近世紀行文紹介紀行「妙海道の記」メモ(2)

◇私もそろそろ晩年になって、金も時間もないままに山と積まれた書庫の資料が、このままではどう見てもただのがらくたでしかなくて、私が死んだら即皆新聞紙といっしょにたばねて処分されるのはわかりきってるので、生きてる間に少しでも、わかったことは書いておこうとしはじめた。もはや、海外旅行はおろかショッピングも映画鑑賞も人とのつきあいも皆絶って、長年続けた一般の方との紀行文の研究会さえ涙をのんで終了して、つまりもう生活のための金にならないことは趣味も教育もいっさいやめて、時間との競争で自分の研究を片づけている。ちなみに平和運動や社会活動はやめないのかと言われると、実のところはすぐやめたい。しかし、今の政府や言わせてもらえば言ってしまうと民衆を信じてまかせておいたら、いつ頭の上からオスプレイか放射能かミサイルかが降って来る世の中になるかもしれず、それだと焼けた家や家族と猫の死体や汚染された土地の片づけや除染に、きっとまたいらん時間を取られるに決まっているから、そうなる時を少しでも先に伸ばしておいた方がいいかと思ってやってるだけだ。筋力が衰えて寝たきりになるのを少しでも先に伸ばそうと、ジムに通ってるのと変わりない。

と、また無駄話が長くなったが、そうやって資料を片づける手始めに、「妙海道の記」のけりをつけておこうと思って読み始めたところが、やばい(←本来の意味で)、意外と面白いような気がして来た。
いやそりゃもう、基本的には退屈だ。小津久足や橘南谿や、その他もろもろの紀行と比べたら、たしかに足元にも及ばないというか、足元に穴ほって埋まっていてもいいレベルだ。しかしねえ、期待度をハナからとことん落して読んでると、時々あら悪くないじゃないのという部分に遭遇するのだね、これが。

◇最初の作品「都のつと」(このタイトルだって、もう幕末だっちゅうのに、中世紀行かよと言いたいぐらい死ぬほど芸がないっちゃあない)は、作者が殿様の命令かなんかで、それまでいた青森から京都に赴く旅で、まあ距離は長いし経路は珍しいし、本当はそれだけでも価値があるはずなのである。だが、作者はおおむね、

釈迦内の駅を過て、大舘の里に昼のかれいひをくひて、
椎の葉にもるかれいひをくひそめて旅のあはれはおほだちの里
綴子といへる駅にやどりて、
たび衣はるばるきつゝほころびぬつゞりさしてよつづりこの里

と、どうってことない歌を詠むばかりで、土地の様子や風物には何ひとつふれない。ひたすら淡々と型通りの文句が並ぶ。
ではあるのだが、だんだんその、どうってことない記述が快感になってくる。

宿河原といふ里を過て、剣が坂といふ坂にかゝる。たむげ(峠のことです)のながめ、いとよし。むかひの方に阿遮羅山といふ山、物より高く見ゆ。昔、不動尊おはしける故、名におへり。(6月10日)

とか、まあ紀行ってだいたいこういうもんだったかなと、だんだん要求水準が下がって来る。

そして、さりげなく、次のような文章にぶつかる。

十日。てけ(天気のこと)よし。曙にいでたつ。かねてちぎり置たる人たちを、そゝのかして、こゝよりつれゆくは、十人あまり一人(計十一人ね)になむ有ける。あるは馬にのり、あるはかち(徒歩)よりゆき、前しりへ、よびかはし、何くれの物がたりなどしつゝゆけば、いとにぎはゝし。されど、法師の身は己(おのれ)独(ひとり)にて、道づれは皆修験達なれば、何事につけても、つきづきしからず(しっくり溶け込めず)、独(ひとり)あるこゝちして、心の内はいとさうざうしく(淋しくしらじらとして)、あはれなり。

…面白いじゃん。
さらに、矢立峠という国境で、こう書く。

こゝを矢立たうげとなむ、いひける。こゝ迄は陸奥の国津軽の郡にて、我君のしろしめす所なるに、彼方は出羽の国秋田の郡にて、佐井の殿のうしはき給ふ所なり。境の印とて、道のなからに、いと大きなる杉の木一本、垣ゆひめぐらしたる有。其ほとりに駒とめて、草をむしろに敷(しき)、しばしいこひて、我君の治させ給ふみくに(御国)の内も、こゝを限とおもひつゞくれば、すゞろに(何となく)過うきこゝちせられて、ひとりごたれける。
箭山直聳道如弓  奥羽二州分界工
駐馬躊躇標木下  纔移一歩不藩中
故郷の限とおもへば梓弓箭立の山の嶺ぞ過うき

…悪くないやん。
この直後、「このあたりまでは、いつも来るところなんだけど、ここから先はそうじゃないから心細い」と、自分の心情を語っているのも、私が「江戸の旅を読む」の中で書いた、「旅心、定まる」というエッセイで指摘した心境をきちんと着目して記している。妙海、うまいじゃん、ひょっとして、いい紀行かも。

◇それに彼(だよね?)、けっこう先行紀行をよく読んでいる。「奥の細道」「回国雑記」「和名抄」「東鑑」、さらに他の紀行まで合わせると、益軒の「東路の記」(これは書肆がでっちあげた怪しい本だが)、藤井高尚の紀行、真淵の「岡部日記」、高田与清「相馬日記」、香川景樹「中空の日記」、宣長「菅笠日記」など、他の紀行作家たち以上に江戸紀行の名作を引用する。これだけ読んでて、本人はなぜこう味気ない紀行しか書けないのかがますます謎だが、もしかしたら、わかってわざとこんな風に書いてる偉い人かもしれん(←多分ちがうけどな)と、ついこっちも弱気になりそうになるのよねー。
ま、とにかく続けます。

※ちなみに矢立峠の杉は、当時の杉の木は今はないようですが、他の紀行にも多く取り上げられて有名です。検索したら画像も出ますよ。

http://www.forest-akita.jp/data/field/yatate/yatate.html

これなんかいいかも(↑)。このへん、今は「廃墟街道」として人気があるみたい(笑)。

Twitter Facebook
カツジ猫