民教連サークル通信よりどっちが幸福?
九十八歳で亡くなった母には、妹と弟、私にとっては叔父と叔母がいた。母より早く八十代で亡くなったが、二人ともそれなりの地位と肩書を持っていて、無職で無名で一生を終わった母に比べればずっと有名人だった。
それでも母は二人のことをバカにしていて、短大の寄宿舎にいたころ、二人がそれぞれ宿題の図画や作文を、同じ寄宿舎にいた叔母は夜中にこそこそ部屋に来て、叔父は遠くの故郷から写真を同封した手紙をよこして、母に頼んでいたことを私に話した。「どっかの小屋を撮った写真でさ、暗い中で写したらしくて、色もよくわからないし」「同じ寄宿舎でばれたらいけないから、寒い空き部屋に隠れてしあげなくてはならなかった。姉さん、洗濯物はないねとか言って、かわりに洗濯をしてくれるけど、回りは宿題のことは知らないから、妹に洗い物をさせて、とあきれていた」と語るのを、まあ母の側からの話だからなと私も割り引いて聞いていたが、叔母がしばしば私に、自分が依頼されたエッセイの、代筆に限りなく近い添削をさせたり、古い荷物を片づけていたら、叔父の署名が入っているが、どこか女性的な筆致のぼやけた小屋の絵が出て来たりすると、どうやら本当らしいと思うしかなかった。
しばしば母は叔母のことを、「あの人はもう、自分の力は5しかないのに8や10に見せて世を渡るから感心する。私なんか10あっても7や5ぐらいしかないように見せとかないと落ちつかない」と評した。
それに影響されたわけでもないし、いつも守れたわけでもないが、私もいつも自分の力は実際より低く見せておく方が安全だし幸福だとずっと思って来た。いいことをしても気遣いをしても人に知られず無駄に終わる方が、豊かになる気がいつもしていた。
先日、大学での授業中、源氏物語の光源氏が国家的にも家庭的にもとんでもない大罪(義母藤壺との不倫)を犯しておいて、自分は深く悩みながらも誰にもそれを知られることなく、皆に崇敬されて一生を終わるのは、本人にしてみりゃ、とてつもない悲劇の人生じゃなかろかという話のついでに、「自分が実際よりも高く評価される一生と、低く評価される一生のどちらが耐えられるか」と学生に聞いてみた。
圧倒的に前者が多く、最終レポートで「周りに称賛されながら悪事がばれないように立ち回る生き方の方が好き、というかその逆は耐えられない」「最近の若者のSNS投稿もそうだが、人には承認要求があり自分もそうで、誰からも承認されず非難され続ける日々を過ごせると思えない」と、説明した者もいた。
もちろん、どちらがいいとか悪いとかではない。5しかないのに8や10ある生き方をした叔母も、母と同様それなりに幸福な一生を送った。
だが、江戸時代の西鶴の短編小説に、老獪で有能な金持ちが、子どもたちに「実際よりも財産があるような遺言を遺しておく。資本を豊かに見せかけないと商家はやっていけないから」と死の床で告げ、息子たちもそれを納得していたのに、しばらくすると、「本当は書面通りの財産があるのでは」と疑心暗鬼になって争いになり、ついに一家は滅びるという話がある。
金も能力も、ないのをあるように見せかけて周囲をだまして世渡りをするなら、その分、常に自分だけは、現実の金や能力や魅力や実力がどれほどのものか、冷静に把握しておかなければ危ない。
なぜか、江戸文学の、特に歌舞伎や浄瑠璃では、ぬれぎぬを着る話が多い。もちろん外国文学や近代文学にも少なくない。山本周五郎文学なんて、ぬれぎぬ設定のオンパレードだ。時に感動的、時にユーモラスに。
実際よりも低く見られ、無名なだけでなく、不遇なことさえある一生を、自ら選ぶこともある人たちを描くことで、文学は私たちに、何を伝えようとするのだろう。
(2018年2月・未発表)