映画「ヒックとドラゴン」感想集けしかけるわけではないけど
じゅうばこさん
そうなると、それはもう絶対に「キャタピラー」も見なきゃいけないんじゃないですか?(笑)
わかります。人を不幸にしておいて、あるいは不遇のままにして、自分がなくてはならない存在になろうとするやつって最低です。
あの映画では、ヒックはとてもいいやつで、そんな魂胆はさらさらなく、すべて必然に結果としてそうなるというのが、職人芸なみにすごくうまいですね。
前に「昼が夜に負うもの」の感想で、第二次大戦のときのフランスの「正義の味方」「弱者の抵抗」のイメージがアルジェリア問題で決定的に傷ついたことについて触れておられたけど、アメリカも第二次大戦のときの「苦しんでいる人たちを救う頼もしい正義(ヨーロッパの解放)」という自分たちのイメージを大事にしていて、どうしても捨てきれず、それにもとづいて行動しようとするところがある。
人は、そういう役割を演じたくて、演じるチャンスがなかったら作ってでも演じようとするバカもいる。相手をわざわざ不幸にして、あるいは不幸のままにして、自分が救世主になろうとする。
でも大抵の人は、そんな欲望がひそかにあっても、わざわざしないで夢見るだけです。「ヒックとドラゴン」のあの設定にほれこむ人は、そういう「絶対にやましくない、文句のつけられない状況」で、相手をあのように自分の物にできる、最後は相手が自分に欠かせない存在に自分がなることで、強者の鎖と弱者の鎖の二重で相手を拘束できるという不可能に近いまでの完全なかたちで、その手の夢がかなうことに酔いしれるのかもしれませんね。もちろん別にそれは悪いことではありませんが。
滅ぼした村の住民をいたわる兵士の映像は私も複雑な気持ちになります。大変な極論を言えば、ソ連でのドイツ軍、中国での日本軍がしたと言われているように、同一の状況で赤ん坊や老人も含む村人をすべて残虐に殺す方が、まだ救われる気持ちがします。
これはもちろん暴論というもので、当の村人にしてみれば、それは大変困るでしょう。私がその村の人でも、そうやって殺されるのは嫌です。
ただ、私にその根性や勇気があるかは別にして、自分の村を焼き、戦闘員を殺した相手にいたわられ救われるぐらいなら、相手をけっとばして火の中に飛びこみたいです。
もちろん、そんな勇気はないから、屈辱に甘んじて救われるでしょう。殺される以上の屈辱に。
そういう選択をするしかない状況に相手を追いこんだことに対する、罪の深さというものがあります。最悪のほどこしを受けて誰よりも憎い相手を聖者にしてやるか、拒否して自分が滅びるか。その両者しかあり得ないようにした罪の重さを思い知るべきです。最初から相手をそういう立場に追いこまなければ、自分が救い主になることもなかった事実を、きっちり認識していてほしい。
「ヒックとドラゴン」の映画では主人公は、そのような状況を生み出した根本原因である戦争をなくそうという努力も、ちゃんとしています。だからいいと言えばいいのですが、だから肝心のトゥースとの関係の実は許し難いいやらしさが霞んでしまっているという点も見逃せません。よくできている映画ですが、大変ずるい映画でもある。これは誉め言葉でもありますが。(笑)
それにしても暑いです。猫も私ものびてます。