民教連サークル通信よりあくまで好みです

これ、完璧にただの趣味で嗜好なので、気にしないで「あー、そんな人もいるのね」と思って読んでおいていただきたいのだが…。
私は、あの、こいのぼりをためて、ずらっと一列にして、メザシみたいにつるすのが、嫌いでしょうがない。

こいのぼり自体はもともと大好きなのである。と言って別に男の子じゃないから飾ってもらえなかったのが残念とか、そんなことはちっとも思わない。むしろ、自分の家で飾るとかいうことになったら、祖父母や母や叔母たちは、大騒ぎして場所や立て方その他で、けんかになったりしてめんどくさかったろうから、いっそない方がよかったかもしれない。

私の育った田舎は、特に貧しくも豊かでもない普通の地域だったが、戦後はやはり皆の生活も質素だったのか、そんなにあちこちでこいのぼりを立てていたような記憶はない。それでも、大学に行って、卒業して、就職して、熊本や名古屋や福岡を渡り歩いている間に、いつの間にか、この季節になると、町でも田舎でも鯉のぼりが空に泳ぐ光景をよく見るようになって、私はそれが大好きだった。晴れ渡る空、緑の山々。それを背景に泳ぐこいのぼりほど、美しいものがこの世にあるだろうか。あのフォルムを考えついた人は天才だと思ったし、日本人はすばらしいと心から世界に自慢できる。

私は二十年ほど前に、「グラディエーター」という映画にはまって、主役を演じたラッセル・クロウのファンサイトで、他のファンとアホなおしゃべりを楽しんでいたのだが、彼が結婚して二人の男の子が生まれたころ、皆に呼びかけて、お金を集めてこいのぼりを送ったら、絶対喜ばれるだろうなと夢想した。彼はオーストラリア出身で、郷里には牧場も持っているとかいうことだったから、その広大な草原で、日本のこいのぼりが泳いだらどんなに素晴らしいかと考えていた。

結局実行する勇気はなかったのだが、いまひとつやる気になれなかった理由のひとつは、その頃次第に、こいのぼりが昔ながらの青や赤や黒から、下品でけばけばしい金色のものに変わってきたからで、これが私は大嫌いだった。水色の空と緑の山や森やビル街を背景に泳ぐのは、青や赤や黒といった素朴で単純な色だからこそ美しいので、ちゃらい安っぽい金色にしたら魅力は半減するだろうに、何てバカなことするんだとメーカーに腹を立てていた。まあ、外国の人は得てして金ぴかのものを好むとか聞くから、ラッセルはその方が好きだったかもしれないが。

私としてはこいのぼりは断然、赤と青と黒であってほしい。しかし百歩ゆずって金色でもいいから、あれはぜひ海外に大々的に輸出するべきではないだろうか。あんなに巨大なものが風をはらんで空に泳ぐ光景は、アフリカでもロシアでも中東でもアメリカでも中国でも東南アジアでも、きっと似合うはずだ。

そしてそれは、あくまで高い竿の上で、縦に並んで横になびくからこそ、目を楽しませる。本当に泳いでいるかのように風をはらんで、空が水底になったような壮大な幻想が町や村の上に現出する。
つないで川の上などにつるしても、それは囚われた、死んだこいのぼりでしかない。雄大さも夢もない。何という醜悪なつまらんことを考えつくのかと、五月になるたび、こいのぼりのメザシだか開き干しだかを見せられるのが、私は本当にゆううつだ。

新聞記事で読んだところでは、最近こいのぼりが飾られなくなったのは、各戸が見えの張り合いで疲れるし、飾るのがめんどうだし、男の子がいると思われるとセキュリティ上問題があるしとか、いろんな理由があるらしい。それならと行政が、あのメザシ風こいのぼりを考えたらしいが、どうせやるのなら、ちゃんと縦にして高く泳がせろよと言いたい。それもせいぜい数尾でよい。数尾だからよい。多けりゃいいってもんじゃない。ずらりと並べるからメザシになる。廃物利用みたいで貧乏たらしく、見ていてひたすら心が沈む。

せめてもの抵抗ではないが、私は飼い猫が牡なのを理由に、通販で小さいこいのぼりを買って毎年庭に立てている。猫は別にうれしそうでもないが、風に泳ぐそれを見るのは、ささやかな私の楽しみである。
問題は猫が死んだり私が年取ってこれをセットする元気がなくなったりしたとき、猫のお古を誰かにゆずるわけにも行かないことだ。あ、牡猫のいる猫好きの家に差し上げればいいのか。

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カツジ猫