映画感想あれこれ「渚にて」の小説と映画

10年ほど前、愛猫のキャラメルが死にかけていたとき、手元にあった本を手当たり次第に、つかれたようにくりかえし読んでいて、そのひとつがネヴィル・シュートの「渚にて」だった。ずいぶん古い小説で、映画にもなったがそれも相当古くて、当時は未来だった年代設定もとっくにかなり遠い過去になっている。

舞台はオーストラリアのシドニーとその近辺。米ソその他の国々をまきこんで、核戦争が起こった結果、北半球はすべて死の世界になる。放射能を含んだ死の灰は風に乗って徐々に南半球におよび、人々は死を待つしかない。だが、町も村もまだ美しく平和で人々は迫りくる最期を予感しながら、日常の生活をつづけている。

物語は若い海軍士官とその妻(赤ん坊がいる)、その友人で酒好きで奔放な生活をしている若い女性、母国が既にほろびたため部下とともにシドニーに寄港している米国の原子力潜水艦の艦長という男女四人を中心に進む。映画では、彼らをふくめたすべての人が死にたえた無人の街に「兄弟よ、まだ遅くはない」という横断幕がはためいているラストシーンに観客への訴えがこめられていた。

子どものころにも読んだのだが、その時は(当時としては当然だが)女性が男性に比べてしっかりしていないのが好きでなく、特に海軍士官の若い妻が、やがて来る事態を決して認めようとせず、それから目をそらしつづけて、庭や家の改装に熱中するのが、何より腹が立っていらだたしくてしかたがなかった。

10年前も今も読み返してみると、もうそれは気にならず、むしろ、架空の想定の話ながら、終末を迎える人や国や町の様子と、その日常が妙にのどかで、ほほえましく、いとしかった。悲惨で恐い話だが、決して暗くもおぞましくもない、しみじみと快い話でもあった。

発表されて話題にもなった当時、よく言われたのが、あまりにも人々が秩序正しく運命を受け入れ、穏やかに美しく死にすぎるのが、リアルでないという批判だった。皆がぴりぴりとした不安や絶望を抱えつつ、それでもモラルを守って良識をもってストイックに生きるのが、不自然という意見もあった。最近また本も復刊されたが、古きよき時代の終末小説という感じで楽しむものという印象は否めなかったと思う。

しかし、この数週間、震災と原発の被害の中で、それなりに無事な地域にいて、この小説を読み返すと、いろんな意味で血が凍る。
この小説はリアルだったのだ。それを今、思い知らされる。

絶望し、不安になり、最悪の展開を予測するとき、人はおだやかに落ちついて人間の尊厳を守るしかない。被災地の人も、私たちも。
そして、西日本にいても、放射能の恐怖はあるし、いずれは自分たちにも被害はおよぶとわかるし、東日本の多くの場所で、もう以前の世界はなく、放射能のためにそこに住めない無人の街が広がっている、この現実、しかも、自分の周囲ではまったく平穏な日常が「自粛への自粛」の名のもとに守られている、この倒錯した、宙ぶらりんの、生殺しのような日々の、奇妙な感覚。
この何もかもが、「渚にて」の描いた世界に何と重なることだろう。

とっくに人が死にたえた北半球から、謎のようなモールス信号がくりかえし届く。発信者を確認するため、原子力潜水艦の艦長は部下とともに艦をアメリカに向ける。途中の海岸線や、上陸した町で見る、住民がいない死の風景。それを今、私たちはテレビの画面を通して見ている。

日に日にせまる放射能の恐怖の中で、人々はスポーツや釣りを楽しもうとする。古風なクラブでは老紳士たちが、極上のワインをどうやって飲んでしまおうかと議論し、酒好きの女性の父親は真面目な牧場主で、人間の死後もしばらくは生き残る牛たちにどうやってまぐさを与えればいいかを工夫しようと悩む。何もかもが、どこか滑稽で悲痛で夢の中のように、現実離れしている。それでいて、そこには、あまりにも人間らしい愛すべき静かで平和な日常がある。

あえて今、多くの人に読んでほしいと思う。見つめられるようで、見つめられない、自分たちの今の状況と、心のあり方を見直すためにも。見つめられず、とらえられなかった自分たちの姿や心の一面を、架空の話の中でも、人々が同じことをしているので見られることは、救いにもなるし、癒しにもなるものだ。

小説よりはどうしても大ざっぱになるが、映画の方も見てほしい。ラストの「まだ遅くはない」というメッセージを考えるためにも。

こんな小説を読むと、逆に空想や文学の力と恐ろしさも実感する。そんな現実が起こるまでは、小説がいかにリアルかわかってもらえない小説を空想のみで書くというのは、いったいどういう精神だろう。偶然かもしれないが、そしてまた幸福な例ではないが、ここではたしかに、現実が芸術を模倣している。

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カツジ猫