民教連サークル通信より最大の当事者

「スリー・ビルボード」という、いろんな賞をとったアメリカ映画がDVDになった。映画館でも見たのだが、あらためて見て、やっぱり好きだなあと思う。
この映画の評判は日本でもよくて、「誰も悪い人がいない」というほめ言葉をわりと誰もが言う。それはそうだが、そんな甘い話でもない。むしろ私が一番気に入っているのは、娘をレイプ殺人で亡くし、進展しない捜査に怒って「どうなってる?」と警察署長をなじる三枚の大看板(スリー・ビルボード)を道路わきに設置した母親の、全然「いい人じゃない」発言や行動だ。

警察署長は、これがまた大変いい人で町の皆に慕われていて、おまけに末期がんで死が近い。だからこんな抗議で彼をやり玉にあげた彼女は、家族からも町の人からも攻撃されるが、彼女はちっともひるまないし、殴り返すし言い返すし、決して世論を味方につけようと感じよくふるまったりなんかしない。フランシス・マクマーマンドの名演技のせいもあるが、そんな彼女は最高だ。(まあ最後には彼女もそれなりに変化する部分もあるが、それだって決して妥協や軟化ではない。)
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私は最近いくつかの場所で、「女ばっかりがお茶をつぐのはやめよう」みたいな発言をした。そうしたら、「板坂さんが怒るからお茶は皆でつごう」と言われてると聞いて、「あー、それがいやだから、何年もずっとがまんして黙ってたのに。第一それじゃ、『坊や、隣りのおばちゃんがにらむから静かにしましょうね』と電車で子どもに言い聞かせる母親と同じだろ」と、ひそかに切れたりしたのだが、ムカついた理由は、もっと深いところにあるかもしれない。

拉致されためぐみさんの救出を訴える横田夫妻、光母子殺害事件で極刑を訴えた夫、皆とても冷静で穏やかで理路整然とおのれを失わず周囲に配慮し的確な発言をする。頭が下がり、胸が痛むと同時に、何かさせてはいけない残酷な一人二役をさせているという罪悪感と違和感にかられる。
当事者はすっこんどけというアホな言い分といっしょにされそうなのはいやだし、そんなことはおまえ自身が拉致や殺人に抗議するチラシのひとつもまいてから言えと言われたら、それこそもう一言もない。夫妻や夫君が声をあげ訴え続けてくれなかったら、私もこれらの問題を知らなかったし関心を持ちつづけられなかったろう。
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だが、そのことが残酷というのだ。一番傷つき苦しんで、泣きわめくか世を呪うか引きこもるかしたい被害者が、声を上げ資料を集め解決の道をさぐり世間に受け入れてもらえるにはどうしたらいいかを、心を砕いて計算し、効果ある運動をしなくてはならないなどと、周囲も社会も政治も私たちも、何と無責任で図々しいのだ。本来ならその人たちは、ただもう悲しみと怒りに沈んで何もしないでいて下さい、忘れてしまって再出発して下さい、私たちがその分きっちりちゃんとやりますから、全部まかせて下さいと他人に言われなきゃいけないだろう。それが礼儀で常識というもんだろう。
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実際にそうやって黙って苦しみ誰にも知られず沈黙しつづけた被害者も多い。米軍機の墜落事故で子どもを失ったお母さんも、沖縄のレイプ事件の被害者もそうだった。そして結局、実際に被害者が声をあげなければ世間は忘れるし、きちんと申し分なく冷静に被害を告発した伊藤詩織さんを、あれこれ批判攻撃して海外に追いやったりすると来ては、もう本当に救いがない。

基地のある沖縄、災害の被災地、結局当事者が声をあげなければならないし、それほどではない、もっとささいな出来事でも、「当事者が声をあげて、先頭にたってがんばらねば」みたいに言ったり思ったりする人がいる。どうかすると、その戦い方や訴え方まで不十分とか感情的とか注文をつけられる。被害者や受難者は、どこまで完璧になることを要求されるのだろう。黙殺し、無視傍観する口実がほしいにしても、当事者以外の人たちすべては、つけあがるのもほどほどにしろ。
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もっとも私は、戦争となったら殺して死ぬことをまず要求される男性たちは最大の被害者で当事者であり、それを黙殺傍観してあまつさえ「男性には闘争本能が」と、とぼけたことを女性たちが言ってる限り、慰安婦もお茶くみも文句は言えないだろうとも考えている。

(2018年3月)

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カツジ猫