民教連サークル通信より敵と味方
親子や兄弟姉妹が似るのはまあある程度当然として、夫婦や師弟、ペットと飼い主も、どうかすると、しばしば似てくる。
私も自分と正反対の真面目で几帳面な教え子の学会発表を見ていて、どこがどうとか言えないが、話のしかたや質問への答え方が、妙に自分と似ているのに、ぎょっとしたことがある。授業を半年や一年やっていると、学生が最後に提出するレポートの文体や表現が、これまたどことなく私が書いたのじゃないかと思えるほどそっくりな時があって、落ちつかない気持ちにさせられる。
だが、そんなのはまだいいとして、これまでいろいろ自分の体験や他人の例を見ていて、しばしば痛感し、恐くもなるのは、長いこと戦っている敵と味方も、どことなく何となく、たがいに似てきてしまうことだ。
私は実は、個人でも組織でも国家でも、しんそこ嫌いな相手とは徹底的に戦いを避ける。こんな相手と戦ったら最後、本当にハルマゲドンになって地球を滅ぼすまでやめないだろうと思うから、何としてでも共存の道をさぐることにしている。
そのためにも、自分が相手を嫌っていることは、周囲にも相手にも絶対に悟らせない。自分が嫌いな他国民の悪口をプラカードに書いて、名指しで死ねとか出て行けとか叫んで大通りを練り歩く人たちの感覚というのが、だからまったく理解できない。とても本気で相手を憎んで滅ぼしたいと真剣に考えている人たちのすることとは思えない。まじめにやる気があるのかい、冗談かよと言いたくなる。
それほど深刻に嫌っているのでない相手とは、やむを得ず戦うこともあるのだが、一定期間戦いが続くと、許せないほど憎い相手に、否応なしに私が似てくる。こすっからい相手には、昔は考えもしなかった卑劣な手段をとっさに考えつき、強引な権力には、驚くほど冷酷で残酷になる。間抜けなアホとの議論では、つい手抜きで雑な反論をし、無神経で鈍感な連中には、自分の中の優しさも暖かさもみるみるすり減って消えて行く。相手もその分、私に似て少しは正直になり優しくなっているならいいが、そこの検証はほぼしようがない。
長い間、もうその名を口にするのもいやな首相や副首相、その支持勢力と戦って来た。そんな中で一番恐いのは、彼らと自分が次第に似た顔や姿になってくることだ。本当に、美容という一点だけでも、一日一秒一瞬も早く、彼らに私の目の前から消えてほしい。
それなのに、野党とりわけ共産党や、沖縄の人々は、ちっともそういう汚さや愚かさに染まらず、むしろどんどん賢く強く美しくなって行くようで、いったいどうして人間としての水準を相手に合わせて落とさないでいられるのか、そこがふしぎでならなかった。
最近ふと気がついた。私は、「むなかた九条の会」をはじめとする活動の中で、いろんな政党、団体、個人の人たちとふれ合った。お世辞ではなく、その誰もが本当に優れた良心的な人だった。今の社会の中ではおそらく最も良質な部分のこういう人たちとおつきあいすることで、私はだめにならないですんでいる。それをいつも実感し、そのぜいたくに感謝して来た。
だが思えば彼らは頼もしく信頼できる味方であるだけでなく、強い信念と厳しい意見をそれぞれに持つ、手強い敵でもあったのだ。
いっしょに活動する中、ともすれば意見や方針が異なり、それを議論し、ぶつけあい、批判しあい、妥協点を見つけては、協力しあって私たちは活動を続けて来た。
野党の共闘、私たちの活動、それぞれに問題点は多く、道は厳しい。その中で、時には激しく対立し、したたかに相手を見抜いて戦う、上質で立派な敵どうしであることが、私たちの品位を保ち、人間として堕落させない秘訣なのだ。
私は他人はともかく自分自身に関しては、ライバル関係というのもまた好きではない。特に女性その他のハンディを持ったまま、他にもいろんな事情がある中、こっちがエントリーもしていない競争に、相手や周囲から一方的にひっぱり出されてライバルどうしにされるのは、むしずが走るほどやりきれない。
けれど、そんな甘っちょろいお遊びではなく、真剣に対立し、信念や利害をかけて戦う相手とは、心を許さず手を抜かず、でも信頼して尊敬し、大切にしたい。
国どうしでも組織どうしでも、それはきっと同じことだ。
(2019年1月)