民教連サークル通信よりあらすじと、ネタばれ
何年か前のことだが、学生の卒論を指導していて、持ってきた下書きに目を通していたら、何かがおかしい。どこか話がつながらない。
たしか西鶴の「好色五人女」についての論文だった。五つの短編からなる話だが、それぞれの話のあらすじを紹介して、内容について資料をあげて論じている、その手続きも文章も、ちゃんとしっかりしているのに、どうも流れがわかりにくい。
ようやく気づいて「あなた、このあらすじね、自分でまとめて書いた?」と聞くと、「いえ、これは本にあったのを、そのまま使いました」と言う。
「そういう引用をしていいときもあるけど、ここではまずいよ。あなたが、この作品について、こう解釈するという主張を述べるのなら、それを一番強調し、補強するような、あらすじを、あなたが自分で書かないと」
「あらすじというのは、誰が書いても同じで、正解がひとつしかないというものではないよ。同じ話でも、解釈のしかたによって、まとめかたもちがうから、それぞれ別のあらすじができるのよ」
「あなたの書くあらすじは、あなたの作品の解釈をそのまま表すものでもあるから、あなたの主張や論旨と表裏一体でセットになって、呼応しあう、あなただけのあらすじでなくてはいけないの」
と説明したが、どこまでわかってくれただろうか。
同じ事実でも、まとめ方によって、まったくちがった印象のものになるのは、裁判のときの事件の陳述や、歴史的なできごとの教科書の記述などを思い浮かべるとわかるだろう。
でも架空の文学作品でもそれは同じことで、私はその卒論指導のあと、授業でもときどき、そのことにふれる。実感してもらうために、「ももたろう」「走れメロス」など、わりと誰もが知っている作品をとりあげて、全員に「あらすじ」を書いてもらったりすることもある。
原作の、どこを省いて、どこを残すか。どこに注目し、何を中心にまとめるか。大きくちがいが出て来ると、わかりやすいが、一見あまり差が出なくても、今度はその似たようなあらすじを、いくつも比較して、どこがちがうか、それはなぜかということを、見つけたり考えたりすると、論文を読んだり書いたりするときの、いい訓練になる。
ところが何度かそんな授業をしていると、別のことにも気がついた。「桃太郎は三匹を引き連れて、鬼が島へ向かうのだった」「メロスは妹に別れをつげて、全速力で都をめざした」というところで、あらすじを終わらせてしまう学生が、わりと多くいる。
ははんと、すぐに納得したのは、これは最近とみに厳しくなっている、「ネタばれ」の回避のためである。
昔だったらミステリや、それに類した作品以外では、最後まで筋を明かしてもそんなに問題にならなかったが、今やネットの世界では、キリストの最期を描いた「パッション」や、ギリシャ神話を題材にした「トロイ」のような場合でも、「それはネタバレだ!」と激怒する人がときどきいて、さすがに「キリストが十字架で死んだとか、トロイ戦争でトロイが負けたとか、知らない方が悪い」と反論されたりしている。
「そんな常識知らない方が悪い」「当然の教養だ」と決めつけて、知らない人を恥ずかしがらせる世の中は、よしあしだとは思うけれど、ただ大学の授業や専門の学問、プロの批評家ともなれば、ネタばれを気にしていたら本当は仕事にならない。
すでに新聞雑誌の映画批評では、ネタバレは完全にタブーになっていて、結末は厳密にぼかされている。
映画好きでもあった近世文学の大先生は、そのことを私から聞いたときに、憮然として「しかし君、それじゃ批評にも何にもならないだろう」と言った。
「そうですとも。だから最近の映画評はつまらないんです。でも、ひょっとしたら、その内に学術論文でも、『光源氏と紫上にはこの後、思いがけない試練が待っている』とか『坊ちゃんは、もう許せないと山嵐とともに立ちあがるのだった』とかまでしか、作品の内容を書けなくなるような時代が来るかもしれないですよ」と私は先生を脅かした。
もちろん冗談だったのだが、いろいろととんでもないことが起こり、常識では考えられないようなことが平気でまかり通る世の中だから、先のことはわからない。
(2018年8月)