民教連サークル通信より素人の質問ですが

悪名高い2ちゃんねるの、芸能だのスポーツだの、罪のない内容だが、そこは2ちゃんねるだから、過激な悪口も飛び交う無法地帯みたいなスレッドでは、ときどき、扱われている題材にまだあまり詳しくない、だがそのことに自分では気づいていない初心者が、基本的なまちがいや、知ったかぶりの発言をして、皆から「ニワカ」と罵倒され、悪意と軽蔑の対象になっている。

江戸時代の遊里を舞台にした滑稽な文学、洒落本でも、いかにも吉原のことを何でも知っている風で、店や遊女にも馴染みが深い「通人」のような顔をして、初心者にあれこれ指南をする、その名も「半可通」なる定番キャラがいる。結局はうぶで無邪気で野暮な初心者の方がもてまくり、自分は実は馴染みでも何でもなく、遊里のどこでもバカにされ、負け惜しみを言いながら去って行く。
昔から、こういう鼻につく存在は人々に嘲笑される運命だったのだろう。

私もときどき、うっかりして、障害がある同僚の前で、障害者の登場する映画のあらすじや背景を得々として解説してしまって、あとで冷や汗を流したりするぐらいだから人のことは言えないが、私の周囲にも、こういう人は多い。
一応私が国文学者だと知っていて、歌舞伎の見所を長々と語る人や、たまに訪れて私の車で駅から自宅までの道を走る間に右折禁止や一時停止の標識をいちいち教えてくれる人を見ていると、私はよっぽど専門分野でも無知なド素人で、家の近所の通い慣れた道でも危なっかしい運転をしているのかと思う。
まあつねづね、新入生相手の自己紹介で「私の特技は人になめられることです」と言っている私のことだから、自業自得のところもきっとあるだろう。

自分が詳しい、大好きではまっていることを、それを示すきっかけもないままに、延々と他人のうんちくを聞かされても、常に不愉快なわけでもない。私はシャーロック・ホームズの愛読者で小学生の時に事件の年表を作り、文庫本が新刊になってページの行移りが変わっただけで不愉快になるほどだが、ある学生がぺらぺらシャーロッキアン的おしゃべりをしていて、「○○文庫のホームズは✕✕文庫のホームズより女性的なしゃべりをする」と指摘するのを聞いて、ほううと感動したことがある。その一方で、別の学生が誰もが知っているようなホームズ情報を自分以上に詳しい人はここにはいないだろうという顔で話しているのを見ると、「あー、こういう人なんだな」と、それまで高かった評価も一気にだだ下がりするから、いやー世の中ほんとに油断ができない。

サンプルが少なすぎるし、仕事上つきあう人にそういう職業の人が多いだけかもしれないが、こういうニワカや半可通には学校の先生が多い気がする。
広範囲にわたる知識を、最新の情報で更新しつつ、昨日仕入れたばかりの話を昔から知っていたように自信を持って生徒の前でしゃべらなければならない毎日では、どうしてもそうなるのかもしれない。私自身もそうである。

だが、特に授業で文学作品について語るとき、かつての幼い自分のように、その作品を家族や友人以上に深く愛していて、皆の前で登場人物の名を口にするのさえ苦痛なほど知り抜いて熟知している子どもや学生が、もしかしたら教室にいるかもしれないという、恐怖と不安はいつも心をしめつける。
文学作品が教科書から消え、駐車場の説明文などの実用的な文ばかりになるという改革を、私は決してよいこととは思えない。だがその一方、愛するものが半可通やニワカの手で汚されることがなくなるかもしれない子どもたちのことを思うと、心の奥底でひそかにひそかに、強くほっとしているのも否めない。

なお、学校の先生と言っても、大学の教員や専門家や研究者には、そういうニワカや半可通はあまり見ない。それどころか、大きな学会で緊張しながら発表した若い研究者に、その方面の大先生が質問するとき、嫌味か本気か必ず前置きに言うのは「この方面には素人ですのでお教えを乞いたいのですが」「私は初心者なので初歩的な疑問になるかと思いますが失礼をお許し下さい」で、その後に続く「初歩的な質問」という名の絨毯爆撃か大型爆弾投下で、発表者をズタボロにしてしまうのが常である。

少し以前にある政治家が記者団の質問に答えず「次の質問どうぞ」と言いつづけて世間の顰蹙をかった。その時に仏文学者の内田樹さんがツイッターで、「学会で大先生が『素人の質問ですが』と言い出したら若手研究者がこう言ってみてほしい」と冗談を言っていたから、どこの分野でも似たようなことはあるらしい。これはこれでまあまたなかなか、罪深いのかもしれないが。

(2019年3月)

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カツジ猫