映画感想あれこれそれでまた

「3時10分」の話なんですけどね。
あ、前の書きこみに続くような続かんような(笑)。

この映画、ほめて下さってる(って私は映画の関係者じゃないけど)サイトの一つが、「でも、少年が銃を撃って人を殺す、という成長や変化を描くという点では不充分」と批判されていて、私は別にこの映画の批判を全部拒否するつもりはないんだけど、むしろ欠点や弱点がある方が「私のもの」みたいで好きなんだけど(笑)、この批判はもしかしたら、あたってないかもしれないと思う…あまり確信はないのだけど。

主人公の(ひょっとしたら主人公たち二人の?と言ってもいい)息子ウィリアムは、実際に人を撃ったことは多分ないし、そこは重要な点なのかもしれないけど、でも、もしかしたら彼は映画の最初からすでに「人を撃つことに何の抵抗もない少年」なのかもしれないんだよねー。
二言めには平気で撃ち殺せと口にするし、実際銃をかまえるし、けっこう危険な14歳だ。大悪党(と実は私は思ってないが、まあ、人を撃つことにかけてはプロ中のプロだろう)のウェイドが、「こいつはためらわず自分を撃つ」と判断した(そこが自分に似ていると思った)、その目はきっとたしかなはずで、だからいつでも彼は人を撃てる少年だし、撃ったとしても変化も成長もしないぐらい、生まれついてのガンマン、ということになってるのじゃないだろうか、この映画では。

その彼が最後にウェイドに銃を向けるのは、もう「いつでも撃てる」状態なのだし、そう考えるとあらためて、あの場面は恐い。どなたかのサイトに、「ウェイドがあそこで一度だけしんから脅えた顔をするのは、自分が撃たれるよりも、この少年をそうさせてはならない、自分のようにしてはいけない、と思うから」という文章があったが、そうかもしれないと思う。

あの少年の中にはウェイドもいる。血のつながりはなくても、彼らは共通の遺伝子を持っている。それはダンの中にもあったのかもしれない。でもダンは、決してむやみに人を撃たず、法と倫理を守る男でもあった。ウィリアムはそれもまたうけついでいるはずだ。
その二つの血が、あの場面で彼の中ではせめぎあい、そして結局ダンが勝った。

だから、この映画は「いつでも銃を撃って人を殺せる少年が、撃たないようになる」という成長の物語なのだ。人を殺して大人になるのではなく、撃たないことを学んで彼は大人になるのだ。

そういう点ではみごとにこれは、新しい時代の、新しい西部劇だ。鼻につかない、歯の浮かない、自然な描き方で、でもきっちりと、銃や暴力で解決するのではない、男の生き方を描いている。
それは昔の西部劇でも、実はきちんと存在していた。「力が勝つ」と共存し拮抗するかたちではあるが、あることはたしかにあった。その伝統を生かしながら、結局は「銃をおろす生き方」と「それに応える生き方」をこの映画は結論に持ってくる。父の仇を殺すことではなく、父の守った生き方を守ることで、息子は父の願いをかなえ、敵であり悪であった存在に勝利した。

古い西部劇の伝統をひきつぎ、新しい現代の価値観を生かして、いくらでも西部劇は作れる。この映画は、それも証明しているのだ。

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カツジ猫