近世紀行文紹介江戸の知識人と旅
日仏会館・國學院大學博物館連携ワークショップ第一回(2016・10・4)資料
江戸の知識人と旅
1 旅と紀行制作
「国書総目録」等によると、江戸時代の紀行は版本写本合わせて二千五百点は超えるだろう。
書いているのは武士、学者、医師、商人、僧侶など、一定の財力と教養がある、知識人、文化人と言われる人が多い。女性も一定数の作品を残している。農民、漁民など、いわゆる庶民層の作品は皆無ではないが非常に少ない。伊勢や金毘羅への参詣をはじめとする庶民の旅が盛んだったことは、滑稽本「東海道中膝栗毛」その他を見ても明らかで、これらの人たちは旅をしても紀行を記すことはなかった。言いかえれば、江戸の知識人にとっては旅することと紀行制作はかなり密接に結びついていた。
その中でも長途の旅と大部の紀行制作を行ったのは、前期の貝原益軒、石出吉深、松尾芭蕉、中期の本居宣長、渋江長伯、高山彦九郎、橘南谿、古川古松軒、菅江真澄、遠山景晋、吉田桃樹、後期の渡辺崋山、中島広足、小津久足、松浦武四郎といった人々であり、更に加えるなら松平定信、大田南畝、清水浜臣、渡辺政香なども一定数かつ内容の豊富な紀行を書いている。また、これ以外に数は少ない短編でもすぐれた作品を残した人は多い。中でも中期の蝦夷紀行や後期の国学者の紀行などは作品群として注目すべきである。
彼らの旅に出た理由や、旅に求める精神が、これらの作品に直接に反映されるとは限らない。たとえば幕末の勤皇家日柳燕石の長崎紀行「旅の恥かき捨の日記」は、彼の勤皇思想を成熟させた重要な旅といわれる旅行を題材とするが、その内容は終始楽しげで活気と笑いに満ちた洒脱な見聞録と体験記で、思想の成長や深化をうかがわせる内省的な記述は皆無である。
〈「旅の恥かき捨の日記」より、長崎の記事〉折節、涼み棚場のやうな高き処にて、阿蘭陀人酒のみいたりければ、其下江舟さし寄てつく/\見れば、顔白く鼻高けれど、髪はちゞんであかき事、南蛮黍の毛の如し。其側に丸山の女郎と思しき者、二三人並居いたり。こひつも頗るインランダ人と見へたり。
対馬邸の前にて朝鮮人を見るに、顔黒く惣髪にて山伏の姿に似たり。謙益ぬし烟草をのみ居たりしが手を出して乞ふやうにすれば、少しひねりてやりければ大いに喜び、我も/\と来たりてもとむ。
(ちょうど、涼み棚のような高い場所でオランダ人が酒を飲んでいたので、その下に船を近づけてじっくり見ると、顔が白くて鼻が高いが、髪がちぢれて赤いのはとうもろこしのひげのようだった。そばに丸山の遊女らしい女性が二三人居た。このオランダ人も大いにインランダ人にちがいない。
対馬屋敷の前で朝鮮人を見た。顔が黒く髪は長くたらして、山伏のかっこうに似ていた。謙益氏がタバコをのんでいたら、手を出して、もらいたそうにするので、少し紙に包んでひねって与えると大変喜んで、我も我もと次々に来てもらおうとした。)
したがって、彼らの紀行をただちに彼らの内面を示す資料として見ることはできない。そのことを確認した上で、紀行を通して彼らの旅に対する意識や、それを通して見えてくるさまざまな価値観を考えて見たい。
2 公務との関わり
紀行作者の中には各藩の藩士や幕府の官吏が多い。典型的なのが、徳川吉宗の命で薬草を探すために各地を探訪した博物学者たちの採薬記と、田沼時代の蝦夷開発で北海道調査に赴いた幕臣たちの蝦夷紀行である。彼らは公命として辺境や僻地に向かい、求められた調査に砕身した。その際に記した紀行は科学者や探検家、かつ能吏でもある知識人の冷静で果敢な仕事ぶりを示して読み物としても面白く、江戸紀行の特徴である細かく正確な観察と具体的な描写が満載だ。しかし作中にしばしば、「正式の記録は他にもっと詳しいものを提出した」との記述があるように、正式の報告書は別に提出されていて、これらの紀行はそれに記すことはなかった余技として彼らは書いた。その中には写本で読まれていた植村政勝「諸州採薬記」が、やがて同じ内容の「本朝奇跡談」として読本風の体裁で刊行されたように、読者に歓迎されたことがわかるものもある。
このように仕事としての旅を精力的に取り組む中で、仕事としては必要でないのに書き留めずにはいられない、自身の充実や興味を見出す知識人は多かった。
彼らはまた、公務としての移動を利用して旅を楽しみ、あるいは仕事を引退した後や余暇に行う個人的な楽しみとしての旅にそなえて情報収集を行っていた。貝原益軒は江戸と福岡を往復する際の行程に東海道や中山道など異なる街道を使う許可を得ている。また山本正臣は「あたみ紀行」(文化四)の中で、公務で何度も通った道を今回は私的な旅なので、ゆっくり楽しもうと思っていたら、悪天候でままならなかった不運を嘆く。
朝とく宿りをたつ。暁より雨ふりいでいぶせし。みな、みのかさ打きつゝ箱根山をのぼる。年頃あまたたび通ひつる道なれど、いつも公事にかゝづらひて道いそげば、心まゝにも所々尋る事もなきを、こたびはのこるくまなくめぐりみばやとおもへど、雨いたうふりて心にもまかせず。
彼らの日常は公私ともに多忙であり、仕事としての移動や滞在をこのように利用することは当然だった。筑波山を見上げる場所に住んでいても、何年も登山がかなわないなど、彼らは知識人とはいえ、職場と家庭で充分に社会人としての役割を果たしていたことがわかる。
3 情報収集と検証
彼らが仕事とは無関係に思う存分に旅を楽しめるのは、隠退した致仕後もしくは何らかの不遇で職を離れたとき、あるいは休暇を願い出て許可されて短い期間の遊覧に出かける時だ。その目的はさまざまで、湯治、花見、登山、神社仏閣への参詣などである。湯治は療養という名目があるので、過度な遊興というよりは静かで穏やかな滞在になる。花見は近郊の観梅などもあるが、吉野の桜を見る場合などは満開の時期に到着できるように旅程を工夫することに精力を使っている。登山や参詣は信仰心は薄く、むしろ考証が多い。特に富士登山をはじめとする著名な山では商業化した案内者たちと過激に対立して迷信を排除する態度が目につく。このように彼らは、心を解放し日常の悩みを忘れるというよりは、日常以上にパワフルでエネルギッシュで、かねての信念や事務能力を充分に発揮して旅を運営している観がある。
彼らが特に情熱を傾けるのは、土地の人々や湯治地での滞在客どうしから得られる情報の交換であり、またそれを書き留めて自分の故郷や周囲の人々に広めようとすることである。このような情報網は当時の知的ネットワークとして、かなり有効に機能していた可能性がある。
その際に彼らの記述のしかたには、「あまりにも荒唐無稽のものはとりあげない」という選択をする者と、「他愛もない怪しい話だが、とにかく全部書いておく」という姿勢の者とがいる。もちろん殊更に書かないで選択している場合もあるだろう。国学者の場合、仏教徒が伝えた説話を嫌って書かない場合がある。
蝦夷紀行や採薬記の作者には博物学者が多く、江戸紀行の基礎を作った貝原益軒の伝統もあって、彼らは目にする動植物や鉱物のすべてをおそらく瞬時に識別している。そのような観察眼と土地の人から取材した内容を組み合わせて彼らは書物で得た知識を確認し修正している。現地で目で見ることの重要さを彼らは強く認識している。益軒が和歌ノ浦で「片男波」の解釈が誤っていることを波の動きで観察して証明している有名な話がある。そのように書物の上での知識を現実に確かめることは、江戸の知識人の多くが旅する際の大きな楽しみにしていたことであった。そして、小津久足の記述に見るように、それは書物と実際の現場と、土地の人との証言を総合して完成されなければならないという考えも広く共有されていたと見てよい。
古松軒の林子平批判、久足の宣長批判などは、いずれも彼らの記した紀行の地名や地形が現実と食い違っており、案内記としての実用にならないという実感にもとづいている。本来は文学作品として虚構も許される紀行が、江戸時代にはその基礎を作った益軒の「正確な記述で事実を記して実用に役立つ」という制作基準が後代にも強く意識されつづけた結果、紀行の文学作品としての評価にも影響を与えるほど、紀行作者の中では共有されていた。
それは古松軒の南谿「東西遊記」批判にも表れている。旅の目的は正確な情報収集であるという知識人たちの感覚は時に、紀行の文学作品としての規範に過度なまでに作用した。南谿はそれを充分に知った上で、奇談集という形式をとることによって、読み物としての面白さを正確な事実の伝達に優先させるという創作姿勢を保ったが、その「東西遊記」の作者像や作品の枠組みもまた、「事実を正確に伝える」スタイルを守っており、読者が期待する「旅する知識人」を演出することで好評を得ている。中世以前の紀行に欠かせなかった、華やかな都から未開の地方に旅し、不安と苦しみの中で故郷に帰る日を夢見る、憂いに満ちた旅人像ではなく、このような知的興味と実証主義、冒険心と積極性と合理主義にあふれた知識人が、江戸紀行の主役だった。「東西遊記」は虚構や潤色を含むゆえに、なお明確に当時の旅する知識人の姿を描き出している。
4 地方と中央
彼らのそのような姿勢の根底をなすのは、徳川幕府による治安が確立し、安定して平穏な社会の中で、各藩の文化が発展し、京都や大坂に加えて、かつては辺境であった関東に江戸という大都会が出現したことによる、体制側の一員としての自信と責任感である。比較的それが薄い女性たちの紀行でも、農民や漁民を見る視線は支配者や指導者としてのいたわりや感謝に満ちていることが多い。幕府関係者や藩士も多い彼らにとって、旅先の土地は支配し管理すべき場所として俯瞰される対象であり、その中で孤独に沈む場所ではない。中世以前の旅が移動する線として描かれるなら、江戸時代の紀行は常にどこか広範な面として旅する世界を描いているかに見える。したがって泥濘の道路、宿をとりそこねた暗夜、危険な断崖を突破する海岸などに遭遇しても、彼らは嘆かず愚痴も言わない。それらすべては、自分たちの所有物であり、把握し理解し克服するものであるという意識が、誰の前提にもあるようである。
地方と中央の文化や繁栄の均一化によって、過去の紀行にあったように異郷や辺境への恐怖や敵意は消えた。一方では、多くは地方の出身者である彼らにとって、江戸や京都は帰るべき故郷ではなく、観光する対象ともなる。大都会へ赴き、そこを見物する旅人が江戸時代になって登場した。
新興都市江戸への誇りから田舎人をさげすむ記述も、ごくたまにあるが、おおむね紀行に見る知識人たちの、地方への視線は暖かい。「東西遊記」は徹底的に「古代の美風は辺境に残る」という枠組みで僻地や辺境を美化し理想化する。これもまた当時の多くの知識人が持っていた感覚だった。
さらに、かつて「都の外は闇」という実感で語られていた怪異が出没する異世界は、むしろ一見治安が安定した日常の中に、突然登場するとされる。「東西遊記」の辺境の評価と並ぶ、もう一つの特徴は、洞窟や閉鎖された空間に保存された不思議な世界を描きたがることで、これと共通する、時に桃源郷のような人に知られないかくれ里風の小世界は、時に湯治地、また小村、山奥の秘境という装いを帯びて、紀行に描かれることが多い。これもまた、江戸時代の知識人が好んで夢見て、旅に求めた世界だった。
幕末に近くなると、そのような地方都市の特徴をよくとらえて活写した紀行も多く登場する。これが大都会見物から始まる都市への興味と、桃源郷的な秘境への幻想と、どちらから発展してきたものかは判別しにくいが、そこには先入観や固定観念に左右されない、清新できめこまかい、人の生きる場所への観察がある。名所図会の美景の描写のほとんどに、人の雑踏、賑わいが記されているように、江戸時代の知識人の多くは人間の生活や混雑に嫌悪感や拒否感を抱いていない。
〈天保四 大梅居梅外「松堡里山荘に遊ぶの記」より、山田の町の描写〉
細浦を経て山田の町に入る。古き船板以て二三十間板塀の様に遣り渡したるあり。「何する処にや」と佇立(たゝず)みたれば、板はつる手斧の音、釘打つける玄翁(げんのう)の響き、丁々(たうたう)□々(とうとう)と聞えて、是なん船造る小家にぞ有ける。蜑が家どもの軒端低う建続きたる、日頃汐風の荒き故にやあらん。八十に余ると見ゆる老翁の、網の破れを綴り居るあり。留守の戸守る女房の髪は蓬(おどろ)に乱したるが、ほまち物にや鬼灯(ほうづき)桃の実なんど、所兀(はげ)たる盆の上に取並べて売るあり。(中略)席(むしろ)暖簾(のれん)かけ渡したるは、蕨(わらび)、縄(なは)、席(むしろ)、礪石(といし)、或は鋤鍬の柄なんど売る家なり。黒き格子に簾垂込めて「董其昌」とか云へる書風もて札揚げたる、医師と思はる。いさは物売る店二軒並びたる。鮮臭き香の往来の衣も染りやせん。
5 古典の世界に遊ぶ
ところが、それとややちがった視点の紀行文学論も存在する。それはとりもなおさず、知識人たちが旅に求めたものにも関わる問題と思うので、少し長いが引用する。国学者片岡寛光が友人の紀行「壺石文」に寄せた序文である。
〈「壺石文」寛光の序文〉縣居大人の某の日記(賀茂真淵「岡部日記」のこと)、明阿弥陀仏の伊香保の日記などは、時をおなじうせざりし事なればいはず。おのれ、うひかうむりしてより、しる人の中に、旅の日記かいしるされたるふみ、これかれ、あり。そは本居翁の「すがゞさの日記」、季鷹縣主の「不二の日記」、芳宜園織錦の「二種のにき」など、皆しる人のしるされたるにて、めでたき巻々なれど、やうやうに十日廿日のほどなれば、いみじうあかぬこゝちなむせらるゝ。又ちかきころ、おのがむきむき、なにくれの日記とて、すり巻などにも、ものするは、まことには、うちみるさきざきにて、しるしゝものにはあらず。みな、かへりつきて後、何やかやと書どもとり出て、なやましきまで、うがちさぐりつゝ、ものしりぶりて、人なびかせむのこゝろをもとにて、かきすくめたるものにしあれば、みやびたる心はうせて、いと、こちたく、うるさく、ようせぬは、なかなかに、つたなきはらわたの、あしう香のつきたるさへ、つと見えすきて、みるめのみか鼻だに、えたへぬこゝちせらるゝも、時代のうつろひなれば、いみじきかうみゃうにこそ。これは、さるかたの、さえまくりて、さかしらだち、「とはばこたへむ」と、かまへもとめたるたぐひにもとらず、去年の夏、するがのくにの、ふるさとを、あこがれいでゝ、おのが家とはれしより、ふとおもひ立て、「みちのくにの、なだゝるところ、みむ」とて、書一巻だにもたず、供とする人をもぐせず。たゞひとり旅路にありて、とゆき、かくゆき、さすらへはぶれたる人のさまして、ひとゝせあまりがほど、かのくにゝありて、見るにつけ、きくにつけて、かいしるされたるなれば。大かた、その国の手ぶりもみえて、こよなう今の人のとは、やうかはりて、むかし人の、かいなでに、かけらむやうなるに、はた、よの中をおもひはなれたる、こゝろもみえ、紫のゆかりたづねて跡ふかう、たどり知られたる筆づかひのほども、ほのかならず。はた、まれまれには、稗田のぬしと、うちものがたられし事もやと、おもはるゝ事さへまじりて、いまの人とは、やうかはりておぼゆるは、かのひじりは名なしとか迦羅人のこゝろにも、うちあひたるこゝろむけなるべし。こは、ことしの五月ばかり帰つきぬとて、おのが家とはれし時、みせられしを見るに、「かいなでのすさみながら、いみじきひがごとだになくば、はしにても、しりにても、ひとこと、かいしるしてよ」と、こはるれば、ひとわたり見もてゆくに、此みちのくには、おのが父翁のうまれ出給へりし故郷にしあれば、いとなつかしう、をりをりかたり出られし所々のやうなども、うちまじりてあれば、むかしの事おもひ出て、いまさらに、なみだもさしぐまれて、おはしゝときのありさまも面影にたてば、そのかたにつきても、すゞろになつかしう心もすゝめれば、つたなきことの葉はわすれて、やがて筆とりて、あとつくりさへ、かへるの子のやうなるを、あやしき、しれ人の、をこわざとや見む人あざけりわらはむかし。
かたをかの寛光
寛光は、多くの紀行作家の紀行の内容は旅先で折に触れて記したものではなく、帰宅後多くの書を参照しながら考証を加えたものであり、煩瑣で自己の教養をひけらかして感動を呼ばないと批判する。それに比べて、この「壺石文」は、何も持たずに一人で東北地方を旅し、源氏物語や古事記の世界もしのばせる筆致が快いとする。ちなみに「壺石文」も土地の不思議な伝説を長文で紹介するなど、やや風変わりな異色作だが、決して凡庸で無難な古典紀行ではない。
この記述や、多くの紀行の内容を見ても、当時の知識人は旅先の見聞を備忘録めいた旅日記にしたため、後にさまざまな文献を参照して、詳しく考察を加えることが多い。その傾向は時代が下るにつれて著しくなるようだ。寛光は批判するが、実際にはこの作業が作者たちの楽しみであり、旅によって得た知識を文献で検証することは彼らの大きな喜びだっただろう。それを読むことも同様で、小津久足が藤井高尚の紀行を批判しているのは、このような知的な考証がなく、おそらく寛光なら評価するような個人の感想が中心の作品だったからである。
それはすなわち、当時の知識人の中には文献を用いて旅の見聞を再検証する学者としての喜びよりも、もっと文学的な古典文学の世界にひたることをめざした旅のあり方が存在したことを示している。紀行という作品の評価に差が生じる背後には旅に求める楽しみのちがいがあった。
とは言え、そこには江戸時代になって泰平の世が生まれ、旅そのものも便利で楽になったという背景にはじまって、さまざまな状況の変化があり、古典紀行や古典文学を追体験する楽しみと言っても、やはり中世以前のそれとは事情が異なって来ている。
寛光自身が「熱海日記」(享和三)という、すぐれた温泉紀行を書いているのでわかりやすいのだが、彼は父もともなったその家族旅行で、父の詠んだ漢詩は紀行と言う古典文学にふさわしくないからと収録しないなど、非常に意識的に伝統的な和文の古典紀行を書こうとしている。しかし決して現実離れした虚構はなく、通りで会った太った醜い遊女など必ずしも優雅でないものもとりあげたり、土地の漁民と漁を楽しむ活気にあふれた場面を記すなど、卑俗な現実をも描きつつ作品を破綻させていない。
彼はこのような旅の楽しさを紀行文学として結実させたが、現実にも知識人たちは考証を排して優雅に古典の世界に遊ぶにしても、変化し俗化した新しい現実を、拒否することなく楽しんでいたようである。
①古戦場と歌枕
たとえば、観光する名所として、中世以前の紀行にはなかったもので江戸時代に新しく登場するのは、軍記物の舞台となった多くの古戦場である。一般に知識人に限らず江戸時代の人々は卑俗な巷説も含めて、歴史や海外に対して現代の私たち以上に興味を抱いているという印象を私は持っている。古来の歌枕と並んで、むしろそれをしのいで、古戦場は観光地として人気を集め、紀行の題材となっている。しかし、これが歴史に対する社会的関心なのか、軍記物の世界に陶酔する文学的関心なのか、現実に目を向ける卑俗か、物語に共感する優雅かというと、そこに区別はつけられまい。現在でも広島、長崎、沖縄が観光の対象にはなりがたいように、古戦場が文学の舞台として楽しめるには、それがどれだけ過去のものになり得たかということとの関連もある。
②女性との交流
また、旅先での女性との交流についても同様の問題がある。紀行は正当な雅文学の伝統に属するため、遊女を買った事実などが描かれることは非常に少ない。しかし後期になると、「膝栗毛」ものの影響もあってか、具体的に遊郭での一夜を描くものも、わずかながら登場している。
それ以外にも途次で会った女性と、卑猥な冗談を交わしてたわむれたり、京都郊外の山の中で思いがけない教養ある女性に会って驚くなど、印象的な場面を持つ紀行もある。中でも出雲の歌人森為泰が若いころに湯治に行った際の紀行では、のべつまくなしと言っていいほど旅先の女性と関わりを持っており、その実態も、それを記したことも、珍しい。だが、これはあるいは、源氏物語や伊勢物語のような古典文学の世界を再現しようとしている可能性もある。
〈森為泰「阿之折日記」概要〉天保四年(1833)神無月、足の療治のために出発。松江から、くやの長池、はまつた、雨で朝日山も見えない。木の葉をかく子どもを見る。大墓(遭難者の合墓)、てらす、おうのうみ、雨で何も見えず、今様の歌を歌いながら行く。大野のうら、ぬの崎、渡しで舟の中で連れができる。その人は知人のところに泊りに行き、その後宿を取れずに苦労する。平田のくすし山口某の家に滞在。板戸の穴から若い女性たちをのぞき見する。主人の妻にたのんで仲介してもらって、一人とつきあう。ここに七日ほど滞在、足もよくなり、くすしの勧めで大原の牛尾に入湯に行く。つきあった女性に歌を残す。平田を出て、神郷郡と出雲郡のさかい大川の渡りを過ぎ、神立村、留守の神の集まる神社に参詣。知人宅に二泊。力持ちで男性的な美女に言いよって振られる。ここを出て簸の川の堤を上り、岩の下を走る高瀬舟をみる。大原の郡、草まくら(地名)、のぶの、櫨原、かも川(実際に鴨が多い)、大竹の光明寺を土地の男に聞いて説明してもらっている内に、渡辺某の家のことを思い出し、倒木に腰かけて、渡辺の先祖が仏像を背負って国をめぐって光明寺を立てたことなどを書きとめた。仁王寺のあたりで、同じ牛尾に行くという十七と十ぐらいの女性二人づれをナンパして連れになり、途中でごつい男とも一時連れになる。下分で、二人の女性は川の向こうに渡って今夜牛尾でとか言って、どうやら逃げた模様、作者はちょっとがっかりしている。
その後、牛尾に滞在。静かなところで少し淋しい。近くの弘安寺に参詣。先祖が幼いときこの寺に居て、鷹狩りに来た松江の城主に見こまれて家臣になった話を思い出す。古今集を持ってきているので毎晩読む。近くに住む女性を、宿の娘に仲介を頼んで誘ったら、夜中に裏の石垣を上って訪ねて来た。この女性と何度か会う。また、湯治客の猪谷という男性と友だちになり彼が帰るときに短冊に和歌をたのまれて書く。予定以上に滞在したが帰る日になり、女が嘆いて自分は歌がよめないから代わりに詠んでくれと言うので、彼女の分と自分のと別れの歌を詠んで別れた。牛尾から忌部をへて松江に帰った。
平和な時代の到来と、旅が楽になったことによって、中世以前のような旅の苦しみや淋しさは大きく減少した。その中で考証や情報収集を排して、古典文学の世界にひたる旅や滞在をしようとする時、同じ王朝風の雰囲気でも、それは古典紀行の再現ではなく、むしろ京都などの都の暮らしそのものが旅先で再現されているのではないだろうか。そしてまた、その世界をかたちづくるものは、必ずしも作為的な優雅さではなく、変化した卑俗な現実もまた、巧みに受容され融合しているようである。
6 孤独を求めて
最後に、これがどれだけ一般的なものかはわからないが、現代にも共通する感覚として、孤独を求めて旅に出る意識もないとは言えない。貝原益軒は日常で気をつかうことが多いからか、「誰ともつきあわないで一人で楽しめるのが最高」のものとして「読書と旅行」をあげている。
また小津久足は、まじめな従者がうるさくなくて助かるが、宿についた後、話し相手にはならないのがものたりない、微妙な心情にふれている。
こたび具したるとものをのこは、酒も煙草もこのまざれば、おのづから暇をつひやさず道ゆくこともすみやかにて、あつらへつけたるやうなれど、宿につきては、はなしがたきにもならず、たゞ心のうちにて、かゝることどもおもひつゞけて、ふしぬ。
「陸奥日記」
伊勢の富裕な商人だった久足は旅の間に自らの内部に起こる種々の変化も逃さず書きとどめ、江戸時代には珍しい、外界の刺激とともに自己の内部も観察する紀行作家である。財産があって恵まれた環境で旅を楽しめる自分を全面的に肯定し、少しも懐疑や罪悪感を持っていない。芭蕉が「おくのほそ道」でことさら貧しい旅人の苦しい旅を強調し、益軒が幸福に生まれた報恩として、世の人に役に立つ紀行を書くことで責任を果たそうとしたように、何不自由なく豊かな環境は紀行や文学者には不自然ではないかという、ひそかな意識が江戸時代の知識人にあったとしたら、それをこれだけ完全に脱却している彼の姿勢は、当時の文化人、知識人のある到達点を示している。
世の風流このむ人は、おほかた家業を俗事とわたくしに名づけて、いやしくおとしめつゝ、はては家をそこなふにいたりがちなれど、予がこゝろは、それとことにして、清福を得たる人は富をかき、富を得たる人は清福をかくが、よのつねなるに、ふたつともにうけえたるは、そらをそろしきまで、ありがたくおもひて、めづらしき書どもの価たふときを心のまゝに、たくはふること、貧書生のくはだておよぶべからぬも、またく、なりはひに富たるからのことなれば、常になりはひの恩をわするゝことなし。かく陸奥かけて心のまゝに旅立しつゝ、露宿風餐のわづらひなきも、はた、なりはひのかげにして、たゞ風流にのみふける人の嚢銭こひつゝ漫遊するには、はるかにまさりて、なかなか風流人にまさりたる生涯なれば、そのなりはひにつきたる人を、とはまほしとて、かく、みちをまはりつゝ銚子には、おもひたてる也。
「陸奥日記」
参考書籍など
板坂耀子「江戸の紀行文」(中公新書)
同 「江戸の旅を読む」(ぺりかん社)
ブログ「板坂耀子第三研究室」の書棚「近世紀行文紹介」