民教連サークル通信より講演あるある話

もう多分何十年も前のこと、授業の最終レポートなどで、「何これ」と目をむいたのは、文章になってない、「秋成→妖怪、○女性・かだましい、※馬琴⇔京伝」といった走り書きのようなものを提出する学生がいたことだった。数名だったが次第に増えて行くようだったし、「文章で書いてね」と注意しても何だかきょとんとしている。聞いてみると、他大学の他の先生たちも同じ体験をしていて、「これは、あなたのただのメモでしょ」とつっ返したという人もいた。

多分、入試に文章で書く課題がないから高校でも塾でも教えない、その結果なんだろうと私たちは推測した。当時萩尾望都の「スター・レッド」というSFマンガがあって、ヒロインの超能力を持った少女の頭の中が、こういう数式だけで思考が文章でないという設定があって、なるほどそういう新人類が現実に出現しつつあるのかと思ったりした。
数年で、その現象は完全に消えた。おそらく大学入試に文章で書く部分が出てきたからだろう。あまりにも鮮やかにその変化が訪れたので、それはそれで恐るべしという気もした。

似たようなのがカルチャーセンター、公開講座の類だ。私は地元や企業から頼まれて、よく一般の方々対象のいろんな文学講座をやっていたが、何となく大学内ではそれは物好き、不真面目、何考えてんのという雰囲気で、どこやら肩身が狭かった。
それが、大学評価や教員評価の項目に地域への貢献とかいう項目が登場し、履歴書の業績にもそれ専用の欄が加わるようになるにつれて、大学も教員もその種の活動に積極的に支援や参加をするようになった。おかげで私も気楽になったが、それからまた何十年、今度は世間に余裕がなくなって、文学や文化関係の講座の受講者が集まらない一方、大学の予算が減り人員が減り教員も多忙になって、しかも地域貢献のノルマだけはしっかり残るという、困った状況が生まれている。

当然、講座の主催者は、人集めに苦慮し、大学教員に講座を依頼するときも、「面白く楽しく、参加者が幸せになるようなものを」と、綾小路きみまろ氏とまちがえてないかというようなことをおっしゃる。また最近比較的生き残っている講座は、ヨガや健康食など、すぐ役に立つ実学の講座だから、それに匹敵するような、専門的な分野などには関係のない、わかりやすくてためになる話を望まれる。
私は大学の授業は専門的でつまらなくて退屈だから価値があると考えているし、一般の方相手だからとそこは妥協したくない。それでもせいぜい専門外の話をそれなりに面白く話して何とかするが、それでも期待したことが聞けなかったと不満そうな人が時にいる。

どうもそういう人たちは、たとえば「江戸時代は最高で、今よりずっとよかった」とかいうことを聞きたくて、江戸時代でも昭和でも昔や過去は大嫌いで三丁目の夕日なんかムシズが走る私からは、そんな快適なことばは聞けるはずがないから欲求不満になるらしい。
これはいわゆる民主的なリベラルな人たちの講座でもわりとあって、自分が予定し予想していた「平和が最高」「母は強い」「女は立派」「安倍は最低」とかいうことをあらためて耳にして快感を得るためにおいでになっているので、それに抵触するようなことを言われると、疲れてイラつくようなのだ。
そりゃたしかに平和は最高だし安倍は最低ですが、それにしても、それじゃ、いわゆるネトウヨの人たちやカルト集団が、自分の気に入ったことを書いてるブログやサイトだけ読んで、ますます尖鋭化して行くのを全然笑えないだろう。

いやそんなことより、講演に呼ばれると、いろんな状況下で謝礼を渡しそこねられ、こっちも要求しそびれて、タダ働きしてしまうことが、わりとある。
講演直前ぎりぎりまで主催者や担当者から熱烈に話しこまれて、講演の準備がまったくできず、冷や汗をかく体験も多分されている方は多い(お話をされることを楽しみにしている講師もおられるので、主催者としてそこは難しいところではある)。
そのへんの体験は、機会があればまた書くことにいたします。

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カツジ猫