映画感想あれこれ映画「サラの鍵」感想

──(1)──

◇雪のちらつく中、さっき見てきました。何というか、もうせつないなあ。そのせつなさが、もう、まるでムダがないというか、主人公のサラが、その性格といい体験といい、あー、もうそりゃそうなるしかないよなー、という展開が、すべて自然で必然すぎて納得いきすぎるのがもう、あまりにもあまりっつうか。

最初にペタン元帥とか出ると、ああヴィシー政府か、フランスがドイツに支配されてかいらい政権の下で、ユダヤ人弾圧してたころかと、とっさにわかってしまう自分も、そういう世代なんだなと実感する。
で、その時代にフランス政府が、フランス警察が、パリのユダヤ人の家族を大量検挙して、もう今はなくなっているスタジアムにトイレも水もない状態で数日監禁したあげく、収容所に送ってしまったという事件があって、フランス政府も最近認めて謝罪したんだけど、フランスではジャーナリストの若者たちでさえ知らない。戦後は遠くなったんだなー。

もう、サラの運命もそうなんだけど、この映画はあらゆるところで切なさがオンパレードで、しかもお涙ちょうだいでもなく、泣かせでもなく、ぐわあっと言いたいほど納得いくやりきれなさ、切なさなんだよなー。
その事件を取材してるジャーナリストの女性が、最初は仕事だったのが途中から彼女自身、「え?何それ、ちょっと待って」状態ではまって行ってしまうのは、彼女の夫の家族が戦後に手に入れてずっと住みつづけた、なつかしい思い出の建物が、その事件でユダヤ人の家族(サラの一家)が連れて行かれて空いた建物で、しかもホラーなみのグロい悲劇の舞台だったという…。

知らずに住んだ人々にとっては、そこはもう人生においてなつかしいだけの思い出の場所なわけで、そうやって、かつての悲劇を忘れたり消したり塗り変えたりして生きてきた人たち、それはこの戦後の年月を生きてきた私たちでもあるのだけど、そのどうしようもない、やりきれない、悲しみと切なさ。

この映画の中心には、幼くて見た目もほっそりはかなげだけど、決断力がはんぱなくて、判断力もすぐれていて、行動的でパワフルで賢くて強かった少女サラが、まさにそれゆえに、愛する弟をどうしようもない状態においてしまった、そして、もっと弱い人ならそうしたように、あきらめたり忘れたりなんか決してせず、絶対に自分の責任をはたし弟を救おうとしたことで、自分自身をも決定的に傷つけて修復不可能にしてしまったという、たまらない、そのまっすぐでひたむきで強い彼女の心がある。

彼女の悲劇は実はほとんど、具体的に描かれなくて、その内面も人生も私たちが想像するしかないのだけれど、それがもう、いやってほど、ああやめてくれと言いたくなるほど、すべてわかるんだよなー、何から何まで。

彼女自身が、今度はその苦しみを人に伝えず隠し通すのだけど、そのことも含めて、知らないでいること、忘れること、考えないでいることの、人がそうしてしまうことによって起こる悲劇を、この映画は描いている。告発とかじゃなくて、人はそうしてしまうものなんだという、ただ事実を見つめている、いろんなかたちで。
そして、ぼちぼちでもいいし、よろよろでもいいから、私たちは過去や真実と向き合って行かなければいけないし、それにはそれで、喜びもあるんだってことを、やさしく、やさしく、伝えて来る。

その中心にサラがいる。カギを握りしめて、自分のしたことの責任をとろうとしつづけた、愛するものを見捨てなかった、いちずで激しい、まるで剣のような少女の心が。

◇キャラママさん。
「魚が出て来た日」、覚えてるよー! 今からごはん食べるので、また書きます。

──(2)──

時間がないんで、ほんの一言だけ。あ、今回はしっかりネタばれです。

つじつまがあいすぎて、わかりすぎて、切ないのは、サラが弟にしたことも、息子にしたことも、言ってみりゃ同じなんだよなー。強く愛する者だから、絶対守ろうとして、閉じこめてしまったっていう。
息子にだって、真実を教えず、そうすることで彼を守ろうとしたわけで、彼女の姿勢には「開放」がないんだよなー。とことん。

ほんとに、強い人だったんだと思う。自分自身さえも、彼女は閉じこめてしまったのかもしれない。
サラの心情の告白とかがまったくないのに、あまりにも彼女がわかって、見えてしまう気になるのは、きっとこの、あまりに徹底した首尾一貫した精神のせいだよなー、きっと。
ゆらいでないし、変質もしてないし。
それがもう、ほんとに悲しすぎる。見ているだけで、身体まで痛くなる。

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カツジ猫