映画感想あれこれ映画(と小説)「阪急電車 片道15分の奇跡」感想
──(1)──
昔、洋の東西を問わず特に良心的な文芸映画などときた日には、退屈で無駄なとこが多くて、それを我慢して見て最後に感動するのがほとんどもうマゾヒスティックな快感だったような気がするけど、それに比べて最近の日本映画は、こんなに上手くていいんかいと思うぐらい、緩急も映像も何もかもが洗練されて、見ていてひたすら快い。この映画もそうで、女優さんたちの名演もあって、楽しく気分よく、するする見られるし、後味もまったく悪くない。
そんなことを、この私じゅうばこが最初に書くからには、そろそろ悪口が始まるのであろうと多くの人は期待するだろうが、映画に関しては私は、そのあまりにもの調和のよさや、すべてにおいてのほどのよさが、かえってものたりないという以外は別にまったく、ほとんど文句はない。
実は、原作がきらいなのである。そんならなぜ映画を見たのかというと、ほんとにきらいかどうか決めかねるほど、びみょーにきらいだったからで、よかれあしかれ映画を見たら、はっきりするかもと思って見たら、案外わりとすんなり楽しめた。で、あらためて原作の小説を読み直したら、映画は、うまいなあ、監督も俳優も、原作の私が一番うーんと立ちどまったところを、上手にみごとにごまかしてくれていて、まあ、ごまかしても大して困らないような、ささいな点ではあるのだが、しかし、あらためて、そこが決定的にやっぱり私はきらいなのだと思って、せいせいしたが、腹も立った。
(以下ネタばれかもしれない)私でなくても大方の人がこだわるのは、ヒロイン(の一人?)翔子さんが恋人を寝とられたことに対してやった行動だろう。
あれは、「告白」の女性教師と同様、ちょっとやっていいような、すっきりするような、だがやっぱりしてはならないことだ。いろんな意味で、話せば長くなるが、やるべきではない、というより、やるものではないことだ。
私が、この小説のあちこちがきらいな理由は、なんかこう、こまめにこざかしいことで、この件でも翔子がしたことを、時江というこれまた魅力的な老女が肯定し、それに対して翔子が軽く驚いて、「普通は誰でもが、そんなことはするなと言うのに」と、「そんなことはするな」と言うだろう人たちに、さりげなくプレッシャーをかけるせりふを、作者がきちんと言わせることだ。この種のこまめな、抜けめのなさが、あっちこっちに散らばっていて、そんなことどころではない、基本的な大きな問題を、すぽっとすっぽかす大ざっぱさと合わせ技になるから、始末が悪い。
たとえば、そういう、とことんつまらん、あほくさい復讐をした一方で(まあ、あほくさくてもつまらんでも、して悪いということはないし、してみてもいいなと思ったりもするけど)、翔子さんは引き出物の始末とか、お菓子の始末とかを、ものすごくこまめに気づかいして行う。そういうアンバランスをアンバランスとも思わないでいるらしい彼女も作者も、私はすごく気味が悪い。ほんとに、こういう人とつきあってると恐いめにあうだろうなーと戦慄する。
私の感覚では、まあその程度の復讐はどうってことでもないが、やっぱりやるからには、自分はもうたいがい常識人じゃなく、どっかあらぬ世界に踏み出したって自覚があらまほしいところで、これだけのことをしておいて、まだ自分はきちんとした社会人でまっとうな女性と、一分の疑いもなく信じている神経がとんでもない。小説を読めばもっとそうだが、彼女はずっと自分が正当でまっとうな社会人だと思い、周囲もそう思っていると思っている。
私がもし翔子さんほどの美貌があって、あの復讐をやるとしたら、遊び半分、笑いながらやる。それを彼女は結局のところ、めそめそ泣くので冒頭のイメージの「強い女」でさえない。しかも一方で、そういう強い女は損をする、でもがんばろうみたいな発言を最後に幼い少女に対してやっている。
あのさ、あんたはいったい何なのさ。誰にも文句を言わせないで、非常識な加害者とかわいそうな被害者と、どっちにもならない強い女と全部つぎはぎ細工でやろうたって、そりゃ無理ってもんでしょうお客さん。
長くなりそうだから、いったん切るか。
──(2)──
つづけまーす。
がしかし、ここがうまいのだが、映画はそういうところがほとんど気にならない。まー、しょーもなく、ぼろぼろ泣くのはやっぱりちょっといただけないが(私の好みで言うだけじゃなく、それってやっぱ、人格分裂だと思うんだよな。まー、あの復讐を思いついて実行する点ですでにたいがい人格分裂だけどもな)、そもそも、恋人寝とるしょーもない「かわいい」女の女優さんが、実にうまくて、それらしい。説明抜きで、よりによってこんな女に恋人とられるなら、ちょっともう、このくらいのことをしてみたろかと思うぐらい、一見フツーにかわいくて、そのくせ抜けめがなくて、品がない(もちろん、これは女優さんを最大級にほめてるのである)。
肝心の結婚式の場面もあっさりしていて、翔子役の中谷美紀がライトの中で一瞬新郎(元恋人)に向ける表情の、あいまいさ、切なさが実にいい。あれを見て私はちょっと、まっいいかと彼女のしたことを理解する気持ちになりかけたぐらいだ。
お菓子の処理の場面はカット、引き出物の処理も原作のような気づかいはない。せいいっぱい、翔子という人物を矛盾なく描こうとしている(基本的に無理だが、一応何とかなっている)。
原作の若い恋人カップルをひと組減らしているのも的確な判断だし、高校生カップルとその友人たちのしゃべりを、わりと抑え目に描くのも「わかってる」処置だ。実は私が気になったもうひとつはここで、電車の中のうるさいおばはんたちは、この小説の中では多分悪役っぽいのだが、電車の中でうるさくて、他の乗客からにらまれているのは、原作ではこの女の子たちも同じである。それをヒロインの一人のミサ(脚のきれいな女優さんだったなー)は「そんなに怒らんで聞いたって、この子たちの話面白いから」と心でつぶやいている。
彼女を通して作者はまた、「電車の中でのマナー」についても語っているようなのだが、私はそのへんがまたわかりにくくて、翔子のような復讐を気分的にほいほいどこまでも同調して描きながら、一方で電車内のマナーを説き、しかもそれがおばはんと女子高生に同じ基準で適用されないという、このへんの感覚がなー、どういうか、結局、「私の好きなもの、好きなことは、許される」という、はなはだずぶずぶゆらゆらした基盤の上に生きてる人たちの話にしか見えんのだよなー。原作だと。
映画は、そういうお説教や道徳論議を削りに削っていて、だから何とか見てられる。
老女時江さんもなー。これまた映画はみごとに削ってくれているけど、私はここまできっちりしゃんと生きているばあさんが、晩年に犬を飼いたいと思うのはいいとして、「自分が死んだら犬は(あまり仲のよくない)息子夫婦が世話してくれるだろう」とあっさり思うところも、犬嫌いだった亡き夫に「ごめんなさいねー」とこれまたあっさり片づけるところも、何だかすごく違和感がある。命あるものとないものと双方に、これだけ無頓着でいられるのが不思議なくらいだ。そんなに鈍感、図々しい、甘えたくった、冷たい性格のばばあなんですか、この人は。電車で他人に説教してる場合じゃあるまい。人間としての根本的な部分がどっか欠けている。その上でこれだけ自信満々に生きて、他人に関わるかねえ。恐いよ、まったく。
全体として小説は面白いし、納得できる共感できる部分も多いし、何よりうまい。だが、それだけに、おいしいケーキの中に、じゃりっと砂が入っているような、基本的な無神経さ、鈍感さが強烈で、二度と食べようという気になれない。
映画はその砂をほぼ全部よけている。だから、かなりのみこみやすくなっている。それだけに、原作の何かこう、根本的なところをすっとばして、細かいところだけきっちり生きようとして見せる生き方の、うさんくささが、やたらと目につく。
しかし、これだけ原作の欠点をあらわにする映画なんて、どうなんだろう。まあ、私は大いに助かったけどさ(笑)。