近世紀行文紹介江戸の女性紀行

(2013年に中間市中央公民館で講演したもの。小田宅子の紀行について話してほしいという希望だったのですが、私はあまり詳しくないので、女性紀行全般についての内容にさせてもらいました。)

1 江戸時代紀行概観

江戸時代の紀行というと、「おくのほそ道」がよく知られている。その一方で他の紀行についてはあまり知られておらず、「名作はない」と言われることもあったし、高校の文学史などでも「おくのほそ道」以外はとりあげられることがない。
しかし、実際には江戸時代になって平和が訪れ国内の治安もよくなったため、それまでとは比べ物にならないぐらい旅はしやすくなり、旅人も増えた。また参勤交代の制度や各藩の政策により、地方文化が発展し、それまでの都と地方のような大きな文化の差がなくなった。
それまでの紀行は主として都の人によって書かれ、旅先の土地は恐ろしい異国で旅はつらい悲しいものという図式で書かれていた。しかし、江戸時代になると、地方の人も紀行を書き始め、旅は娯楽や見聞のためという性格が強まり、紀行もまた、旅先の土地に関する情報を満載した明るい作品が増えて来た。そうした中で、およそ二千五百点を超える多くの作品が書かれている。その大半がそれまでとちがって、旅の楽しさを語り、旅に役立つ情報を伝えるといった、現代の私たちの書いたり読んだりする紀行とよく似た内容となっている。江戸時代はそのような、現代に通じる紀行が登場した初めての時代でもある。

なぜ、それらが評価されなかったかというと、芭蕉の「おくのほそ道」があまりにも評価されたため、全体から見るとむしろ異色作のこの作品を基準にして、他のすべての紀行を「おくのほそ道」と似ているかどうかで評価した結果である。それでも明治から昭和初期にかけては、まだそういうこともなかったようで、決定的に「芭蕉の作品以外は見るべきものがない」という評価が定説になったのは、昭和十八年刊行の鳴神克己『日本紀行文藝史』であろう。すぐれた紀行文学史なのだが、「おくのほそ道」を非常に評価し、他の同時代の紀行をすべて低く評価した、この書の影響が、それ以後長いこと江戸時代の紀行を一般の人や研究者に注目されないものにした。

最近ではその傾向は見直されつつあり、貝原益軒、本居宣長、橘南谿、古川古松軒、菅江真澄、松浦武四郎、小津久足といった人々の作品を中心に多くの作品が紹介されはじめている。それらはいずれも、明るく知的で、感傷性は少なく、わかりやすい明晰な文体で、多くの知識や情報を読者に与えようとしていて、「おくのほそ道」とはちがった面白さにあふれている。

2 著名な江戸女性紀行

その中で女性たちの書いた紀行は、柴佳子『近世の女流日記辞典』(東京堂出版)によると、二百二十点ほどが確認されている。江戸時代の紀行全体のおよそ十分の一である。
それらの中では、どのような作品が江戸時代の女性紀行として知られていたのか。前章で書いたように、鳴神の『日本紀行文藝史』以前の近代に入ってからの紀行全集には、さまざまな作品が収録されていて、おそらくこれらが、当時の代表作と意識されていたのであろう。
たとえば有朋堂文庫『日記紀行集』には、井上通女「東海紀行」「帰家日記」、白拍子武女「庚子道の記」、油谷倭文子(しずこ)「伊香保の道ゆきぶり」が入っている。また明治版帝国文庫『続紀行文集』「続々紀行文集」には、小磯某女「奥のあら海」、土屋(三枝)斐子「旅の命毛」、只野真葛「磯づたひ」が収められている。通女、倭文子、斐子、真葛などは、江戸時代にも才女として知られており、作品も当時から評価されていたようだ。近代になっても人々が、江戸時代の女性紀行として思い浮かべる代表作は、このようなものであったろう。

3 江戸時代の再評価

少し以前までは江戸時代は封建制下、身分制度に虐げられて民衆は苦しんでいた暗い時代、というように考えられていたが、近年ではこの見解は見直されて、逆に江戸時代は理想的な大変良い時代だったという解釈も多くなっている。女性たちも、従来言われてきたように男尊女卑の社会で苦しんでいたわけではなく、のびのびと生活を楽しんでいたという見方が定着し始めている。
前田淑、金森敦子、田辺聖子など、さまざまな方々が調査し紹介された江戸時代の女性紀行も、そのような流れの中で、読まれてきている。それは、田辺聖子氏がここ中間市の小田宅子の「東路日記」をもとに書かれた、『姥ざかり花の旅笠』(集英社)のあとがきで、「女性文化の暗黒時代と思われていた江戸の世で、それも天ざかる鄙の地、商賈の家の女たちに、こんなにみやびでゆたかな文化が息づいていたとは。」と驚かれているように、それまでの江戸時代の女性たちに対する暗くて悲惨なイメージとの、あまりのちがいによる衝撃が、もとなってもいる。
私自身は江戸時代についても女性紀行についても、従来のような悲惨で暗い時代という印象はないものの、あまりに江戸時代はすばらしくて、女性たちは皆楽しく生きていたという目で、女性紀行を読むのには少しためらいがある。このように江戸時代が実は大変すばらしい時代だったという印象を強く定着させたのは、渡辺京二『逝きし世の面影』で、これは従来のイメージを払拭する大きな役割を果たした名著ではあるが、話をわかりやすくするために、都合の悪い資料は省くなど、創作として書かれている面も多く、うのみにするには慎重であるべきである。
自分自身のことを考えても、紀行や日記を幸福そうに書いているから本当にその人が幸福だったかは疑問であり、更に、その人自身が幸福と思っていたとしても、はたしてそれが幸福と言えるかどうかも、また疑問である。

4 女性紀行の限界

そのことは後でまたふれるとして、私は以下のいくつかの理由から、やはり女性たちの旅には男性と比較して制限があり、彼女たちが書く紀行には一定の限界があったと思っている。
第一は男性紀行のほぼ十分の一という数の少なさである。第二は旅した範囲や規模が、男性の著名な紀行作家たちに比べると、はるかに小さく、整備された街道沿いが中心であることである。さきに上げたような江戸時代を代表する男性紀行作家たちの長途で大部の紀行に比べると、たとえば辺境を探索し冒険するといったような旅行は、この時代の女性たちの大半には不可能であったことがわかる。
また、関所での取り調べの厳重さ、女人禁制の社寺の存在、自分の旅を自分で管理できない限界などが、彼女たちをしばしば苦しめている。

〔関所〕
○難波にて賜りし御印、関所に奉りしに、「わきあけたる少女」と書きわくべき事をえしらで、たゞ「女」とのみ書きて奉り、扨(さて)御印のことばにも「女」とのみありければ、ゆるし給はで、空しくもとのやどりに帰りぬ。いかゞ悲しくつらくて(中略)たゞ何につけても、女の身のさはりおほく、はかなき事ども、今さら取り集めて過すほどに、明暮も、おもひわかず。(井上通女「東海紀行」・天和元年・一六八一)
○午の時ばかり関にいたる。山のかひには、くぎぬきしわたし、関屋には弓やなぐひなど、きらきらしう置かせたれば、ことなき身にも胸つぶれ手足さへぞふるふ。かしこき影とたのみつる笠も扇もとられたれば、つくろはぬおもてに、ふくだみたる髪のこぼれかゝりて、いかに見ぐるしからむと、汗あえてけり。(武女「庚子道の記」)
〔女人禁制〕
○爰に秀郷の竜宮よりもて来し鐘有とかや。人に問ければ、これよりへだゝりて女人のまいらぬ所といふに、ちからなくて、もとの道に下りぬ。(吉見蓮子「つくしおび」延宝~天和頃・一六七三~一六八三)
○あなたこなた見めぐりて、いまだ午のときなりぬといへば、書写にこゝろざしおもむきぬ。(中略)いづこともしらぬ里々をか(丘)山をゆく。(中略)やうやう書写にいたりて、のぼりぬれば、女人堂あり。禁制としりせば来るまじきを、あだに労せしことよと、わびし。(真光院妙実「藻屑」安永六~天明七・一七七七~一七八七)
〔旅の主導権〕
○よろず、所を得て、もてあつかふ従者などいふもの、あはれなるをも思ひやらず、みやびなる心もなし。さるほどに、こなたは優に思ひしみつゝ、哀にも、おかしうも見過しがたき所をば、何とも思ひたえず、追立々々あらがひて、はしらするを、また、人多くて、きたなき者どもうちつどひ、がやがやと罵りがちにて、酒のみ物くひなどする所こそ、見るもうるせく、「はやう打過ね」と思へば、おのれはゑみゑみと口ひきたれ、鼻いらゝきてをるぞかし。(土屋斐子「旅の命毛」文化三・一八〇六)

こういう体験や不満は、宅子の「東路日記」をはじめとして、そういう記述のない女性紀行でも、存在はしていたはずだ。あくまで旅の明るさを描いて、こういう不快な体験は記さないというのも、紀行制作としてはあり得るだろう。だが私は旅の記憶や紀行の世界に、不愉快な体験をあえて持ち込んで、目をそむけずに記してくれた、この作者たちに感謝する。そして、たとえば宗像市が女人禁制の場所を世界遺産に登録してもらおうと努力しているのに対して、何も言えないでいる自分が、これらの不快さをしっかりと書き遺してくれた江戸時代の女性たちに対して、非常に申し訳ない気になるのである。

5 古典紀行との一体化

ただ、そのような事情が、女性たちがすぐれた紀行を生むのを妨げているかというと、そういうことでもない。
中世以前の旅は男女を問わず苦しいものだったし、それを基調とした、旅のつらさや悲しみが、紀行を書く上での枠組みだった。その中で「土佐日記」「十六夜日記」「海道記」といった、よく知られる名作が生まれたのだが、江戸時代になって、それまでとは比較にならず、旅が自由で便利になると、それまでの紀行の名作の雰囲気をそのまま踏襲して書くと、旅の実態にそぐわないし、書く方も読む方も、どこか実感とかけはなれたものになってしまう。
その中で、あえて古い紀行と同質の、孤独で苦しい旅の世界を作り上げ、描いて見せたのが芭蕉「おくのほそ道」で、一方、同じ時代の貝原益軒は「これは文学ではなくて、実用書です」という姿勢をとることで、江戸時代にふさわしい、知的で情報伝達を中心とした、新しい紀行を作り上げることに成功した。そして江戸時代の紀行の基調は益軒の示した方向に進むのだが、しかし、それまでの紀行の伝統にこだわって、あくまでも昔ながらの心情によりかかった、平凡で陳腐な作品も多く生れている。
だが、女性紀行には、そのような失敗作は私の見る限りではない。女性紀行と言ってももちろんいろいろで、時代が下るにしたがって、男性たちの紀行と同様、明るい楽しい紀行も増えるが、昔ながらの「旅の憂い」を主軸にして描いていても、女性紀行の場合には、閉された小世界で不安の中に旅をするといった、中世以前の紀行作者の旅や心情と、実態が比較的近いので、そういう感傷的で個人的な紀行を書いても嘘にならないのである。
皮肉なことだが、江戸時代の紀行作家たちの中では、女性作家だけが「昔ながらのスタイルでは新しい時代の紀行は書けない」という悩みを、ほとんど持たずにすんでいるだろう。彼女たちは昔ながらの紀行を本心から綴り、その図式に身をまかせておけばいいという、ある意味では恵まれた状況にあったのである。

6 精妙な描写

長途の旅や壮大な計画や精力的な取材といった紀行制作の題材とは無縁でも、彼女たちは限られた見聞の中で、鋭敏な感受性をとぎすまし、精妙な描写で風景や心情を綴った。
「旅の命毛」は、東海道で見た富士山を、次のように描く。

○卯月のけしきしるく、なからばかりより雪は消て、白き糸を引くだしたらんやうに見ゆ。ましろなるいたゞきも、只白きにはあらで、白きが中に濃淡あり。高きと低きと、くだりに、すじを削成(けずりな)せる、たとへば白芙蓉の弁の、白きすじを引きたる如く也。

「藻屑」は、瀬戸内海の島々を船中から、次のように観察する。

○帆をまきて櫓をたてぬれば、此島めて(右手)にみえて行。又ひとつ、まぢかくうかみ来にけり。遠くみえしには、まさりて大きに、岩ほのかたへに、人のあげたらむやうに丸き石のあがりて、あやうげもなきけはひ(気配)に、おかしきかたちなり。みれば、あとのかたによりて、すざき半(なかば)よりこして、長くながれたれば、みるめたちまさりぬ。やがて、これもあとになれば、又ひとつの嶋ぞ出来(いでく)る。此嶋は初のしまより少(すこし)大きにして、さきにながれずあり。あとにも沖の石のおほくつゞきて道をなせり。波のこすべくもあらず。さては、こすまじともみえぬさま也。嶋山のあとによりて、岩ほの中の明たる所より、むかひのみす(見透)かさるゝあり。此嶋かげより帆をかけたる舟の静に出くるも興あり。前に石づたひの道、長くつゞきたるしも(下)に、又ひとつの嶋山出ぬ。此あはひ(間)長くして、海を二重にみれば、舟々も、みえかくれて、いとゞみるめふかゝりき。乗たる舟ぞ行めれど、さはおもほへで、えもいはぬ嶋山のながれ行とぞみる。舟うち、こぞりて、ものをもいはで、ながめおりぬ。このおもしろき気色も、あと白波となりて、蒼々たる広き海づらとなりにけり。

これらの細かい描写は、男性紀行には見られない、すぐれたものである。特に「藻屑」の文章の、流れるような動きは、他の紀行でもあまり見られない、すばらしさだ。制限された視野の中で、彼女たちの観察眼や感受性がいっそう研ぎ澄まされて行ったことが予想できる。

ただ、どちらかと言うと、彼女たちの感覚は愛読していた古典文学の世界に強く影響されており、地方の宿でも「鄙にはまれな」美しい優雅な男女や調度に心ひかれ、庶民の生活の実態に強い関心は持っていない。先の土屋斐子の、従者に対するいらだちも、結局は賑やかな人々の営みの場所には激しい嫌悪を催すからである。
しかし、これも幕末の川路高子の紀行「たけ狩」では、土地の人々の布をさらす作業などに注目しているように、片ひじ張らない自然な社会性を持った視線もまた、彼女たちの紀行の中には、無理のないかたちで存在している。

○こゝぞ、かの水門村の布さらす所なりといふ。おりたちみるに、門のかまへ、ちひさからず。其内いく町ばかりかあらむ、いと広らかなる芝生、さゝやかなる岡などあり。其所せきまで、いく布か、かなたこなた、地に引わたし敷ならべためる、賤の男ども、おのがじゝ、ひきまさぐるもあり、かたはらに井のごとなるに水たゝへたるは、「あく」なめり。それ、ひさげして、くむ。いくたりか。むかひゐて布にそゝぐ、みるみる風に散くる村雨のふゞきに似たり。布にうす黒きあり、白きあり。くろきは布の日数すくなきなめり。さらす数へて、かう白うこそなるなれ。「是は三十たび、かれは、はたゝび」と、いひをしふ。
まことや、草より生立、糸により、はたに織、かく、さらすにいたるまで、いく人々の幾手にかかゝる、賤の苦心も露しらで、大江戸わたりの人なら、布は、みちべの草かなにやのごと、自然いでくるものゝやうに、たはやすうおもふ、いと愚にも、はた、かしこしや。

7 女性からの解放

「藻屑」を書いた真光院妙実は、熊本の儒学者藪孤山の姉で、烈女として知られた人である。末の妹が美貌の未亡人で、妙実は彼女の着物が美しすぎると怒ったことがあり、更にこの妹から、道行く人がその美しさに振り返るのを、どうしようかと相談されて、「お前の心が正しうないからです」と答え、悩んだ妹は自分の顔を火箸で焼いたという逸話が残っている。ところが、「藻屑」の中では明石の浜で出あった男性と親しくことばをかわし、別れた後もすれちがう舟の上から手を振り合ったりしている。

○また、おのこのひとり、ずさ(従者)ぐ(具)して来れるあり。同じこゝろに、やすらひて、ながめ居ぬ。やがて物いひかはし、「いずくよりぞ」とゝへば「日の向の国より」と、こたふ。「我は、ひのうしろ(肥後)の国より来りて、けふ、もろともに明石の浦をみむとは」など、打かたらひて時うつれば、彼(かの)人は舟に乗りて須磨の方へ行とて、わかれぬ。舟をまねけば、舟よりもまねきて、しばしがほどみ(見)つるに、嶋がくれて、みえずなりにけり。

彼女はこの時六十代で、当時の女性はある一定の年齢がすぎると、このような行動も比較的自由になるのであろう。小田宅子の紀行がのどかでのびやかなのも、同様な事情があるのかもしれない。
この他、幕末の勤皇歌人野村望東尼は「上京日記」で、男装して遊女町を訪れた体験を書き、只野真葛は海岸にまつわる亀や海女たちの伝説を長々と記すという異色作「磯づたひ」を遺している。

○関の舟にきたる、うかれ女どもとはことなり、いづれも美しげに居ならびたり。おのれを男と思ひ、「よろしくたのむ」など、いふも、をかし。「ひとりも心にかなはぬ」など、ざれごとして笑ひつゝかへるも、あまりあまり、むくつけきさまなり。(上京日記)

○今よりは十年ばかり前、沖に出て釣し侍りし時、四尺余の亀を得侍りき。乗合ひし釣人も六七人候ひしが、「亀は酒好む物と聞けば飲ませてん」と、僕(やつがれ)申したりしを、海士どもも「よからん」と申して飲せ侍りしに、一本ばかり飲み候ひき。扨、放ち遣り候ひしに、翌る年の夏、又沖中にて釣せし時、亀の出て候ひつれば、捕えて酒を飲ませて放ち侍りしに、一年有て、此度は、此貝を背に負ひて、磯より半道ばかり隔てたる所に浮び寄りて候ひき。僕は毎(いつ)も朝とく磯辺を見廻り侍りつれば、見怪しみて汐をかつぎ分て往て見侍りしに、例の亀にぞ候ひし。初め放ち侍りし時、目印を付侍りつれば、見る毎に違はずぞ候ひし。例の如く酒を飲ませて放たんとし侍りしに、左の手を物に噛(くひ)取られつらんと思しく、甚(いた)き疵を負ひて動くべくもあらず見え侍りつれば、人を集へて舟に担(かき)載せて(四人して漸く持たり)沖に漕出でゝ放ちて帰り侍りしに、夕つ方、又元の所に来て死侍りき。言葉こそ通はね、酒飲ませられし酬(むくひ)に、貝を持て来しならめと、最(いと)哀れに悲しまれ侍りつれば、骸(から)を陸に担上げて、小高き所の地を掘て埋め候て弔ひ侍りき。(磯づたひ)

宅子の「東路日記」は、これほどの異色作ではない。作者の人柄も穏やかで紀行は素直にたんたんと書かれている。田辺聖子氏の小説などで有名になるまでは、それほど知られてはいなかった作品だが、男性紀行でも、私が江戸時代の紀行の最高の完成度と考えている伊勢の小津久足の紀行類にしても、最近までほとんど知られていなかったのだから、まったくと言っていいほど研究されて来なかった江戸時代の紀行というジャンルにおいては、これはそう驚くにはあたらない。伊勢神宮や善光寺を参詣する長途の旅の様子が明るい筆致で描かれていて、当時の地方文化の高さもおのずと浮かび上がる。女性紀行のみならず、江戸時代の紀行の中でもすぐれた作品と言ってよい。 (2013.9.1.)

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