民教連サークル通信より今ここにいない存在

今はもう定年退職した非常勤講師だが、私がまだ大学の現職だったころ、改革につぐ改革、要するに金も人手もやらないが、新しい仕事をしろという文科省と社会の要請のおかげで、さらに忙しさに拍車をかける組織の改編がほとんどもう恒常化していた。
ものすごく気に入らなかったのは、ともすれば、そうやって作られる新しい組織に、高齢者や新人やおとなしい人、失礼を承知でひっくくると、あまり文句を言わないか、言っても相手にされないような弱者を集めて放りこむという発想が教員間にあったことだ。

「もし、新しい講座や学部を作るなら、作る本人が一番先にそこに行きたくなるような、理想的なものを作って、発言力、政治力、その他の能力がある実力者たちがまっ先に行くべきだ」と、私は主張しつづけた。いつもは意見のちがうことが多い同僚も、それは認めて、そのような組織の改編をしてくれたと思う。

私立、公立、国立と、いろんな大学を渡り歩いて来た私だが、たとえば短大と四年制大学がいっしょに運営されていて、教員自身も所属は流動的で、どちらか意識もしていないところが昔はよくあった。何らかの事情でそれを区別して所属を固定化しようとするとき、これまたいろんな事情から、短大籍をいやがる教員も多く、時には本当に不愉快な混乱が起こった。
それを避ける手段のひとつとして、今後新しく採用する人を短大籍に固定化し、今いる教員は、空きができたら順次、四年制大学籍に移すというのがあって、そりゃ現在のメンバー間の摩擦を避けるには、けっこうな案に思えたのだろう。

実は私は、その方式で、採用されたときから短大籍だった最初の教員だった。仕事も待遇もまったく同じだから別に文句もなかったが、どこかいやあな感じがしたのは、「はあ、ここの先生方は、自分が行きたくなかった場所に、発言も要望もできない、『未来からくる、今ここにいない存在』の人を押しこめて貼りつける、そういうことを平気でできる人たちなのね。ダサっ。キモっ」ということだった。
まあ、気持ちはわからないでもない。目の前に現にいて、ぎゃあぎゃあうるさい存在とちがって、まだ来ていない人間のことは見えないだけに気にならない。実際に顔と身体をそなえた生身の人間が現れていっしょに仕事をしはじめたら、苦になったり気になったりすることもあるだろうが、そんなのは後の祭りである。

しかし、自分の行きたくない場所に人を行かせ、自分のしたくない仕事をさせて平気でいるというのは、案外まともな人間にとってはつらいものなのだ。ちゃんとした立派な人ほど、知らず知らずに精神を病み人格を腐らせると言っても過言ではない。そして組織や共同体自体がいつの間にか、品位を失い弱体化し不信感や不快感がそこはかとなく蔓延して行くようになる。

まだ生まれていない子どもたち、地球上の未来の生き物たちのことを考えるなら原発の再稼働なんかとてもできないはずなのに、平気でそれをやってる国だから、今さらもうびっくりもしないが、自分の国の人間や若者たちが働く気にはなれない職場に、よその国の人を呼んで仕事を頼もうという発想は、もう否応なしに私に、かつての職場のそういったさまざまな状況を思い出させる。
自分たちが喜んで楽しく働いて、誰もが行きたくなるような職場を、国や自治体、大企業の労働組合などがしっかり作らないでおいて、勝手がわからず文句を言えない人たちに自分らの代わりをつとめさせようなんて、本当にただもう、ダサっ、キモっとしか言いようがない。

(2018年11月)

Twitter Facebook
カツジ猫