映画「ヒックとドラゴン」感想集「ヒックとドラゴン」感想(やっぱり、おまけ)

ネタばれです。

キャラママさん。
そっかー、たしかにドラゴン=アメリカのイメージもいけますね。その場合、アメリカの政府は滅び、国もなくなり、アメリカ国民はイラクかアフガニスタンかベトナムに住んで、そこの人たちの生活にとけこんで、幸福になってるわけですね。それでもハッピーエンドというのなら、映画だけではなく世界にとってもそれはハッピーエンドでしょうよ。

性格悪い冗談はさておき、感想を書いたあとで、あっちこっちのサイトやブログで感想見てまわったら、私と同様、最後にこだわってる人もいましたね。ただ、そういう人たちでも映画は全体として好きで、ほめていて、それも私は同じです。

その中でひとりの方が、あれが女王蜂みたいなもんだとしたら、それを消すことはドラゴンを全部殺すことにはならないのか?と書いておられました。
まあ、ドラゴンたち、死んでなかったわけですから、そういう存在じゃなかったってことなんでしょうけど、でも、ドラゴンの何かが消え、何かが変質して、あれがもう実はドラゴンじゃなくなってるっていう可能性なら、ありますよね(笑)。

猫の去勢や避妊の問題とも通じるし、「カッコーの巣の上で」とか、ニコール・キッドマンでリメイクされた「ステップフォードの妻たち」とも通じるけど、ある種族、ある存在のやっかいな特徴を矯正し排除して、相手や周囲にとって心地よく、快い生き物に変え、本人もそれで幸福になる、っていう解決法って、どこまで許されるのか難しいです。

猫の避妊や去勢はもう完全に認められてますが、ツメを抜いてしまう手術もあって、それはさすがにたいがいの飼育書は批判してます。でも法的に禁止されてるわけじゃない。吠える犬の声帯を手術して声を出せなくするのも同様。

この映画で滅ぼされた存在が、もしやドラゴンたちの本質であったとしたら、それをなくしたドラゴンは、ツメを抜かれた猫、声をつぶされた犬、ステップフォードの妻、カッコーの巣の患者と変わりない。人間にとって便利で快適で楽しい存在であるだけの「なんか他の生き物」でしかない。

まあ、矯正し消さなくてはならない本質も人間や動物にはいくらもありますからね。本質と言われてるもので、別にそうじゃないものも多いでしょうからね。「女は支配されたがってる」とか「男はレイプしたがってる」とか「人間は戦争をやめられない」とか、問答無用で消してほしい本質(と言われてるもの)だって、いくらもあるんだし。

ですがとにかく、融和や共生とは、双方にとってがまんできない都合の悪いところがどうしても残るものだし、それがないのは私にはむしろとても、居心地悪いし薄気味悪い。そればっかりじゃ、めげますけど、相手や周囲がある程度、私にとって不愉快な方が、私は生きてる実感があります。それがまったくない日常は、誰かに無理をさせてるようで、不安です。

映像や話の流れで見る限り、私にはラストのドラゴンたちはペットにしか見えない。あれは冗談めかした表現だという指摘もあるし、事実そうなんでしょうけど、問題はそれが冗談にも何にも見えないことなんですよ。
外国人が多く住むことで問題が起こるように、彼らの存在で村が変質してしまうとか、ときどき数人食われるけど、それはまあしかたがないことになってるとか、そういうのだったら私は安心するのだけど。

他の方々の感想の中には、最後のヒックの払った犠牲にショックを受けた方も多く、たしかにあれはそう受けとるのが正しい鑑賞でしょうね。これは私がまちがっていた。私はあれはまるでショックでも何でもなかったので。
私のこの感覚にはいいとこと悪いとこと両方あると思いますが、私は特にお話の中では…もしかしたら現実でも、肉体の欠損や喪失をあまり深刻にうけとめないくせがある。手術で残った傷痕は見せびらかしたいし、乳ガンで乳房をなくした友人をカッコいいとは思っても、気の毒と感じませんでした。「宝島」のシルバーとか、「ピーターパン」のフックとか、悪役だけど最高に魅力的な人たちを見たせいか、障害を持つ人が不便でないようにしなければとは思っても、みっともない、かわいそう、という感情をまったく持てないのです。まあ、ほんとに、それには、いい面と悪い面があるけれど。

ただし前の感想で私が、誰かを悪者にして、他の誰もが傷つかないで皆が幸福になると書いたのは、そういう傷のことではなくて、憎み合い罪を押しつけあうことです。誰かに罪を全部着せて、その誰かをほろぼして、すべてはそいつが悪かったことにして皆が仲よくなる図式です。単に個人の好みだけどね、そんなことになるよりは、私は国どうしでも種族どうしでも憎み合ってた方がまだましだってさえ思ってしまう。

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カツジ猫