民教連サークル通信より昔の投票率

先日の参院選では、投票率の低さがこれまでにも増して目についた。若い人たちの政治への無関心さ、若者の保守化といった問題とともに、私の周囲でもよく話題になる。

だが私がこのことをあんまりあっさり嘆く気になれないのは、そもそも投票率の低さがどうとか言うけれど、投票率が高かった昔の人の意識がそんなに高かったっけとつい思ってしまうからだ。

私の祖父は田舎の村医者で、土地の有力者に縛られない自由業だったこともあって、村の選挙でよく村長や町長と対決する少数派のリーダー格の一人になっていた。選挙前には村全体が祭りのような狂気に近い熱気にあふれ、投票日の開票の夜は誰も寝なかったのじゃないかと思うぐらいだった。

でもその頃の選挙ときたら徹底的に買収選挙で、札束が乱れ飛んで一票は金で買われるのがあたりまえだった。金をもらってその候補に投票するのがむしろ良心的で、両陣営や複数陣営から金をもらってどこに入れたかわからない、したたかな村人も多かった。

買収した人の家に相手候補が金を持って行って寝返らせるのを防ごうとして、若い運動員たちはその家の周囲を徹夜で見張る。夜陰に紛れてやって来た相手候補の運動員たちともみあいになって、田んぼの中に落ちたりする。そんなだから、そりゃ投票率も多分百%近くになっていたはずだ。

一方の都会では、私は知らないが、おそらく企業はもちろん民主的な組合でさえ、組織的になかば強制的に票は読まれ、言われるままに投票した人たちは多かったのではないだろうか。それもまた投票率を高くしていたはずだ。

そういう組織的なしめつけは、もちろん一概には非難できない。

昔も今も、選挙と言えば電話してくる公明党の支持者への反感は私の周囲でも根強いが、そういう反発は最終的にはデモの声がうるさいだの選挙カーがうるさいだのといった批判にもどこかでつながるものだろう。

買収や、組織ぐるみの選挙など、すべてをひとくくりにはできないが、昔の投票率が高かったのは、別に皆の意識が高くて政治的関心があったからではないという印象が私の中にはどうしてもある。

選挙に限ったことではない。大学紛争時、キャンパス内で反対派のデモを見ていた、別の一派の学生がそばにいた彼女に「あいつら、悪いやつなんだ」と教え、彼女は甘い無邪気な声で「そうなのォ?いやあねえ!」と言っていたと、そばで見ていた私の友人は頭から湯気をたてて憤慨していたが、友人や恋人が言うままにそれぞれの集団に入って、時には殺し合いに近い争いをしていた男女は決して少なくはなかった。

最近、町でも田舎でもそういう縛りがなくなって、多くの人が自分で考えて選択し投票できるようになっている。

そう言えば近くの町の市会議員選挙で共産党の候補の一人がトップになり、別の一人が落選した。票の割り振りは得意なはずなのに珍しいと思って党員の人に聞くと、最近新住民が増えて票の動向が読みにくいのだと言う。

誰も札束を持って訪ねて来ず、職場からの強烈な指示もない、この自由な状況で、自分が国政や自治体に関わる選択を責任持ってしようとしたら、若い人などは特に、まじめに考えるほどびびるのではないだろうか。

大変難しいことだが、そう考えると投票率の低下は金や縁故で決めるのではない、本当の選挙が初めて生まれつつある前段階なのかもしれないのだ。

それなのに、ここ数年いろんな選挙に携わる中、市役所の担当者に確認してもあいまいな返事しかもらえないほど、選挙違反の規定は複雑微妙になっていて、ごくあたりまえの活動でさえ、とてもやりにくくなっている。これだけ選挙活動をやりにくくしておいて、投票率の低下を嘆かれてもと思うほどだ。

ばかな制限は少なくし、選挙カーや演説がうるさいなどという声はほどほどに無視して、金の代わりに良質な情報を豊かに与えることだけでも、投票率はかなり回復するだろう。それも、昔とちがう、責任感と意志のこもった一票で。

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