近世紀行文紹介紀行「妙海道の記」メモ(3)
目次
◇ところで作者の妙海だが、大昔の「大日本人名辞書」には妙海という人が一人出ているが、中世の人で明らかに別人だし、わりと新しい「国書人名辞典」にも名はないし、一応ネットで検索してもむろん出なくて、何者かわからない。…と言ってたら、ちょっとわかったこともあるので、下の画像紹介のところに書いておきます。
手がかりになるのは、「都のつと」の最後に、本人が「奥州津軽弘前最勝院弟子 妙海」と書いていて、京都では智積院にいる(ちなみにどっちも、今でもめちゃくちゃ有名な立派な寺)こと。そして慶応二年の「都の追づと」や、同じく三年の「奥の追づと」の冒頭で本人が書いてるのでは、弘前と京都とで二つの寺の寺主を兼ねていて、その内に京都では二つの寺を兼帯するようになり、ようやく一つを辞して、弘前と二つに減らしたとかいうことだ。
これは、この人がよっぽど有能で偉かったのか、当時はよくあることだったのか私にはわからないが、幕末だからそんなに昔ではなく、寺の名前もはっきりしてるんだから、その気になって誰かが調べれば、この人のことはもっといろいろ、わかるのかも知れない。すみません、私にはもうその時間がないのですが。
一応、その寺主兼帯のことを書いた部分を引用しておきます。
こぞ(去年)の秋、殿のめし給ふによりて、井手の郷なる井手寺より下りければ、おもひの外に、おほせごといなみがたくて、弘前のみきのほとりなる金剛山最勝院といふ真言宗新義派の談林の住職になむ、なりにける。さるに、此寺の住職は代々に都近き山科の郷なる、勧修寺宮の院室密乗院より、かぬる例なれば、おのれも、こたび最勝院の住職となれることを、まをし(申し)がてら、密乗院相続のみけしきたまはりに彼御殿へ参ること、いできぬれば、又、都わたりをさして門出す。
(「都の追づと」冒頭)
つまり慶応元年に殿様から青森に呼び戻されて、京都から戻ったんですね。そして最勝院の住職になった。そしてそれは、代々京都のお寺と兼任する決まりだったから、その手続きのために、この慶応二年の四月に、また京都に行くわけです。
こぞの八月に、山階宮より勧修寺の院室密乗院に□(図書館の印が押してあって読めない。くうう。「移」かな?実物の写本だとわかるだろうけど、写真じゃ、さすがになあ)転して、井手郷なる井手寺をも、これ迄のやうに兼帯すべき、おほせごとをかうぶりければ、ことし慶応三年の八月迄、しか(然。そのように)せしかど、おのが国の最勝院の住職も、殿のおほせごと、いなみ難くて、すてがたければ、井手寺の兼帯をば辞し、最勝院を兼帯して国へかへらまほしき由、ねがひけるに、ゆるし給へば、又、井手を立て故郷へ帰らむとおもひたつ。
(「奥の追づと」冒頭)
ううむ、こういう説明も、具体的でわかりやすいよなあ。しかも、「都の追づと」では、出発に際して、同じように旅だった「都のつと」の時とちがって、供も多い立派な旅になったことへの感懐もちゃんと書いている。
さて、大方の人たちには、惣門の前にてわかれぬ。されどなほ、したしき限(かぎり)は、あまた、したひくる。たゞ独(ひとり)かちより(徒歩で)ゆきかひせし昔とかはりて、こたびは乗物にのりて、ずさ(従者)あまたぐ(倶)したれば、いみじうにぎはゝし。
でも、全体としては、やっぱりそんなに面白い記事はないのよ、私もしつこいけど。
※そして、ネットで弘前の最勝院の画像を探してたら、「歴代住職」の所に妙海の名がちゃんとありました。三十三代だそうです。明治四十年に亡くなっているようです。ということは、案外最勝院のお近くの方は、お訪ねになってお尋ねになったら(笑)、もうちょっと詳しい資料とか伝記とかあるかもですねえ。おわかりになったら、どうぞ教えて下さいね。
http://www15.plala.or.jp/SAISYOU/
井手寺(井堤寺)は、今はもうないようですね。面影は、下の画像でしのんで下さい。
http://4travel.jp/travelogue/10621358
勧修寺も大きな寺ですが、これという画像がないなあ。ま、こんなところで。蓮がきれいらしい。
http://www.marutake-ebisu.com/temple/kajyuji.html
◇このへんで(って、最初にやるべきやろうけども)、国会図書館にある妙海の紀行を、一応まとめて紹介しておきます。なお、「第一冊」とかあるのは、私の持ってる製本の分冊で、単に私の検索の都合なので、あまり意味はないです。
安政2「都のつと」(第一冊)
多分弘前から出発してるんだろうが、青森県平川市碇ヶ関に最初に泊まって、矢立峠、金沢、郡山、那須、宇都宮、江戸から東海道を経て京都の智積院に至る、6月9日から7月12日までの旅。そこそこ面白いし考察も詳しいし、そんなに悪くないじゃん、という感じ。
安政4「伊勢路の日記」(第二・三冊)
京都にいる間に伊勢に参詣した紀行。これもまあまあ悪くない。途中の琵琶湖の義仲寺では芭蕉のことにふれており、松坂では「菅笠日記」を引用して宣長の生家に立ち寄っている。有名な伊勢の相の山での女性たちの描写は簡単。初瀬などでもそうだが、「菅笠日記」の影響が強い。よく引用もしている。
安政6「奥の家づと」(第四冊)
故郷に帰る紀行である。これもまあまあ記事はある。
安政6「越の雪踏」(第五冊)
再び都へ戻る紀行。かなり歌ばかりになっているが、まだちょこちょこと記事はある。同じルートだし、前の旅とあまり時間がたってもいないから、書くことがないのかもしれない。そういう点では旅の日常を描くっていう発想がないのかもしれない。親不知や福井のあたりには、やや詳しい記事がある。
慶応元「越路の月見」(第五冊)
井手寺の寺主になっていたら、弘前の殿に呼ばれて再び故郷に帰る。ますます歌ばかりになって、記事はほとんどないし、非常に短い。ただ、7月28日に象潟(もうこの時は田んぼになってる)のあたりの本庄で、龍が昇天するのを見た記事があって、これはいやに詳しいし珍しい。
慶応2「都の追づと」(第六冊)
先に述べた、弘前から都に戻る紀行で、従者が多い立派な旅だが、中身はやっぱりもうほとんど歌ばかり。4月21日の成田山の描写はやや詳しい。「相馬日記」も引用する。また27日の鎌倉見物では、大仏には堂も覆いもないことが記してある。5月1日の久能山の記事、5日の大木でのわびしい宿のさま、9日の佐々木弘綱訪問などもちょっと面白いか。
安政6「紀路の日記」(第七冊)
時期的にはもっと前のはずだが、製本はこの順序である。故郷の師が死んだ弔いもあって熊野や高野に参詣した紀行。これは、そこそこ記事があり、やはり初めての場所だと書くことがあるのだろうか。先行作品もよく読んでいて、「菅笠日記」をしばしば引用する。あ、最後に、小山内清隆の跋文がちょこっとあります。
慶応3「播磨路日記」(第八冊)
西国三十三所の、これまで行っていなかった分を参詣する紀行。須磨などめぐり、正成の墓、契沖の墓などを見る。軍記物関係など記事もそこそこにある。男山八幡宮では宇佐八幡の菱形の池のことも書く。
慶応3「奥の追づと」(第九・十冊)
故郷弘前へ帰る紀行だが、これはもうほとんどが歌である。木曽路のところで少々の記事があるのみ。
以上まあ、何かの参考になればと。ただし、くれぐれも言っておきますが、これ読んで「江戸時代の紀行の面白さってこの程度か」と思われると、ひじょーに困る。この紀行の面白さは渋いお茶みたいな地味な面白さで、もっとものすごく楽しくて面白い紀行って、いっぱいあるんですからっ!。
まあでも、龍の昇天の記事とか珍しいんで、そういうのはちょっと紹介しておきます。次の「4」でね。