民教連サークル通信よりやる気があるのか
私はヘイトスピーチと言われるものをする人たちの気持ちがわからない。
そんなもの、この「民教連通信」を読むような人は、誰もわからないだろうとは思うが、私の「わからない」は、多分その大半の人たちの「わからない」とは微妙にちがう。
私だって聖人君子ではないから、諸般の事情でものすごく嫌いな人はいくらでもいる。もっとも国籍や性別やその他でまとめて嫌いになることは、まずない。第一自分と同じ国籍、同じ性別でも、この人よりは台所のタワシの方がまだ理解し合えると思うぐらい、まったく気持ちの通じない人はいるから、そんなまとめ方は到底できない。
そして私は凶暴でしつこい性格だから、自分の嫌いな人はこの世から消えてほしいと思ったりもするが、個人でも国民でも民族でも、本当に完全にこの世から抹殺してしまうことは、考えれば考えるほどまず不可能だ。
たしかに自然や政治の暴威で、消滅してしまった種族や団体は歴史上いくつも存在するだろうが、それはよくよく、いくつかの条件が重なったからで、そう簡単にひとつの国や民族を滅ぼすことはできるものではない。少なくとも私の手には余る。
嫌いな個人なら完全犯罪で消してしまうこともあるだろうが、なまじミステリなどを読んでいると、人ひとり殺すのは、もののはずみならともかく、じっくり計画すればするほど、リスクが大きく、失うものが多すぎると感じて、あきらめざるを得ない。
結局、共存するのが一番手間がかからない。そして私のこれまでの経験では、私に何かと攻撃をかける人、攻撃のつもりでなくても結婚しろとか子どもを作れとか、めんどくさい世話を焼く人というのは、絶対にどこか不幸で満たされていない人である気がする。
よって、傷つけられまい邪魔されまいと思ったら、相手をこよなく幸福にしてしまうことだというのが、私の嫌いな人間への究極の対処法である。
幸福な人間は、基本的に他人のことにはかまわないものだ。私は電車の中で、べたっとくっついてキスなどしているカップルは最高に好きで、それは彼らが私のことなど眼中になく、あれほど人畜無害の存在はないと思うからである。
とは言え、そこまで手間ひまかけて相手を幸福にする余裕がない時には、やっぱり彼だか彼女だかが私にしきりにかまって来て、毎日がうっとうしく、こいつ絶対ひどい目にいつかあわせてやるからなと、ひそかに決意するぐらいのことは私にだってちょくちょくある。こいつとは不倶戴天の敵になるしかなく、どっちかが滅びるまで戦うしかないと決意することだってある。他にすることも多くて忙しいので、大抵あまり長続きはしないけれど。
そういう時の絶対に許さない敵と認定した相手に対して、とりあえず私が行う作戦とは、私が相手を嫌いなことを本人にも周囲にも絶対に気づかせないことである。
わざわざ書くまでもないぐらい、なぜかと説明する必要もないぐらい、これは憎い相手を本当に滅ぼそうと決意した時、絶対に取る戦法のイロハのイだと思うのだが、ちがうでしょうか。
私はけっこう議論もし対立もしけんかもするが、本当に嫌いで許せない相手とは決して争わないし、ことを構えない。始めたが最後ハルマゲドンになることがわかっているからで、相手が気づいていようがいまいが、勝つとわかっている時と、負けてもやるしかないと思っている時以外は、戦わないことにしている。
だから、北朝鮮だの韓国だの中国だのその他のどこでもいいが、ある対象を、単に自分が漠然と嫌いだからと、その原因を探りもせず、その感覚がまちがっていないか徹底的な検証もせず、完璧に滅ぼす方法を検討もせず、人前で大っぴらに、殺せだの何だのとプラカード掲げて歩きまわるという行為は、私にはどう見ても、真剣な憎悪とも反感とも思えない。ひまつぶし、気晴らし、泣き言としか映らない。まじめにやる気があるのかと思ってしまう。
何かと戦おうと思ったら、私がまずとことん確認するのは相手の長所と魅力、味方の欠点と弱点だ。あえて言うなら、相手を憎んでいたのでは、戦いに勝つのは難しい。本当に相手を滅ぼしたかったら、まず最初に消しておくべきは、相手への憎悪だ。そんなものを抱えていては判断が狂って、ろくな戦いはできない。
(2018年5月)