民教連サークル通信より恐いもの見たさ

非常勤先の国文学史の授業に、今期は久しぶりに留学生が二人来た。まじめな人たちで、「平家物語を読みたいが、おすすめの本があるか」と質問したので、「子どもの本を読みなさい」と言った後で、バカにされたと思ったんじゃないかと心配になり、次の授業で学生全員に、「日本のでも外国のでも古典文学は、まず児童文学であらすじをつかめ。いきなり原典を読んだらまず何が何だかわからない。子どもの本は昔も今も、けっこうな専門家や大作家が書いてくれているから、相当質が高く、変なダイジェスト本を読むよりずっといい」と、力説するはめになった。

そこで気になりはじめたのだが、平家だの古事記だの八犬伝だのはそれでいいとして、近松、西鶴、源氏物語はそうは行かないということだ。児童文学に一夫多妻や遊女や心中の話はまず書けない。古い児童文学全集には、これらの名作は入っていないし、今でも多分ほとんどない。
なるほど、私が昔から、映画でも小説でも恋愛物が苦手で嫌いで、戦争物が好きだった一因は、こんなところにあったのかもしれない。

そもそも、昔の子供たちは下手すりゃ高校生ごろまで、妊娠のしくみや同性間の性交の具体的な方法を知らなかったはずだ。
田辺聖子さんが何かのエッセイで、子どものころに酒呑童子の話を読んで、さらわれたお姫様はどんなひどい目にあっていたのかわからず、「洗濯などして、こき使われていた」というので、「そうか、洗濯はつらかっただろう」としか思わなかったと書いていたっけが、私だってたしかそんなものだった。
立派な大人向き、どころか、専門の研究者向きの岩波書店の日本古典文学大系(小学館の日本古典文学全集だったかもしれない)でさえ、男色を題材にした作品を収録した巻の解説に、「性交には肛門を用いる」とたしかわざわざ書いていたから、学者も含めて国民全員、性に関する知識にはよくよくうとかったと言うしかない。

援助交際だの何だのと、子どもたちの性の乱れとやらが問題になりはじめたころ、教育者になっていた私が漠然と考えたのは、じゃあ少なくともこれでもう、中学校でも小学校でも、西鶴や近松は教えてかまわなくなったんじゃないか、それはせめて喜ぶべきかもしれないということだった。
だいたい考えてみれば、平家物語、太平記、義経記、曽我物語、太閤記などの話は児童文学全集にばんばん入っていたわけで、遊女や男色や心中や一夫多妻の話が子どもたちにふさわしくなくて、人殺しの話はかまわないというのも、たいがいおかしな話ではある。

それでも何となくタブーがあるのか、ネットでちらちら見る限り、子どもの本や全集に近松や西鶴の話はまだほとんど登場していない。これはぜひ、作家でも教師でも、子どものための好色一代男とか好色五人女とか心中天網島とか冥途の飛脚とか書いてみてくれないものだろうか。今の社会や子どもたちは、案外そういう内容の話を必要としているし、救われることもあるのじゃないかと思うのだが、どうだろう。もしかしたら、戦争や仇討ちの話より、身近だったり、身につまされたりするかもしれない。

さすがに源氏物語は、わりと子どもの本が出ている。しかしこれまたネットでチラ見する限りでは、幼い紫の上が光源氏お兄さまとの思い出を語るといったものがほとんどのようで、これはこれで今どきは、児童虐待、幼女虐待にひっかかりはしないかと気になったりする。
瀬戸内寂聴さんが書いたものもあるようで、ちょっと読んでみたくなるのだが、時間もないしお金もないし、そんな専門外のことにまで手をのばしたら大変だからやめとけやめとけと思いつつ、何やら恐いもの見たさもあって、ここ数日、誘惑に負けそうになっている。

学生にも言うのだが、私たちのまわりの常識や道徳は本当に猫の目のように変化する。それに左右されず、無色中立透明と自分のことを考えるのが実は一番危険だろう。時代に環境に私たちは一人残らず左右され、先入観や好みを植えつけられている。それをせめては幾分か意識して行動し発言する方が、まだしも少しはましなのかしれない。

(2018年12月)

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カツジ猫