近世紀行文紹介「旅の恥かき捨ての日記」補充分・その1

「福岡教育大学紀要」第46号に書いた論文です。旧サイト「板坂耀子研究室」にも収録しています。ただし、今回福岡朝日カルチャーセンターで使用するにあたって、現代語訳をつけました。
前半は考証が多くてかなり退屈です。中身を読みたい人はすっ飛ばして下さい(笑)。

一 はじめに

本稿の主旨は、国立国会図書館所蔵の写本一冊『旅の恥かき捨ての日記』が、香川県琴平町出身の幕末の勤皇志士日柳燕石の著作であり、燕石に関する新資料であるということである。さらにまた、この紀行が近世の九州紀行の中でもすぐれた作品として評価できる内容であることも、併せて指摘しておきたい。

二 書誌

まず、『旅の恥かき捨ての日記』の書誌について述べる。

国会図書館わ二九一・九の一。写本二冊。二六・五×十八・二cm。茶色表紙。題簽なし。第一冊・十四丁、第二冊・十四丁。九行書。本文と別筆の朱多し。上段に墨の書き入れがある。末尾三行に墨の訂正が数ケ所ある。
外題なし。中表紙題は、第一冊が、
「〔西遊日記〕旅の□□捨□□
西遊日記 上           」
とある。□□の部分は表紙の傷みがひどく判読できない。第二冊は、
「西遊日記 下」
とのみある。
内題は、第一冊が、「旅乃恥かきすての日記  巻之上」、第二冊が「旅の恥書捨乃日記 巻之下 燕石贅人著」となっている。

序文は次の通りである。

此日記は、旅中矢立の筆にまかしてかきつゞけし物なれば、元より陳芬漢の漢文にも非ず、てにおはの叶へる和文にもあらず。所謂旅のはぢ書捨といふ物なれば、見る人、腹をかゝへて其つたなきを笑んと、燕石贅人敬て白ス。
(この日記は、旅行中に携帯用筆記具で推敲もせず書いて行ったものだから、もちろんチンプンカンの漢文ではないし、きちんと文法にのっとった雅文でもない。いってみれば「旅の恥は書き捨て」というような文章だから、読む人はその文章の未熟さを大笑いするだろうと覚悟して、私はつつしんでこの序文を記すのである。)

また末尾には別筆の書入れで、

文字已経松荘先生之評。余又何言。但下一二謔、聊答来意云。弘申春日雪航老生妄言。
とある。

三 作者

1 『国立国会図書館蔵江戸期以前紀行写本・版本目録稿』の記述

国立国会図書館参考書誌部編「参考書誌研究」第20号・特集「国立国会図書館蔵江戸期以前紀行写本・版本目録稿」(田口栄一・小泉清子両氏による)は、この本について次のように記している。
旅の恥かきすての日記(わ291.9の1)
燕石贅人(富永治右衛門尉) 弘化年間 手稿本 2冊 大 扉「西遊日記」〔天保 15年、改元されて弘化元年九州各国遊覧の記〕

この目録は、国立国会図書館蔵の紀行を調査するのに非常に役に立つものであるが、この作者についての記述は誤りである。ここで上がる「富永治右衛門尉」は、岩波書店「日本古典文学大辞典」の米谷巌氏の記述を引用すると、
燕石〔えんせき〕 俳人。富永氏。名は高康。通称治右衛門尉。別号幽山亭。万治三年(一六六〇)正月二十五日没、享年三十六歳。(後略)

とあって、万治元年に没しており、弘化年間のこの紀行の作者としては年代が合致しない。

2 勤皇詩人日柳燕石

この紀行中の、作者を推定する手掛かりとなる記述は、序文をはじめとして数回登場する「燕石贅人」の作者名、同行者である「富山謙益」の名、また末尾の本文と別筆の書き入れ中で、「松荘先生」が評を下したとする「雪航老生」の記述である。また冒頭の文中に「蜑人のあさげたくまの浦けむり、晴たる空にあは嶋の纜とひて見渡せば」とあって、作者は現在の香川県託間の浦から船出しており、その付近に住んでいた人物であることに
なる。
これらのことから考えると、この人物は讃岐の琴平に住んでいた幕末の勤皇家日柳燕石であろう。

(イ)経歴と著作

『日本古典文学大辞典』(岩波書店)の「日柳燕石」の項(松原知明氏)には、燕石について次のように書かれている。

江戸時代の漢詩人。名は政章、字は士煥、通称長次郎、晩年は耕吉。燕石は号、別に柳東。父は惣兵衛、讃岐象頭山麓榎井の旧家。慶応四年(一八六八 明治元年)八月二十五日没、五十二歳。(墓碑銘)。〔事跡〕はやく父方の伯父につき、志学の頃、金比羅社の侍医三井雪航、丸亀藩儒岩村南里に学ぶ。また詩儒尾池松湾と親交を結ぶ。十八、九歳盛んに金比羅の花街に遊び、二十一歳父母を失い、のち家業を廃して飲博に身を沈め、常に客を愛し、各地を周遊、その間にも連年詠詩の集が成る。安政元年(一八九四)呑象楼に移居、賓客堂に満ち、その名も揚がる。慶応元年(一八六五)高杉晋作を庇護した廉で高松の獄に下る。そこでも多くの名作をものした。慶応四年正月出獄、木戸孝允の招きで上京、孝允に従って中国・九州を遊説、六月には仁和寺宮の日誌方となり北征、柏崎で病没した。(後略)

また、彼の著作として『国書総目録』は、次の十六点を挙げている。

○燕石詩集 国会図書館所蔵(注1) ○松乃婦多葉 金刀比羅神社(注2) ○金郷春の夕栄 『日本名著全集 洒落本集』所収 ○呑象楼詩文稿 大阪府立図書館所蔵 ○西遊詩草 『日柳燕石全集』所収 ○山陽詩註  同上 ○十春詞   同上 ○象山竹枝  同上 ○賭博問答  同上 ○捫蝨余話  同上 ○柳東軒雑話 同上 ○柳東軒略稿 同上 ○呑象楼雑纂 『近世漢学者著述目録大成』による ○呑象楼消夏録 同上 ○柳東軒詩話  同上 ○柳東詩集  『讃岐史料史籍目録大成』による

目録のみに登場する最後の四編は、所在不明である。また、これ以外にも琴平神社にコピ-で所蔵する『満清擾乱記』、瀬戸内民俗資料館が所蔵する写本一冊『(旅路の日記)』がある。大阪府立図書館所蔵の『呑象楼詩文稿』のみは未見だが、それ以外の書にはいずれも、『旅の恥かき捨ての日記』と同一の内容のものはない。

(ロ)漢詩集「西遊詩草」との関係

では、この紀行の作者は燕石ではないのだろうか。『日柳燕石全集』は、梶原猪之松編で大正十二年に香川新報社から刊行されている。古い本だが、『国書総目録』の記述でもわかるように、燕石の著作は、ここに収録される以外には現存しないものが多い。その中で、「西遊詩草」は同一の題で内容の異なるものが二点収録されている。
第一のものは、全集本の二四五~二六三ペ-ジにあたり、冒頭に「甲辰(弘化元年)春末、同凌雲、遊九州」とあり、「檀浦」など百編近くの詩を収めている。末尾に「僕今歳同凌雲、遊九州。拙詩近日欲上梓。恨不使老兄評之。(中略)甲辰(弘化元年)秋日 燕石柳彰拝」とあって、弘化元年の九州行を題材としたものである。
第二のものは、全集本の三三七~三四七ペ-ジにあたり、冒頭には「柳東章未定稿」とあり、「山口」「小郡駅木戸氏話」など、七十編近くの詩を収めていて、明治元年、木戸孝允との長崎行である。なお、全集所収の「呑象楼」の石集(四六~五五ペ-ジ)に、第一の旅と同時期の詩五七編が、木集(二三七~二四〇)に、第二と同時期の詩三五編がある。
この二つの漢詩集と紀行『旅の恥かき捨ての日記』との行程を比較すると、時期も一致する弘化元年の第一の旅の行程が、紀行と一致することがわかる。おおよそ次の通りの行程である。

檀の浦~小倉~宗像~香椎~青柳~博多~筒井~太宰府~高良山~久留米~柳川~熊本~島原~長崎~大村~唐津~呼子~名護屋~吉井~太宰府~志賀島~名島~黒崎~小倉

また、漢詩の中に、紀行の記述と共通するものが、わずかながら見てとれる。

〔漢詩集〕

吉田山中
数里瞑行双脚老。荒邨一夜宿蓬高。老嬢憐我有飢色。梁飯盛来凸字高。

青柳駅
短亭破駅傍山陲。大路高低双脚疲。知是平生行客少。也無一馬借人騎。
(ともに「西遊詩草」)

路上所見
路傍有古樟。腹穿一丈強。村人蔵其竅。時開樗蒲塲。

「呑象楼遺稿石集」

 

紀行『旅の恥かき捨ての日記』

やうやう吉田のほり川てふ処に至りて、いといぶせき家に泊る。五平太といふ黒き石にてめしをかしぐ。その烟り、わる臭し。(四月九日・吉田)
(やっと、吉田の堀川に着いて、大変みすぼらしい家に泊まった。五平太という黒い石(石炭ですね)で飯を炊くのだが、その煙がいやな臭いだった。)

我等初旅なれば、足はれ痛みてあゆみ難し。されど此辺りはさびしき処にて、馬かる事もできざればせん方もなき。顔かくし足をひきづり足引の山坂こえて青柳のあれたる駅にやどりける。(四月十日・青柳)
(私は初めての長旅なので、足がはれて痛んで歩きにくかった。しかし、このへんは淋しいところで、馬を借りることもできないので、どうしようもない。顔をふせて足をひきずって、山道や坂道を越えて、青柳というさびれた宿場町に泊まった。)

筒井を立て山家の駅にいたる。路の辺りに大きやかなる楠の木あり。其幹うとろになりて、中には廿人ばかりの人をいれる。近比、博ち打、其中にあつまりてばくちうちたりしに、蝋燭より燃上りて大分焚たりとい けれど、梢は青々と栄へたり。見事なる物也。(四月十七日・山家)
(筒井を出て、山家の宿場町に来た。道のそばに大きな楠木があった。その幹は中がうつろになっていて、二十人ぐらいは入れる。最近、ばくち打ちが、その木の洞に集まってばくちをうっていたところが、そのろうそくから火事になって随分燃えたそうだ。しかし木の梢は青々と葉が茂っていた。見事な大木だった。)

(ハ)登場人物

また、『旅の恥かき捨ての日記』に登場する人名であるが、いずれも燕石の交遊関係の中に、その名を見ることができる。
まず、同行者の富山謙益は、『新修託間町誌』(昭和二六年)所収の、安政二年、山路伯美編『未開牡丹詩』中に、「凌雲 富山徳 字子報称謙益 讃州託間人」とあり、富山凌雲のことである。『増補改訂・讃岐人名辞書』(昭和三年梶原猪之松著、昭和四八年梶原竹軒監修)では、この凌雲と、末尾の書き入れに登場する「松荘先生」にあたる奈良松荘、「雪航老生」にあたる三井雪航について次のように記している。
富山凌雲 凌雲は三豊郡託間の医師にして医業の余暇詩文を能くす。燕石の親友たり。弘化元年燕石と倶に九州に遊び同五月帰家す。後燕石は其男三舟を凌雲の許に托し医業を学ばしむ。かくて爾後両人の間存問絶へず、親密の交りを訂したりしが明治十年頃没す。
年六十余才。

奈良松荘 名は広葉、字は洗心、号松荘、又翠岸、また泡斎、天明六年那珂郡榎内村に生る、後同郡神野村大字岸上に移る、和漢学に通じ歌を能くし、傍ら畫を学ぶ、勤皇の志あり、燕石等と交る、文久二年正月二十八日没す、年七十七。(後略)

三井雪航 名は重清、字は子潔、通称隆斎、号を雪航と云ふ、寛政七年那珂郡田村に生る、幼少の時琴平の医家三井氏を継ぐ、長ずるに及び家業を承けて医業に従ひ、傍ら儒学を修めて名ありしが其の後弘化年間備後に遊び、菅茶山の門に入り学業を大成し、詩文を能くす、頼山陽、篠崎小竹、後藤松陰等と交り詩文を以て応酬し詩客の名を縦にす、晩年学舎を起し子弟を教授し、名付けて正風館と称せり、地方の学書是れより大いに興起せりと云ふ、嘉永四年六月没せり、年五十六。(後略)

(ニ)「燕石贅人」の筆名

この紀行の序文の署名は「燕石贅人」である。燕石は非常に多くの号を用いていた。相原友三郎氏「日柳燕石研究」2(昭和四三年 私家版)によると、これは勤皇の徒として幕府に追われる身であったことも作用して、めまぐるしく筆名を変えたという事情もあるようである。相原氏の研究は膨大かつ詳細をきわめており、燕石が使用した号についても次のようなものを、ひとつひとつ解説を附しつつ挙げておられる。
長松・長二郎・長次郎・士煥・子煥・政章・世章・章・彰・ 石・春園・賢乎已堂・芭蕉書屋・緑天居・蕉陰居・鴛石・文雅叢・容膝堂・篁陰居・有余亭・有余庵・丁字円亭・可可貧居・可可貧居南軒・呑松楼・柳東軒・柳東・愛松軒・撫松楼・剱山・剱吾・雪月皆宜楼・四時字皆宜楼・皆宜楼・双松閣・双竜閣・呑象楼・呑象楼主人・呑象・観雷亭・観雪処・林荘・林亭・ 楼・ 堂・三白・三楽・九白堂・三 ・杞憂陳人・赤松剣五・剣吾・献吾・耕吉・浩吉・加島屋・総兵衛・猿赤・艶春・艶史・艶籍・楊生・枯楊・藻東野人・安楽居・安楽居主人・泰楼・半獄舎・半楽居・半楽・蜃気楼・神楼・鼈穴・鼈居・古狸窟幽人・捫蝨・門蝨(この他、楽王・其命閣・東軒などの号については疑問がある)

一見してわかる通り、この中に「燕石贅人」の名はない。しかし、これだけ多くの号を使った燕石であることから、このような和文紀行の一作品に限って用いた名があったとしても不自然ではない。とりわけ、前節で述べたような、漢詩集との内容の一致などから考えても、この紀行は燕石の作品であると考えてよいだろう。

四 燕石の人となり

燕石の経歴は、『日本古典文学大辞典』が述べる通りである。土地の博徒として多数の子分を抱えながら、一方で勤皇思想を抱いて志士たちと交遊し、漢詩や洒落本などを書く文学者でもあるという興味深い人柄のため、田村栄太郎氏『日柳燕石』(春陽堂、昭和十四年)、草薙金四郎氏『勤皇奇傑・日柳燕石伝』(文友堂、昭和十四年)などの伝記研究があり、またラジオ小説や映画にもとりあげられている。

「炎は流れる」Ⅳ(『大宅壮一全集』第二十七巻所収)の中で「勤皇博徒・日柳燕石」の一章を設けて、燕石について詳しく記された大宅壮一氏は、「『太平洋戦争』のはじまるころ、『燕石ブ-ム』といったようなものがおこった。」と、このような現象について述べておられ、燕石の勤皇思想が当時の思想状況によく合致する雰囲気を持っていたと分析しておられる。大宅氏はまた、燕石が有した「勤皇家」「詩人」「博徒」という三要素にふれて、「容易にくっつきそうもないこれら三つの要素が、燕石という一つの人格のなかで、珍しい化学反応を呈したところに、大きな魅力があった。」とも述べ、このような人物を生んだのは、琴平という一種の文化都市が果たした役割が大きいと指摘されている。

『日本古典文学大辞典』の記述にやや補足しておくと、彼が十八才以降、花街に出入りし博打にふけるようになったきっかけは、天保五年の米騒動の時、暴徒の指導者として逮捕され、投獄の後釈放されたが、その衝撃で沈んでいた彼を元気づけるために、母の幾世が花街での遊びを勧めたことによるとの説もある。十九才の時に、花街の料亭の娘ぬいと結婚するが、生涯を通じて多くの女性と交際があった。また、その相手の女性はいずれもあまり美人ではなく、醜婦を好んだとも言う。そのことから、彼の遊興は考えがあってのことで、単に色好みなのではなかったとする説もある。

大宅壮一氏が「炎は流れる」の中で、このような伝説から、破天荒で痛快な燕石像を作り上げているのに対し、『日柳燕石研究』で相原言三郎氏はひとつひとつの記事に対して細かく批判を行って、より堅実で温厚な燕石像を提示しておられる。興味ある人柄であるだけに、面白い伝説が生まれやすい一方、郷土の英雄として美化される面もあり、真実の燕石像に迫るのはかなり困難である。
ここでは、紀行『旅の恥かき捨ての日記』に関してのみの範囲で、私のとらえた燕石像を述べておくこととする。

先に述べたように、これは燕石が弘化元年、二十八才の時、友人の富岡凌雲と行った九州旅行を題材としている。従来、この九州旅行の間の作品としては、「西遊詩草」と題される漢詩百編余があるのみであった。一方で、この旅行は燕石にとって大きな意義を持つものだったとされている。それまで讃岐からよそに出たことがなかった燕石は、長崎でオランダ船を実際に目の前にして、国防についてのこれまでの考えを改めるに至ったと、大宅氏は述べる。また、四国新聞社編『讃岐人物風景』八(昭和五十八年刊)所収「百花繚乱の西讃」にも、次のように記されている。
この旅は燕石にとって単なる物見遊山ではなかったようだ。長崎行きの途中で馬関(下関)に一泊した際、長州の志士とひそかに会合したとの風説も伝えられている。その真偽は定かでないが、この旅が、榎井の里から外へ出て時代の動向をこの目で確かめようとした燕石の心に大きな実りを与えたことは否めない。

だが、この紀行を読むと、燕石がこの旅の中で、そのように真剣に時代と世界を認識したことはあったとしても、全体としてはのどかで楽しげな旅であり、深刻さや緊張感は薄い。郷里以外の土地を初めて旅するにしては、燕石の筆致はのびのびと明るく、その行動は大胆で恐れを知らない。土地の旧家に生まれた育ちの良さと、博徒として生きてきた度胸とが、見知らぬ土地でも彼をまったく萎縮させていないようである。
大宅氏が描いた燕石と、相原氏のそれへの反論のいずれが真実の燕石により近いのか、
私には判断できない。ただ、この紀行を読んだ限りでは、他の紀行と比べてかなり思い切った行動や発言が印象に残る。そういう点ではやはりどこか型破りな痛快さを持った人物であったかもしれない。

五 『旅の恥かき捨ての日記』の内容

以下に、作品の粗筋を紹介しつつ、その特徴を述べて行きたい。

(イ)上巻

「家ならばけにもるいゝを草枕旅にしあれば椎の葉にもる」という古歌は旅のうき事をいへり。されど、はたご屋のゆふべには味噌醤油の世話も入らず、むまや路のあしたには馬駕籠のたすけあり。ことし天保甲辰のとし、春も過なんとせし比、富山謙益ぬしに訪はれ、しらぬ火のしらぬ境の風景に心ひかるゝ頬杖を、つくしの果と思ひ立、竹の子笠に藤の杖、画にうつしたる西行法師の出立にて、
世の事を天保のかはとなげすてゝけふ古さとをたつの春風
(昔の和歌に「家に居たら食器に盛り付けるごはんを、旅行中だから椎の葉っぱに盛って食べる」というのがあって、これは旅のつらさについて詠んだものだ。しかし今では旅館の夕方には食事の調味料の心配もしなくていいし、道路を出発する夜明けには馬や駕籠に乗ったりもできる。今年は天保十五年(弘化元年)、春も終わろうとするころ、富山謙益氏の訪問を受け、不知火で有名な長崎方面のながめを前から見たいと思っていたが実行できないでいたのを、もう行くしかないと決心して、竹の皮で作った笠をかぶり、藤のツルをまいた杖をついた、絵の中の西行法師のようなかっこうで、世間のことはどうでもいいと放り出して今朝故郷を出発する私に春風が吹いているという歌を詠んだ。)

といった書き出しで始まり、穏やかな春の海を船で渡って下関に着く。ここの遊女町で遊女と遊ぶのだが、一夜明けて相手の遊女の醜さに驚く。

こゝは西国第一の大港にて、立ならぶ大船の帆柱は夏山の木立よりも繁く、行かふ女郎のいもじは、時ならぬ紅葉をちらすに似たり。むかし寿永のいくさの後、平家の女房たち身をよする処もなく、こゝにうかれめとなりしとかや。今は此地の繁昌日に増して、関に千人といいぐさの草よりしげき惣嫁なり。
いにしへの家に伝へし赤旗も今はいもじの色にのこして
此夜船頭木屋の某しにそゝのかされて、新地てふ所の茶屋にいたりしが、いたく酔ひ臥して、おやまをよびたれど、其まゝ寝入りぬ。さて夜明て後にかの女郎を見れば、つら赤く目玉飛出て、よひにくひたりし平家蟹の再来かと思ひし也。
(ここ下関は西日本で一番の大きな港で、並んでいる船の帆柱はまるで夏の山の森林以上だし、往来する商売女たちの湯文字(腰巻)は季節外れの紅葉が散るように真っ赤にひらひら見え隠れする。昔、寿永年間の壇ノ浦の海戦の後、平家の女性たちが庇護してもらえるところもなくて、ここで遊女となったとかいう話だ。今ではこの土地は繁華になる一方で、「関に千人」ということわざよりも、もっと多数の下級売春婦がいる。
昔、家代々に伝わった平家の赤旗も今は遊女の腰巻の色に残るだけになった
と歌を詠んだ。
この夜は船頭の木屋某にすすめられて、新地と言うところの茶屋に行き、大変酔っぱらって寝てしまい、遊女を買ったのだが、何もしないで寝入ってしまった。で、夜が明けてその女性を見たところが、顔は赤くて目は飛び出して、昨夜食べた平家蟹がやって来たかと思ってしまった。)

醜い女を好んだという話がある燕石である。好んだかどうかはいざ知らず、女性の顔の醜さに興味を持つ傾向があったのはたしかなようである。
翌日(四月九日)、船で小倉に渡る。船中では知ったかぶりをする侍の講釈に閉口して眠ったふりをした。

船中に侍あり。いと物しりがほして、四方山の事を語る。おちこちの嶋山をゆびさして曰く、「東は干珠満珠のしま、文字が関に檀の浦、南は名にあふ柳が浦、菊の高浜につらなれり。むかふに見ゆるは剣客のしのぎ削りし巌流島、こなたの迫門は船頭の与次平がたくみも水の泡、跡に残りし石の塔」などゝのぞきの口上のやうにいゝつゞくれば、我等もあひ返答にこまりて、狸寝の空鼾をならす。
長ばなし下手の談義をきくやふな南無あみだじの乗合の船
(船の乗合客の中に武士がひとり居た。非常に知ったかぶりをして、あれこれのことをしゃべった。遠近の島を指さしては「東は干珠満珠の島、門司の関に壇ノ浦、南は有名な柳ヶ浦、菊の高浜に続いている。向こうに見えるのは宮本武蔵と佐々木小次郎が戦った巌流島、こっちの瀬戸は船頭の与治兵衛が船を沈めようという計略が見抜かれて殺された、その墓の石塔」などと、祭りの出店ののぞきからくりの案内役のように、しゃべりっぱなしなので、私も相手になるのに困って、寝たふりをして空いびきをかいていた。
長い話で、下手な講釈を聞いているような阿弥陀寺も近い乗合船である
と、歌を詠んだ。)

(「その2」に続きます。)

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