映画感想あれこれ映画「ソーシャル・ネットワーク」感想

──(1)──

例によって、だらだらと(笑)。まだネタばれじゃないと思うけど。

昔々、友人たちとまだソ連だったソ連に旅行したことがあります。シベリア鉄道に乗ってモスクワから、レニングラードまで行ったんですが、最初のハバロフスクかナホトカか、そのへんの町で、ツアーの予定に入ってたかして、土地のサーカスを見ました。
まあローカル色もあって、面白かったんだと思うんですが、今はもうほとんど覚えてなくて、ただはっきり記憶にあるのは、ピエロの演技で、夫婦漫才みたいなのやってて、奥さんが生意気なことを言ったら、だんなが怒って、けったりぶったりしてたんですよね。なまいきな奥さんだったから、観客も大喜びで拍手喝さいで、いっしょに見てた友人たちも、「ソ連でもこんなのあるんだねー」と、無邪気に面白がっていた。

でも私は、実はそのピエロの演技そのものもはっきり覚えてるわけではない。鮮明に今もよみがえるのは、旅の初めに、しかもそれなりに何かの期待は持っていた社会主義国に足をふみいれた初めに、そういうものを見た、うらがなしさと、しらけた気分、いっそどすぐろいような陰鬱な重苦しい感情です。
別に宮本百合子の「道標」みたいな、人民の国が見られると思ってたわけではないし、私や友人がそのころ活動してた日本共産党も、とっくにたしかソ連のことは、批判してたし縁を切ってた。だから、そんなに夢を持ってたわけではないし、過剰な期待もしてたわけではないけれど、でも、あれを見たとき、「男女平等、社会主義革命といっても、こういうのは変わらないんだなあ」と実感し、これからの生き方、この旅の今後、すべてにおいて、何だか気持ちがひきしまりました。「あ、やっぱりもう、私がいなきゃだめなんだ。私がやらなきゃだめなんだ」と思いましたね。若かったし、元気でしたから。基本的には今もそうですが。「あ、結局、私しかいないのか。しゃあないな」とか。この発想の最後は「神がいないなら、しゃあないから、私が神になるしかないかあ」ですが。私は絶望しつくすと、ためいきまじりに前向きになります(笑)。

あのころのソ連と同じぐらい、今のアメリカのフェミニズムにも過剰な期待はしてないつもりですが、やっぱり、「ソーシャル・ネットワーク」の最初で、一応天下のハーバートで、主人公の男子学生が自分のパソコンの腕を生かして挑戦するのが、女子学生の写真くすねて(ネット上でね)美人コンテストやることだっての見たときは、何の比較にもならないけど、大相撲の八百長メール読んだときと似た脱力感におそわれました。そのアホらしさ、その幼さ。人間の内容のなさ、品格のなさ。その一方で、しっかしまー、この若さでこの状況で、こいつらに、これ以上のこれ以外の何が期待できるんだという、これまたみょーにリアルな実感。

ほいほいのっちゃうハーバートの(って、くりかえすほどのもんでもないけどね)エリート男子学生たちもさることながら、こんなことに使われて毅然と怒るでもなく、わめくでもあばれるでもなく、不快そうにあいまいな沈黙をしてる女子学生たちの気持ちもこれまた、変に痛いほどわかった。彼女たちもまた、これはすごく不愉快なんだけど、自分たちもふだんから、そういうことにつながりそうな「女としても魅力的な」センをめざして生きているから、確実で的確な反撃のしかたがわからない。あの重苦しい彼女たちの表情からは、彼女たちのおかれている位置、日常がまざまざと想像できました。

ソ連でサーカス見たのは、もう何十年も前です。「ここはソ連だよね?」と、私の中の一番無邪気で素直な部分は、あの時当惑して自分に問いかけていました。「ソーシャル・ネットワーク」の映画では「ここはアメリカだよね?」もないわけじゃなかったけど、それよりも「え、これって2003年だよね?」でした。こんなに最近、ほとんど今、それでも、ここ(ハーバート大学)で、こうなのか。
あ、やっぱり、私がいなきゃだめなのか(笑)。

ああいう場所の女子学生の役割って、ああいうもんにしかなりようがないんだろうなー。そうやって身につける「女としても魅力的」って武器で、それ以後の社会での地位も切り開くことができるんかなー。でもさ、それで思い出したけど、海外ドラマの「コールド・ケース」かなんかで、アメリカの海兵隊の訓練校に行って脱落した女子学生が、その後女子大に入り直していて、捜査官に「アメリカの管理職(だっけ、指導者だっけ、閣僚だっけ、なんかそんなの)の女性の出身大学は、共学より女子大が圧倒的に多い」と数字をあげて言っていた。さもありなん。今回、映画の冒頭で実感した。あの、なんか、どよーんとたむろしていた、女子学生の集団みてたら。

…と、ほんの冒頭の5分か10分で、すでにこれだけ書けるこの映画の感想の先が思いやられるよ。まー、いつものことですが。

──(2)──

まああれで終わるとはどなたも思っておられないでしょうが、私の感想。ええ、続くのですよ、まだまだ(笑)。

実は疲れてて見ながらあっちこっち寝たんですが、それでもおよその筋はとてもよくわかって、これもこの映画の魅力なんでしょうけど、ネットワークとかパソコンとかすごい世界のこと、新しいことを題材にしてるけど、話そのものはもう古典的なほど、図式的なほど、ありがちで、わかりきってて、いい意味であっと驚く意外な展開、意外な要素がひとつもない。

それに安心すると同時に、ちょっと不安にもなるんですよね。不愉快さとまで行かなくても、どこかで、かすかに、「ほんとに、こんなもんなのか? こんなに単純で、わかりやすくっていいものなのか?」という疑問がごそごそ動かないわけではない。

大変な天才がいる。でも人間的には未熟、変人、だから孤独。才能を生かして成功するけど、その途上で苦労をともにした仲間をそまつにあつかってしまい、成功の過程でつきあいはじめた自分と同類のやつからは裏切られる。彼の仕事は成功し、名声と富を得るが、果たして彼は幸福か? って、こんなの名作だったら「市民ケーン」「アラビアのロレンス」、しょーもない駄作だったら、それこそ掃いてすてるほどよくある、どっかで見た話でしかない。

友人がよくぼやくのが、「ネットの世界とかグローバル化とかいうから、何かこれまでなかったような、あっと驚く新しい思考経路や哲学や人生論やモラルや人間関係が登場してるかと思って、ネットをのぞくと、もう、どっかそのへんの村やPTAやなんかで死ぬほど見てきたような、カビの生えた昔ながらの道徳や常識や感情しかない。こんなの、平安時代の後宮や江戸の長屋とまったく変わらん。2ちゃんねるなんて、ことばづかいが乱暴なだけで、涙が出るほどフツーの古色蒼然とした、気のつかいあい、傷つき合い(傷つけ合い、じゃなくて)、賛成しあい、しかない。もうちょっとなんか新しい発想や感覚はないんか」ということです。「SFの異星人じゃあるまいし、外見や使う道具だけがぶっとんでても、考えること感じること、ギリシャ神話や古事記の人物と、なーんも変わらん」のだそうで。

これだけ新しい機械文明が生まれて、個人がこれだけの通信手段交流手段を確保して、それを使いこなせる能力を持つ人がいて、そんでもってやることが、ふられた女への腹いせ、美人コンテスト、友人との起業の苦労、カリスマへの接近とあこがれ、古い権威との対立…そのたびに起こる彼の感情、彼の反応は、まったくフツーで人間的で、若者らしくアホでもある。
いくらなんでも、ここまで平凡か。もうちょっとは何かないんか。で、ふと疑っちゃうわけですよ。「本物はもうちょっと、何かぶっとんだ異常なとこあったんじゃないの? 観客である我々一般人にわかりやすい話にしようとして、監督がこの主人公を徹底的にフツーにして、フツーの話にしてるんじゃないの?」って。
まあ、それでも面白いんですけど。だからこれだけヒットしてるんでしょうけど。

理解されない異常な天才、となると、「アラビアのロレンス」の主人公ロレンス、「ビューティフル・マインド」の主人公ナッシュなどが思い浮かびます。彼らは自分を天才と思っているし、回りとはいつも明らかにちがっていて、うまく交流できない。ロレンスは、あれだけ決定的な異文化のアラブ世界が、自分の母国よりなじめた。それは、「英国人にしては」という前置きがあったからこそ、彼のおかしさがアラブの人に認められたってこともあるでしょう。ナッシュは親友がいましたが、それは結局幻想にすぎなかった。ことほどさように、彼らは人とはつきあえません。まー、天才でなくてもそんな人はいるでしょうけど、天才とセットになるから目立つんでしょうけど。

「ソーシャル・ネットワーク」の主人公もそうだけど、これは若いということもあるからなー。若いときって、多かれ少なかれ人の気持ちに気づきませんからね。
彼が女にふられて腹いせするのも、友人をうらぎるのも、私はアホとは思うけど、彼にはそう悪気があったとは思えない。彼は、何が他人を傷つけるのか、何が許されない行為なのか、常に、ずっとよくわかってない。だから、既成の権威にも魅力を感じないし、平気でそれをふみにじる。鈍感っちゃあそうですが、純粋っちゃあ純粋です。

あ、ここで時間切れかな。続きはまたいつか(いつだよ)。

──(3)──

まあしょせん人間のすることは、大昔でも今でも未来でも大して変わらんのかもしれないから、監督が別に主人公やその周囲を単純化、図式化しているわけではないと一応信頼して話を進める。もちろん、そういう中でも現代ならでは、コンピュータ時代ならではの要素がないわけではない。

私は「ワールド・オブ・ライズ」で、何でもない普通の技術者をネット上でテロリストにしたてあげる、とんでもない国家的計画の実際の企画?にたずさわる、郊外の静かな森のなかの芸術家でも住みそうな素朴な家に一人で暮らして、イチゴなんかを食いながらパソコン駆使してそういう陰謀をでっちあげる、何ともしれん奇妙な男を見ていて、つくづくもう「百鬼夜行」という言葉しか思いつかなかったのだが、今回「ソーシャル・ネットワーク」でショーンだっけ、主人公が夢中になって仕事のスタッフに加えてしまう、あの若い怪しげなその手の(って、どの手なのやらきっと私はよくわかってないが、要するにネットを使った超大規模な商売みたいな)世界のカリスマ男を見たときに、ほぼまったく同じ感想、印象、感覚が肌によみがえった。あー、もー、この世界は百鬼夜行なんだなー、こーゆーやつが闊歩してるし、わいて出るんだろーなーという。

それは、必ずしも不愉快なことじゃない。ほんとのところ、私はこの見るからに嘘くさくて軽薄でカッコつけで、でもそれがたしかに本もので信頼できる、この人物が見ていてすごく好きだった。主人公が口をぱかんと開けて一瞬で魅了されるのが、よくわかったぐらいだ。
私は、主人公の(いーかげんに名前覚えろや)フェイスブックとやらのサイト立ち上げの発想が、どれだけすごいのかよくわかってないが、しかし、それが「アイディアパクられた」と怒ったエリート集団の企画と多分紙一重だったのは、そんなもんだろうと思うし、何であれヒットする一発芸は、科学でも文学でもそんなもんだろうと思う。ただ、それを育て維持していくどこかには、何かやはりゆずれない、独自の信念や美学が、随所にちりばめられるものだと思う。

あの映画では、主人公が「宣伝はダサい、広告はのせない」に徹底的にこだわることで、それを示していた。誠実な協力者である友人はそこのところがわからなかったようで、まあ私でもわからんと思うけど、要するにそういうこだわりとつっぱりがないと、大きな成功はできない。ショーンは「フェイスブック」に最初ついていた定冠詞の「ザ」を取れと明確な忠告をするが、それも同種の精神で、そういうところが主人公をひきつける要素にもきっとなったのだろう。
一方で友人は下積みの苦労をさまざまにして、「フェイスブック」の発展を支えるのだが、そう思わせるのが映画の目的なのか、見ていると、彼だけの支えでは決してこれほどの大成功は生めなかったろうという気がしてくる。そういう堅実さや努力がむくわれない世界が、彼らの生きている場所のように思えてくる。

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