近世紀行文紹介解題「真多念之夢」
(1)悪条件を乗り越えて
「雅俗文庫」に所収されている「真多念之夢(またねのゆめ)」(写本一冊。23.6×16.8cm、九行書、35丁。左肩題簽、外題「真多念之夢」、内題なし)という紀行がある。「国書総目録」には載っていない。序文末尾に「赤元良士弘」と作者の署名がある。天保五年の八月に小浜の雲(くも)浜(はま)を立って京都に遊び、近江から東海道を経由して江戸に赴く旅で、同行しているのは田子鳳(杉田玄白)、寺田生、池田生の三名である。八月二十八日の舞坂から、子鳳の友人池永生(江戸芝口の生薬屋大坂屋七郎兵衛)も出会ってそのまま同行する。
江戸時代の紀行の分量としては中編といったところで、漢詩と和歌と発句が混じる。これは、多くの江戸紀行がそうなっているように、句集や歌集や詩集や地誌と区別がつけにくいものになりがちな要素である。しかも京都と東海道という、紀行の題材としては、名所がすし詰めで名前の羅列に終わりやすく、名作が生まれにくい危険地域を二つも抱えている。紀行文学としての、興味をひくような記事や魅力的な記述を盛り込むにはかなり困難な条件がそろっているのだ。
にもかかわらず、この紀行は面白い。
(2)旅する自分を客観視
まず、江戸紀行の地誌的性格が切り捨ててしまいがちな一方、伝統的紀行では卑俗さゆえに無視される「個人の旅の日常」を書き留める姿勢が作者にはある。
紀行という形式は作者と主人公の視点が同一であるため、ともすれば同行者を含む旅の実態について記されず、読者に伝わらない場合も多い。だが、この作品は同行者との別行動やその際の処置、感想や批評を記し、読者を意識して客観的である。
(八月十九日)仁和寺(にんなじ)小室(をむろ)の御所帯(ごしよおび)取(とり)の池(いけ)広沢(ひろさわ)の池(いけ)も過(す)ぎ、嵯峨(さが)の釈迦堂(しやかどう)に至(いた)る頃(ころ)しも俄(にわか)に村雨(むらさめ)の降(ふ)り来(きた)れば、伴(ともな)ひし池田(いけだ)生、長途(てうど)にや労(つか)れけん、又(また)村雨(むらさめ)にや恐(をそ)れけん、「是(これ)より帰(かへ)らん」と云(い)へど、はる<と思(おも)ひ立(たち)し事(こと)なれば、「僕は帰(かへ)るまじ」とて、左右(さいう)へ別(わか)れ、たゞ一人(ひとり)案内(あんない)と打連(うちつれ)行く。「是(これ)まではる<の道(みち)を伴(ともな)ひ来(き)て名所(などころ)も見(み)ずして帰(かへ)るは不風流(ぶふうりう)とやいわん」とおかしく、口(くち)にまかせて狂歌(きやうか)す。池田生(いけだせい)、名(な)を喜(き)才(さい)といゝ、処(ところ)も嵯峨(さが)の釈迦堂(しやかどう)なれば、
さが<し其(その)うへ喜(き)才(さい)短(みじ)かくて池田(いけだ)ものではないといふしやか
(九月五日)天気(てんき)も曇(くも)りてあしけれど、またの序而(ついで)もあるまじければ、江(ゑ)の嶋(しま)鎌(かま)くら一見(いつけん)せんと人々(ひと<)をすゝむれば、子(し)鳳(ほう)は「一度(ひとた)び行(ゆき)し」といゝてしたがわず。されども二田(にでん)の両生(りやうせい)は同心(どふしん)なせば、「いでや行(ゆか)ん」と家僕(かぼく)も不残(のこら)子鳳(しほう)に付(つけ)て、今宵(こよひ)の泊(とま)りへいそがせ、只(たゞ)三人(さんにん)蓑(みの)桐油(とふゆ)せたらをい、一(いち)チ足出(あしいだ)して藤沢(ふじさわ)さしていそぎゆく。
また、雨の苦労や草鞋による足のまめの痛みなど、「東海道中膝栗毛」が描くまで紀行には登場することの少なかった、旅の生活の日常にもふれる。
(八月二十二日)笠(かさ)の破(やぶ)れよりつとふ雫(しづく)は衣(ころも)の襟(ゑり)をひたし、みのゝすきまより降(ふり)かゝるは裳(もすそ)をうるをして着(き)たるもの、足(あし)にまとひて歩(ほ)もすゝまず。泥土(でいど)はじふをうにすべり草鞋(わらんず)は足(あし)をくいて、かなしさ言(いふ)計(ばか)りなし。
(3)多彩な要素を巧みに融合
京都とその近郊の盛りだくさんな名所の記事はたしかに、ややありきたりなのだが、俳諧と漢詩とを縦横に引用することで奥行きを増し、個性的な表現を生むことに成功している。
元来芭蕉紀行の影響は江戸紀行には薄い。だが、この紀行では冒頭の文章のあちこちには、それと明確にわからないほど溶け込んだ「おくのほそ道」の模倣があり、明らかに芭蕉への強い傾倒が見てとれる。
中世以前の紀行と江戸時代のそれとをわかつ大きな要素である軍記物の利用についても、近江の義仲寺、東海道の桶狭間、鎌倉など随所に生かされている。
漢詩を多く含むのも特徴だが、それ以外の部分での漢文調の風景描写も、よくこなれていて効果的だ。
つまり、文体でも題材でも雅俗を自然に無理なく融和させている。さまざまに要素の異なる豊富な題材を用いながら、雑然とした印象は受けない。決して長編ではないのに詰め込みすぎの観はなく、全体の配合の良さは、むしろ淡白な印象さえ与える、きわめて上質な作品である。
(4)川留めの貴重な資料
資料という点での題材や内容の面白さというなら、この紀行の最大の特徴は、東海道の大井川と富士川の、川留めと川明けの実態がかなり具体的に書かれていることだろう。
大井川では嶋田の宿で、夜明けに川が明きそうだと主人が知らせる。
九月朔日。未(いま)だ川(かわ)も明(あ)かざればゆる<つかれも休(やすめ)んと人(ひと)々臥(ふ)してありしに、やどのものいそがしげに呼(よ)び起(おこ)し、朝餉(あさがれい)もち出(いづ)れば、人(ひと)々ふしんし主(ある)じを呼(よび)て、川(かわ)のやふをとふに、「夜中(やちう)水(みづ)殊(こと)のほか落(おち)候へば押(おし)付(つけ)川(かわ)も明(あ)き候わん」といふ。何(いづ)れもよろこび、いゝもそこ<にしたゝむる中(うち)、川(かわ)ばより人走(ひとはし)り来(きた)り「只今(たゞいま)川(かわ)明(あ)き候」といふ。みな<足(あし)をそらになし川原(かわら)へゆきて見(み)るに、聞及(きゝおよ)びし大河(たいが)ほどありて広(かう)々たる川原(かわら)も物すごく水色(みづいろ)は白(しろ)くにごりて逆浪天(げきらうてん)をひたせば、只(たゞ)れん台(だい)を力(ちから)となして向(むか)ふのきしへつく。
富士川では、旅客の多さに一つ手前の油井(由比)に泊って、浜辺で魚を取って楽しんでいると川が明いたと知らされて、もっと滞在したかったと笑う。
(九月二日)油井(ゆい)に至(いた)れば、此(この)ほど富士川(ふじかわ)のつかへにて旅人(りよじん)多(おゝ)く泊(とま)り居(い)る。池永(いけなが)がいふ、「此処(このところ)にさへ如(ごと)此(かくの)の旅人(りよじん)なれば蒲原(かんばら)へ行(ゆき)たりとも能(よき)宿(やど)はあるまじ。いざや此処(このところ)に泊(とま)らん」と言(い)ふ。何(いづ)れも同心(どふしん)し未(いま)だ巳(み)の下刻斗(げこくばか)りなれど、こゝにやどかりて泊(とま)る。此(この)日(ひ)は天(てん)色(しよく)朗(ほがらか)にして清風(せいふう)をもむろに来(きた)り海原(うなばら)平(たいら)かにして氈(せん)をしきたるがごとし。打(うち)つれ浜辺(はまべ)へ出(いで)て、むしろ舗(しき)て遊(あそ)ぶ。池永(いけなが)は小船(こぶね)に棹(さお)さし引網(ひきあみ)さして楽(たのし)む。子(し)鳳(ほう)遠眼鏡(とうめがね)など取(と)り出(いだ)し浦(うら)々(<)の景色(けしき)をながめ居(を)る内(うち)、池永(いけなが)、猟(りやう)の魚持(うをもち)来(きた)り潮(うしを)を桶(おけ)に汲(くみ)て鯛(たい)、糸(いと)よりなどの諸魚(しよぎよ)をはなせば、悠然(いふぜん)とをよぎ廻(めぐ)りてうつくしき、言(いわ)ん方(かた)なし。則(すなわち)、子(し)鳳(ほう)が包丁(ほうてう)にて人(ひと)々(<)また一杯(いつぱい)の酔(よひ)を催(もよふ)せり。
秋風(あきかぜ)の気儘(きまゝ)に海(うみ)をふく日(ひ)哉
露(つゆ)はら<と芦(あし)の穂(ほ)のうへ
松(まつ)ヶ根(ね)の落葉(をちば)まくらに酔臥(よひふ)して
日(ひ)も暮(く)れに至(いた)り、やどへ帰(かへ)れば主じ立(たち)出(いで)て「明朝巳(みやうてうみ)の刻(こく)、富士川(ふじかわ)明(あ)け候」といふ。皆人(みなひと)今日(けふ)のながめにめで、「扨(さて)も名残(なごり)をし。今(いま)ひとひも泊(とま)りたし」などいふもをかしく、越(こ)し方(かた)の咄(はなし)に夜(よ)を深(ふか)く、はや九(こゝの)ッの鐘(かね)も告(つぐ)れば、又(また)かりねの夢(ゆめ)を結(むす)びぬ。
宿の様子や旅人の心情がこれほど細かく描かれるのは、紀行だけでなく近世文学全体の中でも珍しいと言ってよい。
(5)板行を意識か
引用部分を見てもわかるように、漢詩も含めて全体に詳細な振り仮名が付されている。これは紀行の写本では珍しいが、板本の場合は普通なので、あるいは板行を意識して書かれたものかもしれない。
(6)追記
紀行の調査を始めたばかりの大学院生のころ、中野先生のご自宅にお邪魔して、御所蔵の紀行をすべて複写させて頂いた。漢文紀行が多数あり、この分野に手をつけられないままだった私は、大学紀要などに連載した「近世紀行文紹介」という目録の中で簡単な紹介をしたにとどまっている。
いくつかあった和文の紀行もまだ十分に紹介したとは言いがたい。せめてこの作品に今回ふれることで、今後の研究を進める決意表明としたい。
それにしても、こうして振り返ると、あらためて何とのろのろ歩いてきたかと自分で唖然とする思いである。日暮れて途遠しどころではない。真夜中になっても歩き続けていれば、その内に夜も明けるかと開き直りたいぐらいだ。とにもかくにも目的地は目指したいので、中野先生にはどうかそれまで待っていていただければ、いやいっそ突然路傍の藪からがさごそと現れるまでしばらく忘れていて下さればと、図々しくも自分勝手なお願いをするばかりである。