民教連サークル通信より古い歌
その歌詞に、「皆さん私を見るよりは、読んで下さいプラカード」という一節がある。
その前の「花の盛りをサンドイッチマン、いろいろわけもありますが」の歌詞でわかるように、当時はサンドイッチマンは、決しておしゃれなパフォーマンスのような要素はなく、うらぶれた恥ずかしく物悲しいものだった。若い女性がやる仕事ではない。好奇心から人目が集まる。それで、私には注目しないで、かかげているプラカードの宣伝文句を読んで下さいね、ということであろう。
私はこの歌詞のこの部分を、六十年たった今でもしっかり覚えている。多分、当時の日記に引用したからだろう。何を言うために引用したのかは忘れてしまった。おそらく、自分の発言や主張に対して、「そんな考えを持っているのか」「そんな人だったのか」と私個人に関する興味や関心を示す前に、共感であれ反感であれ、何らかの反応は、まず私の言っていることばの内容に向けてくれ、私を理解する手段としてではなく、できれば誰が言ったかさえ忘れて、その主張や見解の是非をじっくり考えてもらいたい、と中学生の私は思っていた。そんな記憶が漠然とある。
だが、その一方で「これであなたのことがわかった」「あなたはそういう人だったのか」「この人にはこれこれの傾向がある」「この人の趣味嗜好はこれらしい」などと、私個人への分析や接近や一体化が感じられると、ありがたいより申し訳なくて、落ちつかない気持ちになる。
だいたい、ものすごく不思議に思うのだが、現時点での本音や正体を文章や発言で、周囲にさらしてしまうほど、セキュリティ感覚のない生き方を、人はしているものだろうか。あるいはまた、書いたり口にしたりした次の数秒数分で、ましてや本の出版とかだと数ヶ月もかかる間に、感覚や思想が変化発展もしくは消滅退化しないほどずっと変わらない生き方を、人はしているものだろうか。ミロのヴィーナスやサモトラケのニケだって片腕や頭がなくなるぐらいなのに、生身の人間が毎日いろんなことを体験して変わらなかったらその方がおかしい。
だからこそ私の書いたものや、口にしたことは、私にとって貴重である。過去の私がその時点で責任を持って口にしたことは、現在の私を鞭打つし、縛る。私が誰より気にしているのは、小学生や中学生、高校生のころの私自身の、大人に対する容赦ない厳しい目だ。私はそれを決して幼い若い日の無垢さや未熟さとして微笑んで振り返ったりなどしない。神にも劣らぬ審判者の前に立つように、私はその意地悪で気難しい過去の自分の視線と向き合う。
そういう点では私の書いたものや言ったことは、そのときどきの自分が残した真剣で誠実な証言である。うつろいやすく消えては変わる現実の私自身よりも、はるかに信用できるし、大切に受けとめてもらいたい。だが、それで現実の私を理解しようとしても、そこにもう私はいない。あるのはただの残像だ。
とは言え、最近、昔に比べると人に見せずに隠している危険な思想や恥ずかしい趣味の蓄えがだんだん減って行っている気がする。そろそろ人に言えない危ないことを何か見つけておかないと。(2019.11.29.)