映画「ヒックとドラゴン」感想集つづけます。(「ヒックとドラゴン」感想もどき2)

ましてや、私が本来ならその加害者には絶対に手のとどかないような存在だったとしたら、その人と一体化しなきゃ生きられない状況になるのって、その人としてはそうするしか私を救うことができないからって…なんか決定的に、うまいことしたの相手だって気になるな、私なら。当事者でも、傍観者でも。
たまたま、その相手がとても私の好みであったとしてさえも、そういう関係なら、私は相手を拒絶する。そういう関係で、そういう相手と結ばれたくない。おたがいに、何かちがう要素や感情が愛にまじりすぎてしまうから。

さらに、そうやって結ばれたあとで、今度はその相手が病気になるとか破産するとか、決定的なダメージを受けて、私が必要となった時、それで愛が深まるか、絆が深まるか? もうなんかちがうだろ、すべてがどうしようもなく、決定的に。あー、もう考えてるだけで気持ち悪くなる。背筋に寒気が走るわい。
不幸や絶望や障害の中で愛が深まるのは、もともと愛があるからです。同情や必要性や便利さは愛じゃないし愛にはならない。
「セックス・アンド・ザ・シティ」のドラマの中で、主人公たちの一人が、昔の恋人も自分もたがいに最高の新しい恋人を得て、周囲も誰もが幸福になり満足しうまく行ってるその絶頂で、たまらず昔の恋人に愛を告白してよりを戻す場面があって、笑いながらも納得したけど、そういうもんでしょう、人と人とのつながりは。

この映画をアメリカの立場や精神に安易に結びつけるのは、やめなくてはいけないと思うのですが、しかし、ベトナムでもイラクでもどこでも、村や町を破壊したあと、けがをした子どもを抱きかかえて神妙な顔をしている米兵の顔ほど私が殺意を覚えるものはなくて、その子どもや住民の気持ちを想像しただけでやりきれなくなる。そういうことに無神経な人たちだから、ああいう関係をああも美しく描けてしまうのかとまで思ってしまう。

友情とか愛とかは、こういうかたちの持ちつ持たれつとは絶対にちがうと思うんだよなー。今にして思えば、私がラストのヒックの不幸に鈍感だったのも、最初の修復作業をきちんと理解しなかったのも、この映画が好きだからこそ、イヤなとこには目をつぶろうという無意識の防衛本能だったのかもね。

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カツジ猫