民教連サークル通信より「てぶくろをかいに」の絵本

さしたる興味がないことでも、つい同じものが目に留まれば集めて比べてしまうのは私の癖で、クリスマスに買った「ノアの箱舟」の絵本まで、何年かの間につい五六冊増えてしまった。壮大な話だけに作者によって、がらりと雰囲気が変わってしまうのが、なかなか刺激的である。

九月の末に、民教研が主催する研究集会で、私も文学講座をひとつ担当することになり、専門の江戸文学より、昔書いた新美南吉の「手袋を買いに」に関する論文を材料に話をしようかと考えた。母狐が子ぎつねの手を片方人間の手に変えて、町に手袋を買いに行かせる、かわいらしい童話で、教材にもなっている。

そこでつい、この童話の絵本を集めてみたら、簡単に今手に入るものだけでも十冊ほどあり、中にはバルタン星人の子どもが手袋を買いに行くというものまであった。でもこれ、帽子屋の主人はウルトラ星人なので、何で人間の手に変えて行くのかという必然性と整合性はいささか不足のようではあるんですが。

「ノアの箱舟」とはちがって、「手袋を買いに」の場合、原文は同一だからそんなに差はない。しかし読み比べてみると、「かあさん」と「おかあさん」、「足がすくむ」と「足がすすまない」など、随所に細かい表記の差があった。ていねいに検討すれば、それぞれ理由が見つかるだろうが、それを調べている暇はないのが残念だった。

さらに、文章をどこで区切って次のページに移るかは、絵本作者の裁量にまかされるから、それによって、印象がかなり変わって来る。そこにも、それぞれの作者の工夫と見解が反映されている。
特に、それに関連しておおっと驚いたのは、母狐が昔、あひるを盗もうとした友だちとお百姓さんに追いかけられて命からがら逃げたという体験を、見開き二ページ費やして、あひるまで書き入れていっぱいに描いているのは一冊だけで、他の数冊は画面の一部に、時には何のことかわからないほどあいまいに描いており、半数ほどの絵本には文章だけで、その場面はまったく描かれていないことだった。

どの絵本も雪のつもった野原と森での親子狐の生活と、静かな夜の町の場面がいかにも美しく暖かく、子どもたちがこれを読むだけで楽しい幸せな気持ちになるだろうと思わせる。その中で、このお母さんの苦い思い出はたしかに雰囲気を壊すし、悪く目だってしまうから描かない判断もうなずける。
しかし、私が講座でも述べたことだが、このお母さんが自分は恐くて行けない町に幼い子ども一人を行かせるという、この童話の欠陥とさえ指摘される部分を理解するには、お母さんのこの体験と記憶とはものすごく重要だ。それを、どのように伝えるか伝えないかは、大きな課題だろう。

他にも帽子屋さんの顔や店の様子、子ぎつねの買う手袋の色など、それぞれの絵本がすべてちがって楽しい。手袋の色は白い雪原に映えるからか赤が多いが、緑や青もそこそこあるのは、子ぎつねが「ぼく」で男の子だからランドセルの色みたいにジェンダー感覚が発動したのだろうか。

二匹が町に行くときに、子ぎつねがお母さん狐のお腹の下を歩いて行くという原作の表現も気になった。律儀にその通りの絵を描いている本もあって、それはそれでかわいいのだが、実際のきつねもこんなことをするかしらと思って、講座の前夜、ふと書棚にあった「シートン動物記全集」をチェックしたら、何とぶ厚い丸一冊が「キツネの親子」に費やされていて、とても読み切れず断念した。 ただし、その中に「子連れで歩くキツネを見たことがない」という一文はあって、そうなるとこれは南吉の創作かもしれない。

もちろん、それでもかまわないのだが、たとえば絵本の中にもキツネたちの動作がとても人間っぽいものや、逆に動物っぽさを残しているものやと、その擬人化の加減にも作者の好みや判断があって、興味はつきない。

講座は一応無事にすみ、集会もたくさんの参加者で、お天気にも恵まれて盛会だった。関わって下さったすべての方に深くお礼を申し上げます。
なお、当日の私の資料はホームページ「いたさかランド」の「朝の浜辺」中の「お買い物と文学」コーナーで見られます。

(2018年9月)

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