映画「アナと雪の女王」感想集映画「アナと雪の女王」感想(おまけの9)

◇やだやだ、ほんとに20まで行くかもしれない、この「おまけ」。

東北の大震災と原発事故の直後に、萩尾望都が描いた「なのはな」という漫画集が出版された。私は買って持ってるのだけど、おさめられた短編のいくつかは似た内容で、いずれもウランとかそういう原子力が美しい女性の姿で描かれており、人類と仲よく幸福に暮らしていたのに、その危険性が明らかにされて永遠に幽閉される悲しみを当の女性自身の視点から描いていて、私はそのような立場を忘れることが出来ない(核という存在そのものの側から見た悲劇まで考えてしまう)萩尾さんに強く共感した。

「アナと雪の女王」のエルサの苦悩が、描かれているようで実はまったく描かれておらず、しばしばネット上の批評でバカ扱いされている妹のアナ(たしかにバカだが)以上にエルサは、どう考えてもちゃらんぽらんで中途半端なアホにしか見えないのにもってきて、それに似つかわしくない、けたはずれに強大な魔力、それも次第に強まり本人にも制御できず、環境を破壊して人々を破滅に追いこむ魔力と来た日には、いつからかだんだん私には、エルサがあの「なのはな」で登場する、原子力が擬人化された哀れで愚かな若い娘に見えて来てしかたがなかった。

あながち突飛な連想でもないと思うのだが、だったらなおのこと、そういう存在の、そういう力が、自分自身の努力か妹か誰かの工夫か両方でもいいけれど、とにかく何か具体的でわかりやすい描写と趣向によって、人々と共存し、国と世界を幸福にする方法を、映像でこの上なくみごとに表してほしかった。象徴的にでも感情的にでももちろんいいから、その方法を見つける努力と成功を全力で追求し、完成させるドラマしか、このテーマではありようがないのだ。そこが解決されてこそ、エルサは幸福になるし、「ありのままに」の歌も勝利の歌になる。そのような幸福な結末に向かう一歩を彼女が踏み出した歌になるのだから。

だが実際には、自由と自立へと歩み出したエルサは敗北して連れ戻され、逃亡して追いつめられ、連れ戻そうとした張本人の妹によって救われ、それによって愛にめざめて魔力のコントロールに成功する。あのー、よく見て下さいね、私のひが目なんでしょうかね、どうとりつくろったって、これは、さっきの暴力亭主から逃げ出した奥さんの例でつづけると、泣き落としと暴力で連れ戻されて監禁され、逃げ出そうとして追いつめられ、死にそうになった時にかばって助けてくれた夫を見直して反省し、再び家庭に帰る、って、その昔、フェミニズムやウーマンリブなんて言葉もまだなかったころ、死ぬほど映画やテレビで見せられた、安っぽいドラマそっくりの図式じゃないですか。ふざけるんじゃないよ。エルサ自身がどの程度、そういう展開を拒絶してるか期待してるか、わからんとこまで、そっくりです。

◇私が、あの国の政治体制や、国民だか民衆だかの意志や、実権を握ってるのが誰で、エルサの権力はいかほどか、まるで描かれていないと不満がるのを、いーじゃないか、たかがおとぎ話にそんな堅いこと言わんでもと言う人は多いでしょうし、実際ネットでもそういう意見はちょこちょこ見ますが、私は何も趣味でそういうこと知りたいのではなく、この映画の場合、エルサの気持ちをちょっとでも理解しようとしたら、そこを避けて通れないからなんですよ。
つまり、エルサはあの魔力で苦しんだ悲劇のヒロインみたいな顔をずっとしてますが、それがどれだけ、彼女にはどうしようもない周囲の状況だったのか、彼女自身の選択した状況だったのか、これだけ自己責任が好きな最近の日本にしてはまったく誰も気にしていない、つまり、彼女の不幸に彼女自身の責任はどれだけあったのかということが、まったくもう、不問に付されたまま、話が進むから腹立つんですよ。

何が腹立つったってですねー、彼女、あの戴冠式も、それ以前の幽閉も、自分の意志でか、誰かの意志でか、まったく明らかにしないまま、「人に言われてしかたなくやってる」被害者みたいな面持ちと風情をずっと通してるでしょうが。いくら何でも王女でしょ。王位継承者でしょ。実権が他の誰かにあったとしても、抵抗のひとつもできなかったわけじゃないでしょ。いや、そういう力関係もまったく描かれていないから、彼女自身が選んだのか、他から強要されたのか、ずうっと、わからないままなんですよ。
前に言った「従順すぎる妹」って小説で、私はこういう風に生きる女性を主人公にしてますが、こういう生き方するやつは基本的には大嫌いです。それでもまだ、意識してそうやって他人を利用してるやつはいい。自分でも無意識に無自覚にそうしてるやつって、一キロ以内に近づいてもほしくないわ。

どさくさまぎれに言っちゃいますと、私は天皇制に反対です。その主な理由は、結局のところ王室とか皇族とかというのは実権を持たない分、「本人の意志か、誰かに強要されてるのか」が限りなくわからなくなる可能性が高いからです。すごく危険だし何より不愉快です。
しかし、今の日本の皇室の天皇皇后は、少なくともエルサなんかよりよっぽどはっきり自己責任で行動も発言もしておられる。エルサなんかと比べるのも失礼ですが、はるかに立派です。

エルサはあの国では少なくとも、日本の今の皇室よりは、ずっと明確な地位と権力を持っている(はずです。としか思えません。いくら映画がまったくふれていなくても)。なのに、いったい何ですか、すべてにおいて「私の意志じゃないんですう」みたいな、あの他人事のようなすべっとした表情は。
いや、そういう不幸な顔さえしてないね。そういう証拠をつかまれるような、へまなすきは絶対見せてない。どうとでもとれるような、つかみどころのない顔をずっと彼女はしています。かわいいとか言うけれど、私は彼女の戴冠式のあのとりとめなく、理解不能な表情が、ほんとに不気味で、気持ち悪かった。妹とにっこりしたり楽しそうにしたりする態度や顔が、まったく何を考えてるのかわからない。アホなのか、人間じゃないのか、ものすごく賢い策士なのか、見れば見るほど、不可解でした。

ネットの感想では、彼女は緊張してるとか言ってる人もいましたが、何を緊張しますかねえ。あの戴冠式を発議し決定したのは彼女じゃないの? なんてヤボな突っこみは、この映画じゃもう言いっこなしなんでしょうが、彼女の秘密を知ってる人が皆無ってことはないだろうし、たとえそうでも、彼女の地位と権力があれば、手袋はめて王家の神器を受け取るぐらいの工作は、いくら何でも出来るでしょうに。
神官が首振ったぐらい無視すりゃいいんですよ。アレキサンダーは王者がほどけるという結び目をほどけなかったら剣でぶったぎったんでしょ。権力者はルールを変更できるんです。釈迦は自分が脱落した修行を、こんな苦行は意味がないと否定して新しい宗派を起こしたんでしょ。偉大になれるかどうかの分かれ道は多分そこです。自分にできないことは価値がないと思えること。あの強大な魔力を具えたエルサに、そのくらいの覇気がなくてどうしますか。
エルサがそれが難しい立場にいたって言うんなら、ちらとでも、それを説明して下さい。でも、わざとしてないんだろうね。何度もくり返しますが、この映画、彼女の責任がどこまでなのか、徹底的にぼかすから。その結果、彼女は自由意志があって自分で選べたという責任も、人の言うなりになって抵抗しなかったという責任も、どっちも決して取らないですんでいる。

そんな、ひよひよ頼りない人間が、なぜかあの強大な魔力を持っている、という設定は不可解ながらそれなりにホラーとしちゃ成立するかもしれません。でも、もうだんだん言いたいことを言ってしまうと、大きな権力と魔力を持ちながら、常にすべての成り行きが自分のせいじゃないような顔をして、久しぶりに会った妹と(それだって自分の好きで閉じこもってたのに、妹にすまなさそうな顔もしないし、まるで誰かにそうされていたかのように)しれっと会話をしてる彼女を見てると、私は恐くて背筋に悪寒が走りました、本当に。

◇ああ、あと忘れないうちにあと一つ書いておくと、私、エルサが向かった雪山と、彼女が凍らせた世界との分岐点がよくわかってないんですが。これも彼女の責任回避や、彼女の魔力が作った世界の特徴をぼやかすためとかの意図があるんですかね、もしかして。またそれはいずれゆっくり考えます。

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カツジ猫