お買い物と文学18-奴隷市場
売買してはいけないものの筆頭には、やはり人間が来るだろう。そうなると思い浮かぶのは奴隷制で、奴隷制を扱った文学といえば、そりゃもうやっぱり「アンクル・トムの小屋」だろう。昔、文庫本二冊で読んだことがあるが、田舎の家に残してきてしまった。まああんな名作、いくらでも手に入るだろうと気軽にかまえてネットで検索して驚いた。子どもの本はそこそこあるが、ちゃんとした全訳本は、今はまったく出ていない。もちろん手にも入らない。
よくわからないこういう現象はときどきあって、日本の古典でいうなら、曽我兄弟物語がそうだ。私の子どものころは義経記と並んで児童文学全集にもそこそこ入っていたのだが、いつからか突然ぱったり見なくなり、それにしたがって、若い学生たちも義経は知っていても曽我兄弟は知らなくなった。歌舞伎では曽我物は依然盛んに公演されているのだから、考えれば考えるほどおかしなことだ。
「アンクル・トムの小屋」は、新刊でなくなったばかりか、古本でも手に入らない。ということは、ずいぶん前から読まれなくなっていたのだろう。私は初めは子どもの本、それも絵本に近いかんたんな本で読んで、美少女エヴァと黒人トムの悲しい別れしか印象になく、ちゃんと大人用の文庫で読んだときには、その波乱万丈の大エンターテインメントにぶっとんで、こんな面白い大河小説だったのかと夢中になった。エヴァのお父さんの聡明で優雅で、でもだらしなくていいかげんなセントクレアが私は好きで、のちに「チボー家の人々」を読んだときの、フォンタナン家の当主ジェロームのイメージが妙に彼と重なってしかたがなくて困った。しっかり者のフォンタナン夫人が、このぐうたらハンサム亭主をどうしても見捨てられないのも、「だってセントクレアみたいな人なんだろうから」と、心のどこかで納得していた。
本当は、セントクレアはジェロームと重ねては気の毒なくらい、しっかりしているし、皮肉でいいかげんな性格も若いときの失恋など理由があるし、何より、人種差別に批判的だし、奴隷たちも人間として認めている。それは道徳的というよりも、根源的なちゃらんぽらんさもあるのが、とても私は好きだった。こういう人物を創り出しているだけでも、作者のストウ夫人はただものではない。その他の登場人物も、ある意味型にはまりながらも、変化に富んで理屈に合って、とても魅力的な描かれ方だ。
それなのに完訳本がないなんて、と怒っていたら、それから数日後にまたネットを見たら、なぜか突如、わりと最近の完訳本が登場していた。でも売れないと思ったのか、大手の出版社じゃないし、五千円ほどもする。知るかと思って即注文した。大学の先生が授業でやった作業の発展らしくて、冒険や実験はないが、手堅い信頼できる感じの訳で、ていねいな註や古い挿絵もついており、久しぶりに原作の面白さにすっかりはまった。
冒頭からいきなり、美男美女の黒人奴隷の脱走劇があり、大河の流氷を飛び移って対岸に渡るという場面もあり、いやもういろいろ最高だ。こんな面白い本、何で出版しないんだろう。たしかに今の黒人の地位その他を考えると、奴隷制度は過去のものかもしれない。しかし、この小説でかわされる、たくさんの議論やいろんな主張、さらに人々の生き方は、現在のあらゆる差別、たとえば性差別、たとえば貧困と富裕の格差、その他の問題とみごとに、なまなましく重なり、決して古くもなければ色あせてもいない。ただ、ものすごい厚さなのに表紙は倹約してかソフトカバーなので、ベッドで寝ころがって読むのが大変だった。それでも、やめられないで、あっという間に読み上げた。
第一ページからいきなり、良心的で人道的だが、金に困ってしまった農場主が、冷酷な奴隷証人と客間で奴隷の売買交渉をしている場面が始まる。このやりとりで、いろんな状況がすっかり説明されるのも、うまいとしか言いようがない。しかし残念だがこの数ページ、引用するには長すぎる。ここでは、話がまとまって、一段落した後、この農場主が最後の書類にサインして、手続する場面だけを紹介しよう。
トムの小屋でこうした場面が繰り広げられている一方で、主人の屋敷ではまったく別の場面が展開されていた。
前に述べた食堂で、奴隷商人とシェルビー氏が、書類と筆記用具をのせたテーブルを前にして、一緒に座っていた。
シェルビー氏は札束を数えるのに余念がなかったが、数え終わるとそれを奴隷商人の前へと押しやった。奴隷商人もそれを同じように数えた。
「確かに、頂戴しました」と奴隷商人が言った。「ええっと、じゃ、ここんとこに署名していただきましょうか」
シェルビー氏は急いで、自分のほうに売り渡し証書を引き寄せ、嫌なことは急いで片づけてしまいたいと言わんばかりの様子で署名を済ますと、金と一緒に奴隷商人に渡した。ヘイリーは、使い込んだ鞄から手形証書を取り出して、ざっと目を通したあと、シェルビー氏に渡した。シェルビー氏は、沸き立つ感情をできるだけ抑えながら、それを受け取った。
「さてっと、これですっかりケリがつきましたね!」奴隷商人が立ち上がりながら言った。
「終わった!」感慨深げにシェルビー氏が言った。長く息をつくと、彼は繰り返した。「終わったんだ!」
「あんまりうれしいといった様子でもなさそうですね」。奴隷商人が言った。
「ヘイリー」とシェルビー氏は言った。「君は、どこの誰とも知らないやつには、トムを売らないと約束したね。君の名誉にかけても、そのことは忘れないでもらいたい」
「あれっ、旦那は、この件をもうすっかり終えられたんじゃないんでしたっけ」。奴隷商人が言った。
「君だってよく知っているように、事情があってやむをえずしたことだ」。シェルビー氏が高飛車に言い放った。
「そうですかい。旦那もご存知の通り、私にも事情ってものがあるかもしれませんよ」と奴隷商人は言った。「でも、トムによいねぐらをあてがうように、できるだけのことはしますよ。私がトムをひどく扱うなんてことは、いっさいご懸念には及びません。もし私が神様に感謝することがあるとすれば、私が最近はそんなに残酷な人間ではないってことですからね」
奴隷商人が前に彼流の人間性の原理について説明したあとだったので、シェルビー氏はこういった彼の言葉で特に安心させられたわけではなかった。しかし、今の状況では、奴隷商人のそうした言葉以外に慰めがなかったので、彼は黙って奴隷商人が立ち去るままにした。そして、葉巻を取り出すと一人寂しくふかし始めた。
このシェルビーさんは善人だがヘタレで、売った奴隷のトムと、残される家族に顔を合わせるのがつらくて、売られていく当日は出かけてしまうぐらいだ。しっかり者の奥さんのほうは、この売買を知らされてなかったのだが、とても嘆いて夫を責め、のちに息子とともにトムを買い戻そうと手をつくす。金に困らないためには、この女性に農場の切り盛りをまかせたほうがよかったのだと作者は書いている。彼女は当然当日も、きちんと別れを告げに来る。
トムといっしょに自分の幼い子どもを売られたが、それを知って子どもを連れて逃亡したイライザは、この夫人のおつきの奴隷だった。彼女が氷を渡って対岸に逃げたときに、助けてくれて逃亡に手を貸す家族も、夫は議員で法律を犯すことに二の足を踏むが、優しくおとなしい夫人のほうは断固として、イライザを救い、法を破ることをいとわない。(そう、文学はこうして、正しいことのためなら法を破ることを、ちゃんと教えるのですよ。)それじゃ、常にそうして妻が夫よりもまともで強くてしっかり者かというと、こういう女性たちを何人も出したあとで、エヴァの母、セントクレアの妻の、自分のことしか考えない、わがままで役立たず以下の貴婦人マリーをちゃんとしっかり登場させるから、作者のバランス感覚はすばらしい(笑)。
ちなみに、セントクレアは、親切で良心的な主人だったのに、自分の死後のことなんか何も考えてなかったから、タッチの差でトムを解放するための手続きが間に合わず、それが最後の悲劇につながる。私が自分の身の回りのペットや品物を、自分の死後にどうするか、いつも気にしてしまうのも、きっとこのセントクレアの生活態度から学んだ教訓だ。
トムが他の奴隷たちと競売にかけられる場面もいくつかある。こういう奴隷市場の場面は、ある意味煽情的な興味もそそるのか、ポルノ小説「好色なトルコ人」(作者不明 富士見ロマン文庫)とか、ファンタジー小説「熱砂の大陸」(マーガレット・ワイス&トレーシー・ヒックマン 富士見文庫)とか、その他多くの文学作品にちらちら登場する。紹介しているときりがないので、こちらは古代の奴隷制の話だが、わりと細かくリアルな描写のあるものを、二つとりあげておこう。
「ここはわたしにまかせなさい」父は命じた。「ヴェナリキウスはつけこもうとするかもしれないからね。本気で買おうとしている相手だと、ずっと遠くからでもかぎわけるんだ。値段をつりあげたり、倍にふっかけたりするかもしれない」
「まさかそんなこと!できないでしょ?」
「売ってしまうまでは、何だってあいつの好きなようにできるんだ」父は重々しく答えた。「下がっていなさい。見えないように」
フラビアは革の財布を父に渡して、大理石の柱の陰に身を隠した。父のジェミナス船長はやじ馬をかきわけていき、どれいたちの並ぶ前をさりげなく行ったり来たりしはじめた。フラビアは、例の少女につけられた値段がほかの女たちの倍もすることに気づき、朝日のなかで身をふるわせた。
「おや、これはお若い船長さん、マーカス・フラビアス・ジェミナスじゃないか!買う気があるのか、それとも冷やかしか?」ヴェナリキウスはせせら笑った。フラビアには、父の背中がこわばるのがわかったが、父は黙ってそのまま歩きつづけた。
「これはいくらかな?」父が赤い目をした十代後半の娘の前で立ち止まり、たずねる声がきこえてきた。
「三百セステルスだよ。読めないのか?」どれい商人はぶっきらぼうに言った。(略)
軍人が立ち去ると、フラビアの父はあの少女を指し示して、ヴェナリキウスに向かって冷静に声をかけた。「これをいただくよ」
「ちょいとお待ちを」ヴェナリキウスは作り笑いを浮かべた。「ほかのお客さんがいらっしゃるもんでね」薄汚れたトーガ姿の太った商人が別の女を見ていて、ヴェナリキウスはわざとらしくそちらの相手をするふりをしている。
あのどれい商人ったら、わざとわたしをやきもきさせてるんだわ!フラビアはひそかに思った。キャロライン・ローレンス「オスティア物語」 PHP研究所刊
ひとりの男がやってきて、ベリックをちらっとながめ、行き過ぎてからためらい、またもどってきた。快活で男らしい顔をした若者で、いかにも鎧を着慣れた武人の雰囲気があった。男はベン・マラキに話しかけたが、その視線はベリックに向いたままだった。その視線にあって、ベリックは突然なけなしの希望を感じ、奴隷監督に蹴られるのを待たずに立ちあがった。
「それで、この子はいくらなんだ?」若い男は、ベン・マラキがいつもどおり長々と商品をほめちぎるのをさえぎって、たずねた。
「たったの二千セスティルティウスでございますよ、百人隊長殿」
「千セスティルティウス」若い男は言った。
「またまたご冗談を、百人隊長殿」ベン・マラキは両手を広げてほほえんだ。「では、千九百におまけいたしましょう」
「千百」
交渉は早口で静かに行われたので、ベリックはほとんどついていけなかった。だがついに男が、これで終わりだ、という身振りをして言ったことは、はっきりわかった。
「千三百五十。これ以上は出せない」
「千七百」ユダヤの商人は言った。「これ以下ではどこに行ったって、ダキア(現ルーマニアのあたり)までお供をさせる強くていい奴隷は、手に入りませんぞ」
「それならば、奴隷なしで行くしかないな」
「千六百五十― えーい、こいつを千六百五十で連れていってください!」ベン・マラキはうめいた。「あとでかわいそうな老いぼれを破産させたという悪夢にうなされませんように」
「千三百五十以上は出せない。金がないんだ」若い男は、もう背中を向けていた。「すまないな」彼はベン・マラキにではなく、ベリックに言った。そして行ってしまった。ベリックは急にめまいがして、また座りこんだ。ローズマリー・サトクリフ「ケルトとローマの息子」 ほるぷ出版
ところで不謹慎かもしれないが、こういう場面を読んでいると、私は自分が売られる立場になるのは、まあ選択の余地なくそうなるということも含めて、まだしかたがないと思うが、こういうので買う立場になるのは、ものすごく耐えがたい気がする。これは、好きな俳優やタレントの写真集やDVDを買うときもそうかもしれないし、そもそも買い物一般が全部そうかもしれないが、「自分の好きなものを人前に明らかにする」ことに、ものすごい羞恥と抵抗がある。
買いにくいものは、と学生にアンケートをとったとき、生理用品という回答もそこそこあったが、そういう必要不可欠なものなら私は苦にならない。自分の好みで選ぶのが苦手だ。きっと合コンや婚活もだめだろうなあ。奴隷を買うのでも、きっと気に入った「商品」は買えないで、むしろ好きでないタイプの奴隷を購入してしまいそうな気がしてならない。
多分それは、少しでも愛や好みや選択がまじるものは、売り買いしてはならないという抵抗感のせいだろう。しかしそういうことを言うのなら、大学受験や就職試験、採用試験のすべてはしょせんそういうものであり、だからそういうもののすべてに、私はいつも、いくぶんかのおぞましさを、きっと感じてしまうのだろう。そう考えると「赤毛のアン」を私が好きだったのも、彼女が「選ばれた」孤児ではなく、「まちがいでやって来た」孤児だったということが、一つの大きなやすらぎだったのかもしれない。
で、これが、私が持っている剣闘士のフィギュア。スパルタカスに典型的なように、彼らはおおむね奴隷だった。上にかかっているキーホルダーは、映画「グラディエーター」の記念品か劇場で売られていたグッズ。私はこの映画に妙にはまって、映画館だけでも多分百回近く見たのではないかと思う(笑)。主役の俳優を臆面もなく好きだと言い散らかして、ファンフィクションまで書きまくったのは、顔を合わせることもないネットの世界のおつきあいで、ファンサイトに入り浸れたからだろう。
フィギュアもたしか、その余波でコンビニで買った。人間何かにはまっているときは、予測もつかないことをする好例としか言いようがない。長いこと、家の片隅の飾り棚に押しこめていたのだが、この「お買い物と文学」シリーズを書くついでに、ふと思い立って、壁掛けを買ってのせてみたら、なかなか面白いので、ここでパフォーマンスしていてもらうことにした。何しろ軽くてちゃっちいので、地震があって落っこちても下のものを傷つける心配もない、ありがたく無害な集団である。