民教連サークル通信より村上春樹氏の問いかけ

7月29日の毎日新聞に、作家の村上春樹氏が「オウム13人死刑執行」という文章を寄せている。かつて地下鉄サリン事件の被害者たちを取材したルポルタージュ「アンダ-グラウンド」(ちなみに私は村上氏の書かれたものの中ではダントツでこれが一番心に深く刻まれている)を書かれた人ならではの、細かく深く加害者と被害者の心によりそった内容だ。

その中で村上氏は、「犯人を殺してほしい」あるいは「殺さないでほしい」といった遺族の感情が裁判に反映されることについて、「公正なことだろうか?」「その部分がどうしても割り切れないでいる」「みなさんはどのようにお考えになるだろう?」と問いかけておられる。
それに対する私なりの答えになるかどうか、今回に限らず死刑に関するニュースを聞くたび、私が思い出すのは、二年前に九十八歳で亡くなった母のことばである。

田舎の家に帰省していた私は、たまたま何かの冤罪事件のニュースを母とテレビで見ていた。「無実なのに死刑になったら、それはたまらないよね」などと言いあった後で私が何気なく、「でも犯人はどこかにいるわけだからね。遺族にしてみたら、この人が無罪だったのなら、他に誰か犯人が罰されなければ、それは気がすまないだろう」と言うと、母はまるで普通の調子で「でもあんた、もしもあんたが誰かに殺されて、その人が悪かったと反省して私に許してくれと言ったら、そりゃ私は許すけどね。だって死んだ者はしょうなかろうもん」と、当の私を前にして平然とのたもうた。

何ら特別なことを言っている風でもなかったから、私も「ああ、まあ、ねえ」と、生ぬるい返事をするしかなく、話はそのまままた別のことになった。後になって私は、いくつになっても母は私を驚かせることでは衰えがないとか、しかしまあ母らしいし、たしかに母はそうするだろうとか思って、妙に笑いがこみあげて困った。
母はまだその頃は田舎で一人暮らしをするほど元気だったが、高齢で身体も頭も弱りつつあった。私は夜道を一人で歩いて帰るときなど、自分が誰かに襲われて死んだら母は孤独な老後を送ることになるなと思って、ついタクシー代を奮発したりして、それなりに母のことを思いやっていたのである。子どももなく自由奔放に生きていた私にとって、母はそういう慎重さを与えてくれる、ちょっとした足かせでもあった。

「あんたを殺した人がわびて来たら許すけどね、死んだ者はしょうなかろうもん」という母のせりふで私は脱力し、母のために冒険や無謀をつつしんでいた自分を「もう、あほらし」と自嘲した。そこに奇妙な解放感と安心感がなかったと言ったら嘘になる。大丈夫、私がどんなに残酷に殺されても、あの人は立ち直る…どころか、そもそも、そんなに打ちのめされない。孤独の殻に閉じこもったり淋しい老後を送りもしない。どうせ他の皆といっしょにさまざまな楽しいことを思いつき、いろんな人と関わって充実した人生を過ごすに決まっている。下手すりゃ私を殺した犯人と親友か義理の親子になって、元気づけ合って暮らしかねない。
「安心して死ねる」とは、こういうことを言うのだろうさ、と負け惜しみでもやけっぱちでもなく、私は本気で考えた。

母がどんな人だったか話せば長くなる。ゲートボール仲間のおじいさんが訪ねて来るのをおどかそうと、庭の木の下にシーツをかぶって立っていたりするような、くみとり便所に落ちた山羊を汚れるのも気にせず両手で抱え上げるような、最後に施設でほぼ寝たきりの認知症気味になっていても私が「火事があってもちゃんと職員の人が助けに来るからね」と言うと鼻で笑って「そんな時にはあの窓から飛び降りようと、いつも目で格子の高さを測っている」とうそぶくような人ではあった。私はその後しばらく、煙をかいくぐってかけつけた若い職員が見たら母は飛び降りて助かっていてベッドは空で、その職員の方が犠牲になったりしたら何と言って遺族におわびしようかと真剣に気に病んでいた。

一人っ子だった私にとって、母は親子である以上に、夜を徹して語り合える親友であり、思想信条をともにする誰より頼れる同志であり、それでいて、常に未知数の何をするか予想のつかない人だった。クリスマスの夜に世にも満足げな寝顔のまま一人で亡くなり、大ファンだった三浦洸一の歌を流して葬式をしながら、私は母の気に入った葬儀を二人で協力してとりおこなっているようで、納骨のあとでは、ひそかに宙に手を上げて母とハイタッチした。今ふと思う、母が誰かに殺されたら、その犯人が私に心からわびたら私はどうするのだろうと。いつも予想の斜め上を行く母は、私にどうしてほしがるだろうと。そういうことが、もうわからなくなり、聞こうにも聞けなくなったのが、母がいなくなって一番ものたりないことである。

(2018年7月)

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