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うにゃうにゃにょろにょろ

いつものことですが、例によって例のごとく、話があっちゃこっちゃ蛇行します。へび年だけになんちゃって。あー、疲れてるわー私。

受験シーズンだもんだから、ニュースその他では「受験生がんばって下さい」みたいな、コメントやエールが飛び交ってる。もうそれこそ足掛け五十年も以前のことだが、自分が受験生だったころ、こういうコメントやはげましのことばに、すごくムカついて、一人でブチギレしてたのを、昨日のことみたいに思い出す。

何つうかね、一定の点数なり成績なり取れば、合格できる入学できるみたいなシステムだったら、そういうはげましでも別に気にはしなかったと思うのよ。

だけど、入試って、基本的に選抜でしょ。自分がどれだけがんばったって、それ以上にがんばる人がいたら、願いはかなわないんだよね。
 そのシステムがすごくいやだった。競争も勝敗もあっていいけど、学問や研究や教養をめざすことは、それとはちがう。一定の、その教育に耐えられる基礎体力か学力があれば、それでよしとするべきで、よりよい者を選抜し、他はふるい落とすような性質のもんじゃないと思った。今でもそう思ってる。

そういうシステムに身をまかせるしかない受験生の自分がいやだった。そして、そういうシステムの中で、誰かがふりおとされることを前提にして、皆に「がんばりましょう」と、しれっとニワトリレースでも応援するように言うやつらの無責任さが恥知らずさが、もう本当に汚らわしくて許せなかった。

自分の身内とか恋人とか誰かに肩入れして、その人が合格して他の誰かが落っこちろと祈るのは、全然気にならないし当然だと思うし許せるし共感できる。誰ということもない不特定多数に向けて、その中のある者は絶望し敗北し脱落すると知っていて、なお「皆がんばってね~」としらっと応援できる神経が、もうほんと耐えられなかった。タイタニック号で氷の海に沈んで行く人たちに、「がんばって~」と飛行機の上から旗振って応援してるやつらのようなおぞましさしか感じない。少なくとも私には、そんなエールは送らないでくれ、耳が腐れると怒っていた。

そんな受験制度を何とかしたいと思いつつ、教育界に身をおいて、受験制度にもたずさわって、何もできないままに年老いた自分にもうんざりする。小さな努力や戦いはしたつもりだが、ほんと、地獄をスポイトの水で冷やすほどの成果も効果も生めなかっただろう。

今の受験生や若者の中に、私のようなことを感じたり考えたりする人はいるのだろうか。

私はコミック(アニメも)の「忘却バッテリー」は、ひたすら面白いしギャグやキャラが好きで読んでるのだが、油断してると、とんでもない深遠なテーマがひそんでいそうで、ときどきぎょっとさせられる。受験勉強とスポーツ競技は、その前提からしてちがうとは言え、相手に勝つこと、たたきのめして絶望させ敗北させることへの懐疑や疑問や嫌悪感を、こんなに強烈に提示している作品はなかなか見ない。

中学時代の天才捕手要圭(かなめ・けい)は記憶喪失になって以前と正反対のアホになっている。彼に敗北して絶望したライバルたちは、動揺して対応に困り激怒する。それに対してアホの圭くんは、「僕を嫌わないで下さい、嫌われたと思っただけで眠れなくて肌が荒れます」などと土下座して頼む。

抱腹絶倒しかないシーンが、なぜか不自然に思えなかった。完全に忘れていた幼い自分を思い出した。クラスの一人にでも嫌われたら気になって何も手につかなかったなあ。大学を出て社会人になって、喧嘩も対立もまったく苦にならなくなった今では想像もできないが、中学高校のころの自分は確かにそうだった。「仲よくなろうよ、僕を嫌いにならないで」と、かつて容赦なくたたきのめしたライバルたちに懇願し甘える圭の感覚は、多分決してそんなに珍しいものではない。

あれこれあって、かつてのライバルたちと仲間になり、練習試合も行って、でも厳しい練習も相手との対決も大嫌いになってる、アホの圭くんは、試合の攻撃中に「もうやめよう、こんなこと」と弱音を吐き、「これだから世界から戦争はなくならないんだ」と口走る。仲間も読者も私自身も、ただもうあきれてバカにして、流してしまう超絶ギャグだが、しばらくたってから私は、このずっこけの極致の発言「これだから世界から戦争はなくならないんだ」は、最高のギャグであって、それゆえにギャグではないのではないかと思って、ひやりとした。

圭くんが人間離れしたほどのクールで冷徹でストイックな天才捕手になったのは、生まれつきではなく、研鑽と努力のたまものである。それを生み出し支えたのは、幼時からの親友でこっちはほんとの天才の投手清峰くんへの友情と愛情と保護者意識で、この関係もすごく納得できる。

その清峰も、元来気弱で優しく傷つきやすい。それを守るためには、敵を倒し敗北させても絶対に同情せず共感せず、無関心で不感症な人間に改造するしかなく、もちろん圭もそれに先んじて、冷たく厳しく相手に絶対同情しない自分になるしかなかった。
 けたちがいの実力で、相手をたたきのめし、絶望させ、落伍させて行くことへの罪悪感も恐怖も、いっさい封印し記憶にとどめない「忘却バッテリー」がこうして誕生する。

圭が記憶喪失になった過程も原因もいまだに作中では明かされていない。しかし、ともあれ、そのように、「踏みにじり、切り捨てて、葬ってきたすべての存在」が、圭に与える負荷が原因で何かが崩壊したという予想はつく。しばしばよみがえる記憶や過去の追憶の中で、彼が恐怖させられるのは、敗北させ、葬り去った数しれない者たちの怨念や憎悪、そしていつかは自分たちもまた、そちらの側に行くのかも知れないという予感である。いささかしつこいぐらいに、その思いは、無気味さもともなった映像で、くり返し示されもする。

たたきのめして葬った恨みや憎悪の塊である、かつてのライバルたちは、今、魅力あるたのもしい仲間として、また誇張されたこっけいなキャラとして、作品を華麗に彩る。だがその楽しみがあるにせよ、圭の心に横たわるこの「自分たちが殺した者の記憶」という深淵の暗さと重さは、いったい読者に拒否感や嫌悪感を催させないのだろうか。

催させないだろう、と私にはなぜか確信できる。対決であれ、競争であれ、勝利によって自分が葬り去ったもの、そうして闇に消したものの記憶は、どんな時代にも、どんな人にも何がしかはきっと存在する。そういう意味で、これはもう野球漫画でもスポーツ漫画でもない。それに名をかりた、「もうやめよう、これだから世界から戦争はなくならないんだ」につながる、生き抜くこと、勝ち抜くことの悲しみと恐怖を描く物語だ。この過酷な世の中で愛するものと自分を守り抜くために、人間らしさを殺さなくてはならなかった主人公が、それを否定し、人間らしい欲望や弱さを自分に許し、「ラブ&ピース」で生きるためにはどうすればよいかをさぐって行く、再生の記録だ。

「ラブ&ピース」にしろ、「これだから戦争はなくならない」にしろ、手垢のついたマンネリのギャグでしかないフレーズで、それを伝えることの巧みさとしたたかさ。私自身が今もしかしたら、記憶喪失した圭くんのように、かつての激しく不自然な人間離れした思考の数々を、塗り替えて、穏やかに、より現実的に作り直して行こうとしているのかもしれないとさえ思わせる、作品世界のふくよかな豊かさ。

あーれー、まあ、ほめすぎかしらん。

まだまだ書くことは公私ともにいろいろあるんですけどね。何とまあ、そろそろ日が暮れて来たわ。夕ご飯の準備をしないと。

雪のふる中、隣町に映画を見に行くべきかどうか悶々としていたら、さっきネットで調べたら、もうひとつ隣の街で、もうしばらく上映してるとわかったから、今夜は家でゆっくり過ごす。散らかりまくってるけど、うれしいな♪

「砂と手」シリーズの第二冊、第三冊の表紙のデザインが担当者から送って来て、すごく魅力的でいいんだけど、どこかどうしても釈然とせず、あれこれ迷ったあげく、一部修正をお願いした。たったそれだけのことなのに、全身をしぼりあげたような疲労感。文章を書いててもこういうことはよくあるが、最近はさすがに少なくなっている。でも代わりに、まだ慣れない下手なイラスト描きで、こういう迷いや悩みが生じる。きっついなあ。これについては、また書きますけど、要するに私は自分のイラストに、まるで自信が持てないのだよねえ。基礎的な勉強も訓練もしてないのだから、それが当然でもあるんだけどさ。

第二冊と第三冊の表紙に使う予定のイラストはこれなんだけど、まったく自信がないのよね。いやだから、かえって平気でこうして公開もできるんですけど(笑)。

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カツジ猫