民教連サークル通信より神の領域?

またまた、ちょっとややこしい話である。

コーヒーのCMだけ見てなめちゃいけない名優のトミー・リー・ジョーンズが、今をときめく美人女優のシャーリーズ・セロンともども名演技を見せた映画「告発のとき」は、イラクの戦線に行った息子と戦場での残虐行為の話だが、見ていて私は、自分が南京大虐殺をはじめとした、日本軍のアジアでの行為を考えるとき、彼ら自身もまた戦争の被害者である、加害者の兵士たちに対する愛情が、自分に欠けていたことに気づいて、ショックを受けた。

私はもともと、国でも人でも完全無欠のシミ一つない経歴の持ち主にはあまり魅力を感じない。幼いころからアメリカという国がいつも明るく正しい正義の味方でいまいちどうでもよかったのだが、ベトナム戦争の中で過去の黒人や先住民に対する暴虐の数々もあぶり出されて、すっかり暗い醜いイメージがついたとき、初めて親しみと愛情を感じ、連日ベトナム戦争への抗議行動を行いつつも、アメリカがとても好きになった。

それを授業で学生に話したら、レポートで「先生、その発想はもう神の領域です」とあきれられたが、そうかしらん。暗く汚れて傷ついた過去を持つ相手に、まっさらの優等生より惹かれるなんて、むしろミーハーの発想として普通にあるんじゃないかと思うが。

いずれにせよ、彼ら日本軍兵士の行為をひとごととして糾弾するのも、「日本人はそんなひどいことをしない」となかったことにしようとするのも、当の加害者に対して同じように残酷で、孤独と絶望に追いこむものであることを、「告発のとき」を見るまで、ずっと私は気づかずにいた。

どうしてだろうと考えていて気がついた。私は子どものころ外国文学を読んでも「揚子江の少年」や「こぐま星座」など、アジアに近い地域の小説にはあまり感情移入できなかった。それは自分もその一人である有色人種への距離感と蔑視なのだが、なぜそんなことになったかというと、圧倒的に大量の、金髪青い目白い肌の男女が活躍するおとぎ話の数々に、あまりにも慣れ親しんで来たせいだ。

単に慣れだというだけではない。そういうヨーロッパのお城だの騎士や姫君だのの空想に身をゆだねている時、田んぼとわらぶき屋根に囲まれた田舎の家の太ったさえない子どもである自分のことなど絶対思い出したくなかった。ちょっとでもそういう現実に引き戻されそうになる登場人物や舞台の物語は、夢の中でいきなり鏡をつきつけられてしまうような不快さがあった。

夢と現実の関係をうまくつけられないままに、現実を空想で乗り切っていた私は、欧米の歴史や現実には、小説でつちかったミーハーな好みも発揮できたが、アジアの場合には、それが完全には機能しなかったのだ。

自分を責める気はしない。だが、今の自分もまだ、そういう夢と現実の関わりをきちんと処理しきってはいないのだろうなと、あらためて自覚する。

ところで参院選も公示され、民主主義や立憲主義のあり方を問われる選挙になりそうだ。

この十年間近くの安倍内閣や野党や社会全体の動きを見ていて、ずっとどこかで体験したという既視感があった。私が勤務していた福岡教育大学の状況と、いろんな点で重なることが多かったからだ。

少し前から自分のホームページ「いたさかランド」で、その気持ちをまとめるために「教育大について」という連載を始めた。

福岡教育大学の現状を知ってもらいたいだけではなく、それを見ることで、戦後の政治や社会の流れの中にある、さまざまなことを逆につかめるかもしれない。

それが、これからの未来を切り開く手がかりになることを期待しながら、書きつづけている。よろしかったら、ぜひ見て下さい。

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カツジ猫