども用いて、伊勢の様子を描いている。「吾妻の閑書」は天明七~八年の江戸勤番の折りに詠んだ句を並べて、説明の文を添えたもので、十九丁。「打出の浜の日記」は、烏丸光栄卿が延享三年、京都から東海道を経て江戸にゆき、木曽路を通って帰宅したもの。落ち着いた和文で、両街道のさまを描いている。三十三丁。

記行七種

九州大学図書館蔵。写本一冊。比較的短い、和文紀行を七編収める。はじめから、水無瀬氏卿「隠岐記」2丁、右京太夫「大原記」2丁、小野山僧磐斎「大原紀行」14丁、平巌仙桂「北方紀行」(漢文、部分)7丁、同「甲辰紀行」(漢文)10丁、和田子成「丹後海陸巡遊日録」(漢文)11丁、盤斎法師「芳野花見記」4丁。和文紀行は、いずれも和歌を交えて優雅に風景等を描写する。「北方紀行」は、倶利賀羅峠、神通川、市振、山中など、「甲辰紀行」は東海道、いずれも漢詩集である。「丹後海陸巡遊日録」は、天の橋立の描写など詳しい。奥書等はなし。

記行文

九州大学図書館蔵。写本一冊。天保四年四月三日に、江戸を出発し、木曽路を経て京都に入る。更に、大坂から船で、瀬戸内海を通って、筑紫に着く。帰途は、六月十五日から滞在していた久留米の城を、九月三十日に出て、久留米の城に滞在する。六月末にここを出発し、高良山に参詣し、熊本に至り、太宰府、宇美八幡、箱崎、宗像に参詣、小倉から下関に渡って、阿弥陀寺に参詣、舟木、今市尾形を経て厳島に参詣、岡山、明石を過ぎて大坂に着く。ここの城にしばらく滞在し、京都から東海道を経て江戸に帰る。帰途の東海道の記述は簡単。往路の木曽路を始め、他の部分はかなり詳しい。ユ-モアも交えた堅実な文体で、土地の風俗等について、記している。特に、熊本での、犬追物の行事の説明が珍しい。文中の但馬守の質問から、熊本の風呂屋が有名だったことも、うかがわれる。作者は不明だが、さまざまな大名と交流しており、久留米の当時有名な、柳原庭園の描写もある。

紀行丸合羽舎田

天理図書館蔵。板本一冊。刊記なし。天明六年、八軒家から河舟で京都に向かい、東海道を経て江戸に至る。発句が多い。吉原の記事、やや詳しい。帰途は同じ道筋だが、四日市から伊勢神宮に立ち寄っている。記述は、概ね簡単だが軽妙で、鋭い観察力が見える。(福岡教育大学・山浦美幸さんの協力による。)

紀行右よし野猶貫

国会図書館蔵。写本一冊。24.4cm×17.2cm。9行書で73丁、絵あり。表紙は青に桐と雷紋つなぎ地模様。中央に金ちらし白題簽。外題「紀行右よし野」。内題なし。安永八年の奥書。冒頭に「貝原氏のすさみ置かれし『東路の記』、世の中のたからとなりて」「篤信先生の尻馬に鞭うち、武さし野の月に花さかせて見んと」などの記述があり、益軒紀行の影響があろう。行先は、木曽路、日光、東海道など各地にわたり、発句を交えて、土地の生活、旅の様など、平明な文章で詳しく無駄なく記してある。

紀行類聚

九州大学図書館蔵。写本六冊。大本。十一行書。他に内閣文庫に二巻二冊本あり。同一か否か不明である。以下、九大本について記す。収録される作品は、第一冊、今川貞世「厳島詣の記」(十四丁)・同「道行ふり」(二十五丁)。第二冊、頓阿「高野日記」(九丁)・宗祇「筑紫紀行」二十六丁。第三冊、「宗長日記」十七丁・細川幽斎「九州道の記」二十一丁。第四冊、源義詮「住吉詣」四丁・藤原実隆「すみよし紀行」十二丁・堯恵「善光寺紀行」六丁・同「東国紀行」十四丁。第五冊、平氏康「武蔵野紀行」三丁・正徹「関東海道記」十一丁・藤原光廣「春乃曙」十丁・三條西公條「高野参詣記」九丁。第六冊「高野参詣記」(続き)・一条兼良「関藤川記」十九丁。寛延元年香花園高武写の奥書を附すものがある。いずれも、美しい字体で、丁寧に写されている。なお、作品の大半は、帝国文庫「続紀行集」及び「続々紀行集」に収録されているものである。

紀行六種

静嘉堂文庫蔵。写本一冊。漢文紀行六編を収める。関子敬「中山紀行」(23丁)は、京都から中仙道を経て、上毛に帰る。軍記物などを引いた歴史的考察や風景描写が多い。守屋元泰「西遊記」(10丁)は、友人二人と近江、京都、南紀、和泉、摂津、播磨、湯谷、箕尾などを巡る。益軒の語を引用する。林信勝「東行日録」(4丁)は、京都から江戸までの東海道の紀行で、珍しい記事も散見する。藤忠統「西記」(6丁)は、享保六年の江戸から京都までの東海道の紀行で、簡明ながら私的な記事も記され、描写は的確である。上柳美啓「東遊紀行」(17丁)は、京都から東海道を通って富士を見に行った時のもので、途中、秋葉山にも立ち寄る。増島固「壬戌于役志」(47丁)は、享和二年、大坂へ兵役のために赴いた時のもので、江戸から東海道を通り、京都から大坂にいたる。途中、鎌倉にも立ち寄る。長編で、故事なども引き、描写は具体的で詳しい。奥書などはなし。

己巳紀行浅利信尹

韓国中央図書館蔵。写本一冊。寛延二年、主君に従って、江戸から中仙道を通って木曽路に入り、下の諏訪から高遠の城に着くまでの紀行文。和歌を交えておだやかな和文で、簡略に記する、自然で素直な旅の記である。

己巳紀行貝原益軒

板行され、全集に収録されている「諸州巡覧記」等と内容はほぼ同一。こちらが、より原形に近い。拙稿「貝原家蔵『東路記』の変容」「己巳紀行の場合」(江戸時代文学誌、3・4号)を参照。

癸巳紀行林春徳

国会図書館蔵。写本一冊。承応二年、将軍の日光参詣に従った時のもの。漢詩を多く交えるが、記事は豊富で珍しいものも多く(琵琶法師を見たこと、路傍で死刑になった者を見たことなど)、観察は正確であり、自己の見解もよく述べて、近世紀行の傑作の一であろう。軍記物関係の記事が多いのも、特徴である。

驥蟲日記河崎弼(敬軒)

中野三敏先生蔵。板本一冊。刊記なし。文政三年正月十九日から三月九日にかけて、江戸から伊勢へ赴いた折りの漢文紀行。菅茶山と同行し、二人の旅中の詩をともに収めて、この書名を、つけている。出発は二月二十六日で、それまでは王子や飛鳥山など、江戸の各所に遊び、谷文晁、亀田鵬斎らとも交流。旅に出てからも、人々との交流が多い。茶山の序文、立原翆軒らの跋あり。

癸丑遊歴日録吉田松陰

「吉田松陰全集」第十巻所収。嘉永六年、正月から六月にかけて萩から中国地方を経て、大坂、奈良、京都を通って、木曽路に入り江戸から鎌倉、浦賀に赴く。漢文調の歯切れいい文体で、外国船の事、政治情勢、土地の人々の生活や産業、旅の様子などを描いている。当時の狂歌なども紹介する。末尾に、九州や東北の各地への旅程の簡単な覚書あり。

帰尾紀行堀杏庵

「杏庵紀行」を見よ。

癸未紀行林道春

中野三敏先生蔵。板本一冊。正保二年、風月宗智刊。寛永二十年に命をうけて江戸から京都へ赴いた、東海道往復の漢文紀行。多く漢詩を交える。内容は、感傷性を排し、具体的で、俗事にもふれ、興味深い記事が多い。

君のめぐみ本居宣長

帝国文庫「続紀行文集」所収。寛政六年、紀州侯に招かれて、紀伊に赴いた時の作品。同行している本居大平とともに、宣長は近世紀行文を文体や内容の上で、散文学として一つの完成にまで導いた人であるが、この作品には、そういった特質は現れておらず、和歌が中心で、記述らしいものはほとんどない。全体の感じは明るく、人々との交流がよく描かれている。

紀遊文稿大槻平泉

宮城県立図書館蔵。写本一冊。文化二年二月、広島に行った時のもので、厳島について詳しく記している。漢文紀行。それは5丁と短く、その後に、15丁の「答金熊介書」と1丁の「隠史六略序」がつく。いずれも漢文。前者は、自分のこれまでの旅行と見聞した土地について述べたもので、美景論なども見える。

朽鞋雑話徳永信之

宮内庁書陵部蔵本(写本一冊。地模様ある緑色表紙、27.3×19.6cm、十行書六十二丁、墨付五十五丁。左肩白題簽、外題「旅中随筆 朽鞋雑話 完」。文化甲戌秋、川崎杜春序。「対梅宇立萩原乙彦蔵干俳書二酉精舎」朱印あり。享和壬戌年、「豊後岡の太守のみたちに立入れる工商の輩」が伊勢宮に詣で、更に大和、初瀬、大峯、和歌の浦、河内、大坂、京、辛崎、草津、美濃路、善光寺などを巡った折りの旅を題材に、「伊勢古市」「旅ハ憂き物」「加田の風俗」「西山巡」などの項目をたてて、旅の風情を記したもの。南谿風の面白さがある。題名は、高雄越えで道に迷った時、落ちていて道しるべとなった古草鞋による。自序には「勧懲の意」のために、この紀行を記した旨の記述なども見えて、注目される。享和二年、徳永信之著の奥書あり。

杏庵紀行堀杏庵

国会図書館蔵。写本一冊。茶色表紙、左肩白題簽。24.0×17.0cm。中(原)表紙は青、左肩白題簽。外題「杏庵紀行」、内題なし。10行書。「大惣」の印あり。「大野屋」文字入り黒枠紙を使用する。
冒頭19丁、内題なしの、寛永四年二月廿二日の鳴海~三島の東海道紀行。漢詩を交えて、記述は特に感傷的ではない。動植物のこと多く出る。「吾君亜相公述職ノ為」江戸に行くのに従ったもの。 次に、内題「東行日録」。10行書、18丁。寛永七年、亜相公に従って、尾州名古屋から江戸に行った東海道の記。戸塚で、終わる。個人的記事(主君のそれも含めて)、軍記の引用(歴史的記事)多い。感傷性は薄く、古い紀行としては注目すべきか。
次に、「東照宮大権現祝詞」などの漢文が5丁。
次に、内題「帰尾紀行」。10丁。漢文。寛永十二年八月、亜相公に従って、江戸から帰る時のもの。正保四年写の奥書あり。感じは前二点とかわらない。
次に、内題「中山日録」。25丁。漢文。寛永十三年、亜相公に従った日光行。中仙道を経由する。やはり食べ物のことなど多く、面白い。佐野から栃木へ出て、日光に至り、江戸に帰る。法会のさまなど、ややわかる。奥書なし。

近治可遊録広瀬蒙斎

国会図書館本による。「国書総目録」には、版本とあるが、写本二冊である。白表紙、左肩白題簽。23.1×15.8cm。第一冊44丁、第二冊44丁。10行罫紙使用、「小沢文庫」等朱印、朱・青点多し。外題「近治可遊録 巻一」、内題なし。冒頭に明治十年十一付の小沢圭の識語があって、作者が奥州白河藩の儒者であること、明治維新後に家が衰え、本もなくなり、この書も巻二及び巻五以下が欠することを記す。内容は漢文集で、紀行以外のものも多く混じている。ただし三、四集の「黒羽紀行」(2丁。「典」と署名)や、「甲子湯山小志」(5丁。「成器」と署名)などには、土地の風俗なども、しばしば記されるが、これは作者以外の白河藩の人々の手に成るものか。

久佐麻矩羅速水行道

九州大学図書館蔵。写本三冊。嘉永五年、作者が主君に従って、美濃の郡上に行った折りのものである。郡上から筆を起こす。その後、一行と別れて一人で、岐阜に出て大垣を経て京都から舟で大坂に至る。天王寺など見物して、湊川から明石へ行く(以上第一冊、上巻)。明石を見物の後、湊川に戻り、尼崎から奈良へ行き、見物の後、京都へ戻る。遊覧の後、近江へ行き、石山寺、蛍谷を見る(以上第二冊、中巻)。その後、熱田神社や箱根の湯、鎌倉などに立ち寄りつつ、東海道を通って帰る(以上第三冊、下巻)。冒頭に国の成立や、紀行文についての長文の述懐あり。国学者の立場から、紀行を考察している。全体の記述も、国学者風の丁寧な和文で、故事なども、よく引用し考察している。やや平板な印象もあるものの長編の力作であろう。

九条尚忠御来行記九条尚忠

日本史籍協会刊「九条尚忠文書」二に活字あり。「御東行記」とする。嘉永六年十一月に徳川家定の将軍宣下に参向のため、京から江戸へ下った折の東海道紀行。和歌も多く優雅な和文で記される。後半は和歌が少なく、記述が多い。しかし内容は名所に関する記述や美文の風景描写などで、当時の社会状況などはうかがわれない。なお、同じ「九条尚忠文書」二の中に収録する「桜田一見余聞」中にも、一部分、紀行が存している。桜田門の事件に関する書類中、高橋多一郎父子、金子孫二郎らの日記がそれで、こちらは、より記録的で、旅の実態や時代の反映なども見える。

口まめ草大原幽学

「大原幽学全集」に翻刻あり。文政九年、三十才の時から、天保十三年、四十六才までの十七年間に、大坂や江戸の近郊、四国、木曽路など、諸国を遊歴した日記である。口まめに和歌や俳句をよんでいるのが、題名の由来という。軽妙な筆致で、旅の実態をよく描く。同行の人々や、茶店の老婆、雲助らとの会話には、しばしば「膝栗毛」風の口語調が交り、「夫れよりひざくり毛の真似して行べしとて、互ひに戯れつ」などと、各所に同書の影響が強い。

雲鳥日記春湖・蒼山

豊橋市立図書館蔵。写本一冊。冒頭に「書をよむ事百巻ならずして、たに風月をあざけるもの二人、冬籠りのつれに『奥の細道』を取出て、うたがはしき處々、問も答もするついで、かる跋渉もまなびみんとおもふころ起れり」とあるように、「おくの細道」の影響がある。安政二年に名古屋を出発、伊勢参詣をはじめとして、各地を巡る。発句を交えて、記述は比較的、簡単である。九州の部分が、かなり多い。

栗原日記松涛軒

宮城県立図書館蔵。写本一冊。嘉永二年、東北の松山から、近郊の浜田、登米、栗原、塩釜等を巡った遊覧記である。短い作品であるが、楽しげで、茶店の様子、村人に医者と間違えられて、灸治を施すことなども詳しく記してあって、旅の雰囲気をよく伝える。冒頭に、これは塘翁が秘蔵していた軸物で、書写を許されたが、虫損がひどい旨の、無署名の書入れがある。

月園翁旅日記源真澄

国会図書館蔵。写本二冊を一冊に合。茶色表紙、右肩白題簽(第一冊は剥落)。11行書、26.1×18.7cm。各冊末尾に、天保十年、景光写の奥書あり。外題「月園翁旅日記」。内題なし。第一冊に「上つふさ日記」7丁、「雨降山の日記」3丁、「上つふさに再遊る日記」25丁、「はそのしつく」5丁、第二冊に「筑波日記」11丁、「かみつふさにみたび遊る日記」19丁、「杉田日記」12丁、「かみつ総に五たひ遊るにき」7丁を収める。いずれも天保頃の紀行で、和歌も交えるが、少い。国学者風の、丁寧でまじめな紀行。「杉田日記」には、清水浜臣との交流が見える。字は少し、読みにくい。

甲寅紀行水戸光圀

旧彰考館蔵。「房総叢書」八に一部分、翻刻あり。延宝二年、光圀が四十才の時、史料調査のため、房総から鎌倉へ赴いた紀行という。翻刻分では四月二十二日から五月一日までを日付にしたがって記している。歯切れよい文体で、日々の行動や、寺社をはじめとした土地の古跡について述べる。注によれば、二日に鎌倉に入り、九日に江戸に帰宅している。

弘化乙巳紀行今井克復

「碧冲堂叢書」65所収。簗瀬一雄氏の解題がある。大坂の総年寄で、中島広足門下の作者が、弘化二年、任地の長崎から大坂に帰る時の紀行。長崎から小倉に赴き、瀬戸内海を船で大坂に至る。短く、和歌が多く、記述は簡単であるが、癖のない穏やかな和文である。広足の添削が多い。

高原院殿尾府御発駕御道之記徳川春子

鶴舞図書館蔵。写本一冊。寛永十年四月、名古屋から江戸への東海道の旅である。和歌を交えた和文で、短く、記述も簡略である。時代が早いのと、女性であるためとであろうか、旅の辛さを強く感じており、そのような述懐が多い。

甲戌紀行宝井其角

帝国文庫「続紀行文集」所収。元禄七年、友人達とともに、江戸から東海道を経て、伊勢、紀州、大坂方面を遊覧した時のものだが非常に短く、大半は発句である。ただし、雰囲気は明るく、悲壮感などは見えない。

江左翁記行抄宝晋斎江左

天理図書館蔵。写本一冊。表紙に「宝晋斎江左翁 洛陽 熱海 麻生 防長 身延山 日光山 佐倉 記行」とある。内容はその通りで、享和元年から、天保三年の間に行った旅行のそれぞれの紀行文である。いずれも比較的短いが、歯切れよい文章で具体的に記していて、注目すべき記事も多い。すべてを書き留めるのではないが記事の選択が巧みであり、詩人の目を感じる。後になるほど句が減って、記述が増える傾向がある。

庚子道の記武女

帝国文庫「続紀行文集」・有朋堂文庫「日記紀行集」所収。享保五年、名古屋から江戸へ行った、東海道の紀行文。作者は白拍子の類の女性とも言われ、短編だが、和歌や漢詩も交えた流麗な文章で時に笑いもこめながら旅の実態をよく描き、名作として知られる。

庚子游草永山十兵衛

大阪大学図書館蔵。写本一冊(「癸卯游草」と合)。10行書、25丁。天保十一年、東北方面を巡った時のもので、水戸、仙台、米沢、会津の項目に分かって、土地の風俗や政治法制等について、漢文で記す。日付などは無く、紀行というよりは報告書の体裁であるが、興味深い記事が多い。中表紙題に「肥前永山十兵衛著」とあり。奥書なし。

甲申旅日記小笠原長保

帝国文庫「続々紀行文集」所収。文政七年、江戸から浦賀へ行った時のもので、東海道の様や、伊豆、鎌倉のことなどが記されている。狂歌めいた歌など交えた明るい雰囲気の中に、寺社の由来、人々の生活、動植物などについても興味を抱いて、細かく記した、内容豊かな作品である。近世紀行の名作の一つといってよい。

高麗渡藤原忠泰

無窮会図書館神習文庫蔵。写本一冊。秀吉の朝鮮出兵の時のものか。近世の作ではないが、前半は高麗の歴史を紹介、後半は船旅を中心とした従軍記で、当時の武将の心理などがうかがわれる。

心つくし税所敦子

屋代熊太郎氏注解「心つくし」(泉文社刊)による。嘉永六年、鹿児島藩士の夫、篤之に先立たれた二十八才の作者が、幼い女子を連れて、夫の郷里の鹿児島へ赴く時の紀行文。前半は夫の死と、その後のことが記されている。二月に京都を出発し、駕籠に乗って陸路で中国地方を過ぎ、六月初めに鹿児島に着く。吉備津神社、厳島などに参詣し、山鹿温泉にも興味を示している。それほど珍しい記事はないが、女流紀行らしい、細やかな筆致で、自身の心情や美景の描写を行っている。

こゝろの旅の日記古軒

内閣文庫蔵。写本「墨海山筆」三六(国書総目録は二四とする)所収。十行書、八丁。作者が和歌を指導していた、准后一品の宮が江戸から京都に移るにあたって、河崎まで見送って別れを惜しむ。それ以後、宮が旅して行く道のさまを、日を追って思い描き、「八日には、ひねもす富士を見給ふべし」「しふしちにちには、せきのむまやにまくらからせ給ひなむ」と、その場の情景に思いをはせて和歌を詠む、変わった形式の紀行文である。当然、記事は常套的で珍しいものはないが、「いでや御かどでのとき御なごりしたひて、そへたてまつりし心の、猶御あたりさらずありなむを、『しぞけ』とも、のたまはで、さいはひにそひたてまつらむは、わが身よりわけしころながら、へだては、またうらやましき物におもはざらんやは」などと末尾に述べる、その心境は興味深い。その後に「此法眼古軒者姓都築氏江府下谷人也 天保七丙申年仲冬上旬写之 梅處閑人旭岱子」と記す。

五種日記小津久足

無窮会神習文庫蔵。写本一冊。天保七年「真間の口すさみ」、同九年「一時のすさみ」、同十一年「三栗日記」、同十二年「花乃枝折」、同十三年「花衣」を収める。「一時のすさみ」も横滝山の桜を見に行く、花見の記である。いずれも、なだらかな和文で、旅の様子や土地のさま、伝説などについて述べる、明るい雰囲気の長編紀行で、近世紀行文の一典型と言えよう。作者には、他にも紀行文が多く、近世紀行文作家の一人としての、総合的な研究が必要である。

今初の径草五藤直準

国会図書館「土佐国群書類従・紀行」百五に所収。内題「今初の径草」。10行書、6丁。慶応三年十一月、高知に行った紀行文。「あきの里」を出発して、西浜、新城などを経る。歌が多く、文は少ないが、下田川の乗合舟の描写など、興味を引く記事もある。

胡蝶の日記白井千代梅

「荘内叢書」第一輯、「荘内女流文集」所収。国学者白井重固の孫娘にあたる作者が、母とともに、鳥海山のあたりから、吹浦の浜を見物に行った時のもの。天保九年、玄斎の序跋がある。和歌を交えて、中途の風景を記しており、風景描写が非常に巧みで美しい。険しい道を登る人足たちの苦労を思いやったりする、細やかさもある。象潟で芭蕉の古跡など身ているのも、資料として珍しかろう。年代は不明だが水無月の旅で、しばしば暑さになやまされている。末尾に、この旅はすべて夢であったと記すのは、あるいは、女性の長旅に対する批判を顧慮してのことか。

小西遊草細合方明

中野三敏先生蔵。板本一冊。刊記なし。寛政五年四月、備前の河本一阿に誘われて、備前や讃岐を遊覧した時の、漢文紀行。江戸を出発して、大坂で旧知の人々と交流し、船で明石に行き、更に船で岡山や吉備津宮を訪れ、金比羅や屋島にも行く。その後、姫路に戻り一の谷や甲山を巡って大坂に帰る。同じ作者の「喜雨行記」に比すと、記述はかなり詳しく、興味深い記事も多い。また、古戦場をよく見ており、「平家物語」をしばしば引く。

小春紀行大田南畝

「大田南畝全集」第九巻所収。文化二年十月、長崎から江戸への帰途の記。他の大田南畝紀行と同じく、路傍の風物を細かく観察し平明な和文で記している。神崎や太宰府を経て、小倉から下関へ渡る。その後、珍しく陸路を通って中国地方を通過、大阪から東海道に入って、江戸に帰る。冷水峠、赤間神宮、厳島など詳しい。三巻のうち、主として上巻は九州、中巻は中国、下巻はそれ以後の記事を収める。南畝が、よく注目する、店の看板に関する記述が少ないのは、田舎が多くて看板そのものが無かったためか。東海道、関西では、他の紀行と記事が重複しないよう工夫している。

御入国之記伊達吉村

宮城県立図書館蔵。写本一冊。宝永元年五月、江戸から領地へ帰国する折りのもの。和歌を交えて、落ち着いた和文で綴る。記述は簡明だが、淡々とした中に、旅の風俗、土地のさまなど、気どらずによく記し、初期の名作といってよい。途中、日光に立ち寄る。また故事や古歌、古戦場にもふれている。

小森政方旅行記並中院通躬卿記御目見之次第小森政方

無窮会神習文庫蔵。写本一冊。宝永三年四月、藩命による鹿児島から江戸への旅。女房たち六人を連れているのが珍しい。文章はやや古めかしく、記事の量なども全体に統一がない感じもあるが、女性たちに仕えて護りつつの旅の様子がわかる。京都での通躬に和歌の指導をうけた時のさまが非常に詳しく、和歌史の上の一資料ともなろう。奥書によると政方自筆本の後写である。

梧楼日記江 五郎

「南部叢書」六所収。作者が石巻から江戸へ出て来る、六月三日から七月七日の漢文紀行である。それほど長いものではなく、記述も簡単だが、旅中の出来事や、交流した人名などが明確に綴られている。吉田松陰、宮部鼎蔵との東北旅行の数年後の旅である。

ころも手の日記斎藤彦麿

無窮会神習文庫蔵。写本一冊。文化七年二月、友人川北常道に誘われて、鹿島、筑波、香取、日光などの遊覧を思いたって、出発する。和歌を交えた平明な和文で、描写は丁寧だが、くどくなく、わかりやすい。同行者のこと、土地の人々のこともよく出る。日光は日数が足りず、行っていない。季鷹、千蔭、春海らの名も出る。「文化七年四月十五日 藤原彦麻呂〔花押〕」の奥書があるが、後世の写である。

Twitter Facebook
カツジ猫