映画感想あれこれ映画「ブラック・スワン」感想
ナタリー・ポートマンの熱演はともかく、主役の彼女のぶちあたる壁だの苦労だの悩みなどは、昔はともかく今の時代なら、たいがいの人がふつーに、わりと平気にのりこえて成長してゆく程度のものである。お母さんとの葛藤にせよ、ライバルとの対立にせよ、自分にはない面の表現にせよ、そう珍しいものではない。
だが、それは、ドラマやマンガや小説の世界ではヒーローもヒロインもたくましくなって、わりとふつうにのりこえることになってるだけで、実際には人間は昔も今もそう変わってるわけはないから、やっぱり今でも、そういうことは、多くの人にとって実はつらくて、重荷で、人格破壊しかねない重圧なのである。でも、それはのりこえるのが当然になっていて、だからのりこえられなかったら、病気か問題ある性格ということになってしまう。だから、やたら落ちこぼれや落後者が多くなるのかもしれない。
この映画のヒロインは、「白鳥の湖」の主役に抜擢されて、この演出家が斬新なことを考えて、白鳥と黒鳥を一人二役でやろうとするもんだから、彼女は清らかで無垢で純真で傷つきやすくて、白鳥はそのまんま行けるのだが、黒鳥の持つ邪悪なパワーが表現できない。なので、技術は問題ないから、内からほとばしる邪悪さ、危険さをつくりあげろと要求される。まー、ある意味、大変わかりやすい話ではある。
こんな単純な話を、しかも何だか予想もつくような話を、どうやって最後まで退屈させずにすむかと言えば、それはもう、繊細でもろいヒロインの目と肌を通して、観客にも彼女の感じる世界を実感させることしかない。これは大変なことで、それがちゃんとできているのだから、やはりいい映画で名演技なんだろう。
いちいち、そんなの大したことでもないやん、ということが、ヒロインの感覚で味あわされると、いちいち、どきっとし、ぞっとし、ぎょっとする。あー、繊細とはこういうことであったよなーと、昔々のいつか若かったころを、思い出させられたりする。
私も今ではすべてにおいて、たいがい面の皮が厚くて鈍感になっているが、それは経験や体験を積んでいて、いろんなことが予想できるからで、何でも初めてだったらこうだったかもしれないなあと思う。そのように、タフな西部劇のガンマンのように皮膚が厚くなった人が、痛みや熱さや冷たさを、薄い肌の赤ん坊のように受けとめてしまう、それをめざしている映画だ。
ヒロインが性格破綻で狂っておかしく見えては、だからだめなので、ちゃんとした優等生で、しっかりしていて、一応ふつうの社会人で、でもガラス細工のようにもろい、というのでなくてはならない。観客はじわじわ、少しづつ彼女といっしょに狂って行くが、そのことになかなか気づけない。
もう、その感覚だけが、この映画の描こうとしたすべてで、だから手あかのついたと言いたいほどに誰もが知っている「白鳥の湖」を使うのが、かえって大変新鮮である。普通の、平凡な世界を、彼女のような精神状態で見るとこうなるという話なのが、よくわかる。
多分、歌でも踊りでも演技でも絵画でも小説を書くのでも、創り出す苦しみは、だいたいこんなものだと思う。それは私にも実感でき、だから大変納得できた。
最近はタレントも俳優も作家も画家も学者も、ちゃんとした社会人でまっとうで、愛すべき人格で、よき家庭人であることが、あたりまえのように要求される。しかし、そんなのは無理な話で、そう見える芸術家がいたら、それは単にウソと演技がうまいだけである。ものを創り出す本質は、どこでも誰でも何でも、この映画のヒロインと同じ世界である。
だから、公園で服を脱いだり酒飲んで乱闘したりすると芸術家の資格がないかのように世間が責めるのを、私はいつもアホかと思って見てしまうのだが、そもそも人に何かを伝えて心をゆさぶるようなものを創り出す人間は、半分狂気で異常でなかったら、やってけるわけないじゃないか。
あえていうなら、だから、この映画が描き出す世界は、私には奇妙におなじみで、なつかしい。いつのまにか、「ないことにされていた」世界がちゃんと存在することを確認してくれたようで、ほっとする。そういう点で、まっとうな、あたたかい、力強い映画だとさえ思える。こんな内面があることも想像できない人がいるのはしかたないが、そういう人にどれだけかは、こういう世界のあることがわかってもらえるとありがたいんだけどなー。