民教連サークル通信より選ばれる憂鬱

パソコンでインターネットをやっている人はわかると思うが、メール欄には、いろんな署名の依頼が届く。動物虐待をくいとめよう、教師の労働を軽減しよう、レイプ犯に厳罰を与えよう、ヘイトスピーチをやめさせよう、辺野古の埋め立てに反対しよう、暴言を吐いた大臣を辞職させよう、どれももろ手どころか、私がタコやムカデなら、十本百本の手を全部上げて賛成したい案件ばかりだ。

だから、せっせと署名し、コメントも書き、自分のブログで人にも勧めた。しかし、あんまり次から次へといろんな署名依頼が届くので、次第にうっとうしくなった。

とは言っても、そこでくじけては悪いやつらをのさばらせる、ここは戦いだという気持ちもあるから、がんばって署名も拡散も続けていたが、その内どうやら、このうっとうしさの原因は、ただ、きりがないとか、めんどうくさいとかいうだけとは微妙にちがうと気がついた。

これがもし、慰安婦像を撤去させようとか、憲法九条を変えようとか、原発を再稼働させようとか、そういう署名の依頼も来るのだったら、私の気分はまたちがったはずだ。

だが、そういったたぐいの署名の依頼はまったく来ない。存在しないのなら大変めでたいが、そんなはずはない。そういう署名はそういう署名で、署名しそうな人たちのもとに依頼のメールが送られているにちがいない。

つまり、私は選ばれているのだ。この人は、こういう署名をしてくれそうだと。
それに気づいた瞬間に私は疲れる。不愉快になる。不安になる。なめるなよと思う。こんな反応は私だけなのだろうか。
たしかに街頭で署名を呼びかけても、なかなかしてくれる人はいない。それに比べたら、望みのなさそうな相手は初めからはじいて除外し、可能性の高い相手にだけ送りつける方が、効率はいいだろう。だが、言いかえれば、それは相手を値踏みして、決めつけている。人間の可能性や意外性というものを無視している。

署名依頼にはその目的や趣意が書かれている。たとえ、改憲や原発再稼働を訴える署名でも、送ってくれば、私はそれを読むかもしれない。同意や共感はしなくても、その言い分は理解するだろう。少なくとも知るだろう。ひょっとどうかしたら署名するかもしれないし、ただ不愉快になるだけにしても、それを記憶に残し、その存在を意識するだろう。

それが、最初から避けて送られて来なければ、相手の主張や心情はおろか、存在すらもわからない。共感や同意ができるものどうしの世界だけが、どんどんあっちとこっちとで、ふくれあがって、密室の中で過激化して行く。そんな世の中がいいわけはなく、そんな流れの片棒をかつぐのが、私はいやでしかたがない。

人工知能やコンピュータに詳しい人に、そう言ってぼやいたら、それは人工知能の特質だからしかたがないと言われた。その後のやりとりは、私がその分野に無知すぎるし、あまり熱心に聞いていたわけでもないから、まちがっているかもしれないが、ともかく人工知能の認識というのは、何かを把握する時に最も大きな属性を優先するのだそうだ(この言い方も多分正確ではないだろうが)。
「じゃ、あれか。人参を理解するのに、野菜とか、赤いとか、栄養があるとかいうとらえ方の方が強くて、ひげがあるとか、そういうのは無視されるってことか」と聞いたら、そうらしかった。「じゃ、そこで人参の気持ちはどうなるんだ。ひげがあるということで知られたいと人参が思ってもだめなんか」と重ねて聞くと、それもどうも、そうらしい。

いかん、人工知能にまかせておくと大変だと思った一方、そんな弱点があるなら勝てるかもしれないと思ったりもした。

しかし、この憂鬱が昂じたら、コンピュータが何かのまちがいで徴兵制を復活させようとか、ヒトラーの名誉を回復させようとかいう署名を送りつけて来たら、今の私は喜びのあまり、うっかり署名をしてしまいそうで、実はそれが一番恐い。

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カツジ猫