近世紀行文紹介「旅の恥かき捨ての日記」補充分・その2
昼前に小倉に着き、船中で知り合った人とともに博多へ向かう。黒崎のあたりで近道をしようとして道に迷い、道連れになった男は、燕石たちを狐ではないかと疑って刀を抜くまねをしたりしてふざける。
船中より土佐の客と心易くなりて、うちつれて行。黒崎の駅を過けるに、ぬけ道あり。札を立て、旅人の通行を禁ず。人々、小首傾けて「本道と此道とは、弓の弦との違ひあり」とて、ぬけ道を行けるが、野に出、山に入るほどにいつしか踏迷ひけん、只蝋の木ばかりおひ繁りたる処にいたりて、事とふべき人もなし。日あし西にかたむき、林の鳥ねぐらに帰り、路も追々くらく成て、あとへもさきへも行難し。土佐の客人、顔色青くなりて我等に向ふていゝけるは、「こりや、くそ狐。我をはかりてかゝるうきめを見するか。正体あらはせ」と、腰に帯たるなまくら物をひねくり廻しければ、
狐かと君が思ふもうべなれやわれはたぬきの国の旅人
かく興じて行ほどに,やうやう吉田のほり川てふ処に至りて、いといぶせき家に泊る。五平太といふ黒き石にて、めしをかしぐ。その烟り、わる臭し。
(船の中で土佐から来た人と親しくなり、連れだって歩いた。黒崎の宿場を過ぎるあたりで、近道があった。しかし立札を立てて旅人が通うのを禁じていた。私たちは首をかしげて検討し、「普通の街道と、この近道では、弓の弦と弓ぐらいの差があるぞ」ということで近道を行ったところが、野や山を進んでいる内に、どこかで迷ったのか、ただハゼの木ばかりが茂っている所に来てしまって、道を尋ねる人も見つからない。日は沈みかけるし、鳥もねぐらに帰り、道も次第に暗くなって、前進も後退もできない。土佐の人は青ざめて私に向かって言うのには「こら、くそキツネ。私をばかして、こんな目に合わせるのか。正体を現わせ」と、腰のなまくら刀をもてあそぶので、
キツネかとあなたが思うのももっともだなあ。私はタヌキ(さぬき=讃岐)の国の者だから
と歌を詠んだりして、ふざけて行く内に、やっと吉田の堀川という所に着いて、大変みすぼらしい家に泊まった。五平太という黒い石で飯を炊くのだが、その煙はいやな臭いがした。)
十一日には、雨の中、香椎と箱崎に参詣する。この紀行には燕石の勤皇思想を示すものはほとんどないと言っていいのだが、ここの部分の述懐には、ややそういった面が見られるようである。
十一日。香椎の宮にまうでぬ。こゝはむかし神功皇后、から国へ物せし時の古跡なり。巳の刻ばかりより雨しと/\ふり出しけれど、笠もかしひの宮にもあらねば、涼傘をさしてふせぎしが、雨は篠をつくが如く、風さへあらく吹ければ、謙益ぬしの涼傘風にやぶられて芭蕉の葉の裂たるが如く、やがて紙ひら/\と飛ちりて、あとに骨のみ残りければ、
敗れがさのりのちからはたのまねど弥陀の光明身には放しつ
午の刻、箱崎にいたりて旅亭に休ふ。雨少しやみければ、八幡宮のやしろを拝す。巍然たる楼門に光りまばゆき金字の額をかけたり。「敵国降伏」といふ四つの文字は、麟鳳飛動の勢ひあり。延喜の御門の宸筆なりといふ。この御神の威霊はいふもなか/\おろかなり。むかし蒙古の軍船、博多の浦に充満して我瑞穂の国をひと呑にせんと来りしを、神風の力にて十万人のゑびすを鏖にし、此筥崎の浜より志賀嶋の辺りまで土左衛門にて海をうづめしとかや。
から人は底のみくづとなりはてゝ波もおさまる千代の松原
(11日。香椎宮に参詣した。ここは昔、神功皇后が唐の国へ遠征した時の古跡である。午前10時ころから雨がしとしと降り出して、「かしい」の宮と言っても傘を貸してくれるわけではないので、日傘をさしてしのいだが、雨もひどく風も強く、謙益氏の傘は風にもまれて芭蕉の葉の破れたようになり、最後は紙がちぎれて飛んで傘の骨だけが残ったので、
破れた傘の紙を貼っていた糊の強さはあてにしていないが、阿弥陀の光のような骨は残っている
正午に箱崎に着いて宿屋で休憩した。雨が小降りになったので八幡宮に参詣した。そびえ立つ門にはまばゆく光る金文字の額がかかっている。「敵国降服」というその額の文字は、麒麟や鳳凰が躍動するような力に満ちていた。延喜帝の書かれたものとのことだ。この八幡神の力は言うのもばかげているぐらいに知られていて、昔蒙古の大軍が博多の海岸に満ちあふれて、この日本を併合してしまおうとしていたのを、神風を吹かせて異国の兵を皆殺しにして、この箱崎の海岸から志賀島付近まで水死人で海が埋まったとかいうことだ。)
十二日に、博多について福岡城下を見物し、狐騒動をともにした土佐の旅人とは筒井村で別れた。この村では、富山謙益の医術の門人、是松良斎を訪ねて歓待される。「其人、文才は格別なしといへども、さつぱりとして面白き人物也」と燕石は評している。十三日にはこの人の案内で、太宰府天満宮へ参詣した。その夜、良斎は鶏の御馳走をし、琵琶法師を呼んで演奏させたが、燕石はあまり面白いと思わなかった。
此夜、良斎ぬし、鶏を煮て〔筑前にては、にわとりを多く食す。俗に「野菜鶏」といふ〕酒をすゝめ、琵琶法師をよびて興を催す。我等いとめづらしき事に思ひけるに、いろ青ざめたる座頭の、白き眼をむき出し黄いろなる声をあげて、女巫の託宣あげるやうな事をいゝければ、我等興も醒けれど、あるじの意に違ふも本意なければ、只「奇妙々々」と、ほめそやす。
くだかけの関より外のお肴はびわの法師の声の塩辛
(この晩、是松良斎氏はニワトリを煮た。筑前地方では鶏肉をよく食べる。「野菜鷄」と呼ぶそうだ。そして酒を出して琵琶法師を呼んで座を盛り上げた。私は大変珍しいものが聞けると期待したが、顔色の青い盲人が白目をむきだして甲高い声を張り上げて、女巫女が予言を告げるようなことを語るので、私は興味が失せたけれど、主人の心遣いを無にする気にはならないので、ただ「おお、すばらしい、すばらしい」と、ほめまくった。)
十六日まで良斎宅に滞在し、「日々酒のむより外に事なし」であった。十七日に出発して筑後へ向かい、十八日には高良山に登り、久留米の町を見物する。十九日には千歳川を舟で下って瀬高へ着き、そこで泊まっている。この付近では女性たちが半裸になって農作業に精を出しているのを見た。
此辺り、農事甚忙し。婦人十六七なるものもあり。裸になりて二布ばかりして仕事をなす。その膚のくろさは、なか/\久米の仙人も通をうしなふ気遣ひもなひやう也。
(この付近は農作業が大変忙しそうだった。16、7歳ぐらいの女性も働いていた。腰巻だけの裸体で作業をしていたが、その肌の黒さは、女性の裸を見て通力を失い雲から落ちたという久米の仙人も、心を迷わす心配はなさそうだった。)
次の日にここを出発する。道に迷ったが人に聞いても方言がひどくて通じず、難渋したが、ようやく米の山に出て、肥後の国に入った。
廿日。つとめて瀬高を立しが野路、糸よりも細く、西にゆがみ東しにまがりて、行ほどにいつしか踏迷ひ、農夫に問えど其ことば訛りて、只「ばつてん/\〔「ばつてん」といふは上方にて「さかい」といふにおなじ〕」とばかりにて、一向通ふぜず。されば我々大に困りしが、やう/\うつの橋てふ処へ出けり。
(20日。早朝に瀬高を出発したところ、野道は糸よりも細くて西や東にカーブしていて、進むにつれていつの間にか迷ってしまい、農作業をしている人に道を聞いたが、方言で「ばってん、ばってん」と言うばかりで、さっぱり意味がわからない。「ばってん」は関西で「さかい」というのと同じ意味だ。大変困ったが、やっと、うつの橋という所に着いた。)
「肥後ずいき」を買いたいなどと話しながら、二十一日に熊本の城下に着き、油のように濃い赤い色の酒を飲んで頭痛に悩まされた。二十三日には熊本城を見物した後、高橋の駅から舟で島原に渡った。舟は客でぎっしりで淀川の夜船のようである(注3)。乗っていた島原の人から先年の噴火の時の被害状況を詳しく聞いた。翌二十四日の明け方に船は島原に到着する。港の近くには、噴火の時に飛び散った石で出来たという小島が数多く見えた。
港ちかき辺りに、いとおかしき小嶋いくつもあり。むかし温泉の山崩れし時、海中に飛ちつたる砂石のかくなりしといふ。そのかたち、さま/\にて、牛の眠れるが如く、双子のならぶが如く、釜をふせしが如く、臼を立たるが如く、ちひさくして豆の如く、三角にしてやきめしの如く、ばら/\として碁石を置たるが如く、連々として数珠をつなぐが如し。其外千差万別、筆につくし難し。
山をぬくちからもあれば此山をとりて帰りて家づとにせん
(港に近い海上に、とてもよいかたちの小島がいくつもあった。昔、火山が噴火した時、海に飛び散った砂や石がこういう小島になったのだそうだ。島のかたちはさまざまで、牛が寝ているようなの、双子が並んでいるようなの、釜を伏せたようなの、臼を立てたようなの、豆のように小さいの、焼きおにぎりのように三角の、碁石のようにばらばらなの、珠数のようにつながっているの、その他いろいろな違う形があって、とても描写できない。
山を抜く力があったなら、この島を土産に持って帰りたいものだと、歌を詠んだ。)
二十五日、船で諫早へ向かったが、激しい雨にあってびしょぬれになり、難破するかと思われたが、ようやくのことで諫早に着き、民家で休息した。旅の苦しみをつくづく感じさせられた体験であった。
廿五日、釣舟にて諫早江渡けるに、白雨俄にふりて空かき曇り、白雨盆を傾るが如し。此船はあまのつり船をやとひしなれば、苫さへなくて人々衣ひたぬれにぬれて、人々鼠の子を水につけしが如し。兎せし角せし内に風いよ/\つよく吹出し、波は白馬のはしるやうにて舟を左右にゆりうごかし、今も覆りなんとするあり様なれば、人々面色土のやうになりて、すでに念仏を唱ふるばかりなるが、からふじて諫早の辺りにつく。民家にて藁をたき、ぬれたる衣類をあぶりて漸々安堵の思ひをなす。あるじのばゞ、麦のいゝをすゝむるに、誠に貧しき時は妻を擇ばず、飢たる時は食を擇ずといふ辺りにて、各々大によろこびて、五六椀ほど鼻をつくやうにもりてたふべぬ。
かわひ子に旅をさせとのことわざも今ぞ身にしむ諫早の風
(25日。釣り船で諫早に行った。夕立が急に降ってきて空が真っ暗になり、水の入った盆を傾けたようにどしゃぶりになった。この船は漁師の漁船を借りたものなので、雨よけのむしろもなくて、私たちはみな着物もびしょぬれになって、水につかった子ネズミのようだった。そうこうしている内に風はどんどん強くなって、波頭は白い馬が走るように見え、その波が船を左右にゆすって今にも転覆しそうな様子なので、私たちの顔色は土気色になり、もう念仏をとなえているばかりだったが、何とか諫早付近に着岸した。民家に行って藁を燃やしぬれた服を乾かして、やっとほっとした。家の主の老婆が麦飯を勧めてくれ、実に貧しい時は妻を選り好みせず、飢えた時は食物の好き嫌いを言わないというようなもので、皆大喜びして、その飯を五六杯も、鼻につかえるほどの山盛りにして食べた。
「かわいい子には旅をさせて苦労を知らせよ」ということわざが今は身に染みて感じられる諫早の風であると、歌を詠んだ。)
二十六日、日見峠を越えて長崎に到着した。峠の麓には「目にかゝる雲やしばしの渡り鳥」という芭蕉の句を彫った石碑があった。ここで上巻が終わる。
(ロ)下巻
下巻の冒頭は、長崎の町の詳しい描写で始まっている。「町の風もどこやら唐めきて、料理屋の軒には、ぶたのゑだ(注4)を釣り下げ、茶屋の二階には月琴の曲をうたへり」というように、異国情緒に満ちた町は「誠に、『びいどろを倒しにつりし』といふやうな荘厳」であった。鍋島、黒田の両藩が警護にあたっている番所で、左右の岸に石火矢がずらりと並んでいるのも見た。唐人屋敷を見物したくて、知り合いの儒者に相談すると、このごろは出入りが厳しくなっているが、通訳の部下に化けて行けば大丈夫とのこと、そこまですることはないと思って燕石は見物を断念したが、後になってやっぱり見ておけばよかったと後悔したのだった。
唐人屋しきを見物せんと石渕仁十郎といふ儒者に相談せしに、「近年八幡物の御制禁きびしくなりて、妄りに館内江入る事を許さず」といふ。されど譯史にたのみて、その僕となりてゆけば随分らくの事もありといへど、かのひげばかりはやしてパア/\といふ唐人に逢んとて、人の草履とるのも口惜しき事に思ひてやめしが、あとにては後悔せしなり。
(唐人屋敷を見物しようとして、石渕仁十郎という儒者に相談したら、「最近では外国製品の輸入制限が厳重になって、屋敷の中に気軽に入ることができない」とのことだった。しかし、通訳に頼んで、その助手のようにして行けば案外許可が下りることもあるというのだが、あんな髭をやたら伸ばしてパアパア変なことばをしゃべる唐人に会おうとして、他人の部下になるのもくやしいと思ってやめたが、後でやっぱり行けばよかったと後悔したのだった。)
丸山の遊女屋の遊女は実に美しかったが、金がないので見るだけにして、その夜、小さい店の遊女を買ったが、普段肉を食べているからだろうか、その遊女の口が臭くて閉口した。このように、遊女を買ったことをはっきりと記しているのは、紀行では大変珍しい。また燕石は自作の洒落本「金郷春の夕栄」に口の臭い遊女を登場させており、あるいはこの時の印象によるのかも知れない。
此夜いとちひさき茶屋にゆきて、價ひ一貫〔酒肴附〕ばかりのヒヤハチ〔長崎にて遊女を「ひやはち」といふ〕をよびて一夜のちぎりを結ぶ。此女郎の口中にいとあさましき匂ひしければ、興もさめて打臥しぬ。あとにて考ふるに平生に豚や鶏の肉を食ひけるに依てその臭気の出しなり。
(この夜、大変小規模な茶屋に行って、酒肴つきで一貫文ぐらいのヒヤハチ(長崎で遊女のこと)を買って一晩過ごした。この女郎は口の中が変な臭いがするので、しらけて寝てしまった。あとで考えると、ふだんから豚肉や鶏肉を食べているから、その臭いが出て来るのだろう。)
阿蘭陀屋敷で、オランダ人が遊女を侍らせて酒を飲んでいるのを見る。対馬邸では朝鮮人に会った。
折節、涼み棚場のやうな高き処にて、阿蘭陀人酒のみいたりければ、其下江舟さし寄てつく/\見れば、顔白く鼻高けれど、髪はちゝんであかき事、南蛮黍の毛の如し。其側に丸山の女郎と思しき者、二三人並居いたり。こひつも頗るインランダ人と見へたり。
対馬邸の前にて朝鮮人を見るに、顔黒く惣髪にて山伏の姿に似たり。謙益ぬし烟草をのみ居たりしが手を出して乞ふやうにすれば、少しひねりてやりければ大いに喜び、我も/\と来たりてもとむ。
(ちょうど、涼み棚のような高い場所でオランダ人が酒を飲んでいたので、その下に船を近づけてじっくり見ると、顔が白くて鼻が高いが、髪がちぢれて赤いのはとうもろこしのひげのようだった。そばに丸山の遊女らしい女性が二三人居た。このオランダ人も大いにインランダ人にちがいない。
対馬屋敷の前で朝鮮人を見た。顔が黒く髪は長くたらして、山伏のかっこうに似ていた。謙益氏がタバコをのんでいたら、手を出して、もらいたそうにするので、少し紙に包んでひねって与えると大変喜んで、我も我もと次々に来てもらおうとした。)
五月一日に長崎を出発する。浦上の付近では茶店もなく、民家で茶をもらおうとしたが耳の遠い老婆がいるだけで、返事もしてもらえなかった。しかたなく野原で弁当を食べ、水を飲んだが、後で聞くと、このあたりは疱瘡をひどく恐れる地方なので、燕石の顔にあばたがあったのを見て、疱瘡の神と思ったのであろうと納得した。燕石は小柄で顔にあばたがあったと言われるが、この記事もそれと一致している。
浦上といふ山中を通りしに、峯巒峨々として漢画にかきし山水の如し。人家も少なふしてさびしき処也。我等つかれたれど、腰をかくべき茶店もなければ、路傍の民家に立寄て茶を乞ひけれど、あるじの婆々、聾の如くにして返事だにせず。ほと/\こうじはてゝ、野原に座して弁当をひらき、水をむすびて渇をしのぐ。後にきゝたれば此辺りは疱瘡をいたくおそれる処にて、我が麻面を見ても痘神とや思ひけるにあらんずらんと思ひしなり。
(浦上という山中を歩いていると、緑の山がそびえている様子は唐絵に描いた山水のようだった。家も少なくて淋しい場所だ。私は疲れたが腰をかけるような茶店もないので、道端の民家に寄って茶をもらおうとしたが、主人の老婆は私の声が聞こえないようにしていて、返事もしない。実に困りはてて、野原に座って弁当を開け、川の水をくんで渇きをしずめた。後で聞いたことだが、この付近では疱瘡を非常に恐れているので、私のあばたの残る顔を見て、疱瘡の神と思ったにちがいないと思ったことだった。)
大村では謙益が真珠を買ったが大変高価なものであった。また日光と同じ名のうら見の滝という滝を見物した。
五月四日には大村を出発して、其杵で宿をとった。非常に汚い家で閉口する。
四日。大村を立て其杵の駅に宿す。いときたなき家なるに、旅人多くとまりければ枕ふとんの類も不足にして混雑甚し。「のみ虱馬のばりつく枕下」と芭蕉がいゝしも思ひやられけるが、只蚊のひとつも居ざりしは、いとよかりしなり。
(4日。大村を出て彼杵の宿場に泊まる。大変汚い家である上に、たくさんの旅人が泊まっているので枕やふとんも不足していて、ごったがえしている。「のみしらみ馬の尿する枕もと」と芭蕉が詠んだ句を思い出す。しかし蚊が一匹もいないのは、大変よかった。)
五日には嬉野を通過し、駒なき峠を越えた。草鞋が破れたので買おうとしたが、釣銭がないので買えず、裸足で歩くしかなかった。このような記事も紀行では珍しい。同様の状況はよくおこったのではないかと思うのだが、足の豆や草鞋のことを詳しく記した紀行はあまり見たことがない。
うれしのてふ処に休い、鯨の肉にて節句の酒をくみ、酔に乗じて駒なき峠をこゆるに、巌角とがりて剣ぎの如くなれば、草履もいつしか長刀なりぞゆがみてければ、瓦橋てふ処の小店にて草履かわんとせしが、はした銭なかりければ、金を出して「かゑてん」といふに「つりの銭なし」といゝければ、せん方なくてはだしになりて行けるが、
草ぐつにかゑる事さへできざればこがねも今はかわら橋なり
(嬉野という所で休憩し、クジラ肉を魚にして節句の酒を飲み、酔った勢いで駒鳴峠をこえた。岩角が剣のようにとがっていて、草履もいつの間にかなぎなたのようにゆがんでしまったので、瓦橋という所の小さい店で草履を買おうとした。小銭がないので小粒金を出して「両替してくれ」と言うと、「釣り銭がない」と言うので、しかたなくて裸足になって歩いて行ったが、
草履に代えることもできないのでは、黄金も土地の名のかわらと同じ価値しかないなあと歌を詠んだ。)
六日には唐津に着き、七日には呼子の浦、名護屋城を見物する。九日には福岡近くの今
宿に着いて、亀井少琴を訪問し、竹の画を描いて貰った。再び福岡を経て太宰府の良斎の家に、十日から十七日まで滞在する。その間、十三日には志賀島に遊び、漁師の家で酒を飲んだが、その家の妻が口の悪い女であったため、良斎が怒って刀を抜きかけることがあった。
志賀嶋へ渡りしが、すでに申の刻下りなれば、すなどりする人の家に宿る。あるじの翁大きなる鱸をつりて帰りければ、良斎手づから膾に作り酒をくむ。この屋の妻、口さがなる女にて、無礼の詞多かりければ、良斎気早き人にて大に怒りて、「我々を誰とか思ふ。福岡藩中某し殿の身内にて某といふ者なり」と、刀にそりを打せければ、あるじ大に恐れ手をすりてわび言をすれば、やう/\怒をおさめ、残りし酒を温めて夜半まで飲ぬ。
命とるさじにやいたくおそれけん腰にさしたる赤鰯より
(志賀島に渡ったが、もう午後四時すぎていたので、漁師の家に泊まった。主人の老人が大きなスズキを釣って帰ったので、良斎が自分でなますにして酒を飲んだ。ここの主婦がおしゃべりな女で、失礼なことばが多かったので、短気な良斎は激怒して「私たちを誰と思っているのだ。福岡藩中何々さまの身内で何々という者だぞ」と、刀を抜きそうな体勢をするので、主人が恐縮し手をすり合わせて謝罪するので、良斎もやっと落ち着いて、残りの酒を温めなおして、夜中まで飲んだ。
医者の誤診で命を奪われる方が腰のさびた刀より恐かったのじゃないかと歌を詠んだ。)
また十六日には良斎の友人の蘭学者と謙益が議論をするのに燕石も加わって激論になったので、良斎が仲裁した。
良斎ぬしが友どちに、権丈立輔といふ蘭学の医師あり。弁舌流水の如くして、議論を好む人なりければ、良斎、我々が噺し相手に呼寄しが、一夜、究理のはなしを謙益ぬしと論ずるに、蘭説家のくせなれば、神儒の二道をあしざまにいふにぞ、我等横槍を入れて舌戦の火花をちらすに、此男中/\屈伏せざれば、後にはたがひに高声になりて罵りあふに、良斎気の毒がりて和睦をはかり、末は酒にぞ成りにける。
蟹のはふやうな横むりいゝつのり滅多無少におらんだの流
(良斎氏の友人に権丈立輔という蘭学の医者がいた。話しぶりがなめらかで、議論好きなので、良斎は私たちの話し相手にと家に招いた。その夜、科学の話を謙益氏と議論していて、蘭学家にはそういう人が多いもので、神道と儒学の二つの学問を悪く言うので、私が横から割り込んで、激しい討論となったが、この男はなかなか自説を曲げず、最後にはおたがい大声でののしりあうようになって、良斎は困って仲直りをさせ、その後は酒をくみかわした。
蟹の這っているような外国の文字の学問にふさわしく、蟹が横に這うようなむりな理屈を言って、めったやたらにオランダの学問を主張することだと、私は歌を詠んだ。
十八日には良斎宅を出て、宇美八幡に参詣、八木山を経て、二十日には小倉に着き、船で下関に向かった。乗っていた相撲取りが、小倉の悪口を言って自分の郷里の広島をほめており、燕石もやや同感であった。
午の刻ばかり雨やゝはれければ、舟を艤して下の関へ渡る。乗合に芸州の相撲取あり。小倉の城下を顧りみていゝけるは、「此町はいと貧乏らしくて城下のやうにもなし。我国広嶋にくらぶれば月と鼈との如し」と。是は我国贔屓のやうなれど、少しは其理もありと思ひければ、
立続く家居小倉の名物の帯のやうなるせばき町哉
(正午になって雨は少し晴れたので、船を出して下関に渡った。船の中に広島の相撲取りがいた。小倉の町をふり返って言うには「この町は非常にみすぼらしくて、城下町のようにも見えない。私の故郷の広島と比較したら月とスッポンぐらいのちがいだ」と言う。この意見は自分の出身地をひいきしているように見えるが、少しは納得できる部分もあると思ったから、
小倉の町は立ち続く住居のため、街が狭く、小倉名物の帯のようだと、歌を詠んだ。)
二十一日には下関で、宿の主人の依頼に応じて書を書いて与えた。恥ずかしい思いであったが、主人は大いに喜んで酒をふるまった。二十二日の正午に下関から船出した。船はやはり大変な混みようで、各地の方言が耳についた。
午の刻ばかり、阿弥陀寺の早といふ舟をかる。乗合みち/\て膝をいるゝ処もなし。あたまは尻とかちやうて、韓信がむかしを思ひ、足は腹をふん張て厳子陵がおもかげに似たり。されど大勢ののりくみなればいろ/\おかしき事もあり。江戸ッ子のそゝり節に耳の穴をつきぬかれ、越後者の大訛りに腹の皮をよぢらせり。
(正午に、阿弥陀寺の早という船を借りて出発した。客が多くてぎっしりで、膝を入れる場所もないほどだった。頭は他人の尻とぶつかって、股くぐりをした韓信を思い出すし、足は他人の腹を踏んで皇帝の腹に足をのせた厳子陵のようだった。しかし、こういう大勢の乗り合いには面白いこともある。江戸っ子の歌う歌が聞こえるし、越後の人の方言に笑いがとまらなかったりする。)
こうして船旅十日の後、六月三日に琴平に無事到着する。
我をまつ尾の象山はまだ見へねども、ほど近し。指をかゞめて過越し方を考ふれば、三百余里の長程を行、六十三日の日数を経たりしが、是も蘆生が夢となり、はや一炊の粟島やたくまの浦の夕なぎに帰る布帆もつゝがなく、たがひにめでたく賀しにけり。
(私を待つ、松尾の象頭山はまだ見えないが、もう近いはずだ。指を折ってこれまでのことを思い出して数えて見ると、三百余里の長い道のりを六十三日かけて旅したわけだが、それも盧生が粟の粥が炊ける間に一生を夢に見たように、今となっては幻のようで、早くもその一炊の夢の粟の粥と同じ名の粟島や詫間の海岸に帰る船の帆も何の支障もなく、同行の謙益と、たがいに無事を祝しあったのである。)
この後に、最初に紹介した三井雪航の書き入れがある。
全体を通して、資料的にも貴重な記事が多い。また、他の紀行が往々にして書き落とす旅の日常を率直に記しており、目のつけどころや表現に感覚の鋭さが感じられる。好奇心旺盛で、歯にきぬきせない作者の人柄が全編にみなぎっている。
六 松荘の添削について
雪航の末尾の一文にもあるように、この紀行には奈良松荘が細かい添削を加えている。文脈を整理したり、意味がわかりにくい部分をわかりやすく変えているところもあるが、要するに俗語もまじえてやや乱雑な燕石の文体を、ととのって優雅な雅文に近づけようとしている。だが燕石の文の方が、破格な部分もあるけれど生き生きとしていて魅力的である。
近世の紀行は、中期から後期にかけて国学者たちの多数の作品の中から、伝統的な和文の面影を守りながらも、漢文調や俗語をも用心深くとりいれた、新しい雅文を創造することに成功している(注5)。松荘の添削によってすべてを直せば、ほぼそのような新しい雅文体になるだろうと思う。しかし、燕石の原文にあった活気は失われる。この紀行の定本は、やはり燕石の原文によって作られるべきだろうと思う。
七 おわりに
この紀行の中に登場する、太宰府の医師是松良斎、その友人で蘭学者の権丈五輔、長崎の儒者石渕仁十郎などについては、どういう人かまだ不明である。御教示頂ければ幸いである。
本稿は、平成七年度西日本国語国文学会においての発表に加筆したものである。なお、貴重な資料の閲覧をお許し下さった国立国会図書館、金比羅神社資料館、瀬戸内民俗資料館に深く感謝する。
注1(本文へ)
仮綴じの写本一冊。全集に収める「呑象楼遺稿」の抜粋か。
注2(本文へ)
「一冊、狂歌 猿赤山人」とある。実物は「よしこの」を集めたもの。
注3(本文へ)
燕石はこの時まで郷里を出たことがなく、淀の川舟も実際には知らないはずである。 それでもこのような表現が出てくるのは、この言葉がそれほど有名だったのか、あるいは彼が大坂に行ったことがあるのか、なお検討の余地があろう。
注4(本文へ)
豚の四肢のこと。
注5(本文へ)
日本文学協会発行「日本文学」1996年10月号所収の拙稿「近世紀行の存在」を 参照されたい。