映画「アナと雪の女王」感想集映画「アナと雪の女王」感想(おまけの3)

ぎゃあ。今ネットで検索したら、「王家の紋章」まだ続いてるらしい。作者は75歳でいらっしゃるとか。
それはさておき。

私は自分と考えがちがう人が、なぜそうなのかを知りたくてたまらない。というか、知らなければ不安になる。だから安倍首相がなんでああまで憲法を変えたがるのか、その割に全然真剣に国民を説得しようとはせず、姑息な手段を次々考えつくのか、どうしても理解できずに欲求不満である。ヒットラーがなぜユダヤ人を殺したがったのかも理由がわからないと不安である。「アナと雪の女王」に夢中になっている人たちは、あの映画のどこにそんなに魅了されたのか聞いてみたくてうずうずする。

ネットの感想のさまざまから漠然と受けとめるのは、多くの人が感動しているのはアナとエルサの姉妹愛(これに私が感情移入できない理由は前に述べた)と、エルサの自分ではどうしようもない危険な能力を抑制して生きていて、それが破綻したのをきっかけに「もういい娘にはならない。自分らしく生きるのだ」と歌い上げる場面に、自分の体験や現状が重なる点、ということになるようである。

そもそもあの「ありのままで」と歌い上げる場面は、そういう高らかな自立宣言ではないんじゃないかい、という話は前にした。
更に、ややこしいことに足を踏み入れると、私がこの映画に感動しそこなった理由のもう一つは、そもそものその彼女の魔力だか能力だかが、これまた他のすべてと同じように、ものすごく雑に設定されてるという印象だ。だから何に彼女が苦しんでるのかが、さっぱりぴんと来なかった。

でもこれは、雑で漠然としてる分、いろんな人の体験や現状と重なる部分が多くなって、広範な人を「ああ、わかる。私みたい」と酔わせてしまう効果もあるのだろう。逆に私が「で、何が問題?」と妙につきつめてしまいたくなるのは私自身が似たような問題の解決のために、「何が問題なのだろう。どこを切り捨てたらいいのだろう。突破口はどこにあるのだろう。譲れないことは何と何だろう」と、幼年期から青春時代まで、いや中年まで、いやもしかしたら今も、戦略や対策をずっと検討しつづけて来たせいもあるのだろう。

とにかく私は彼女の途方もない力がどういう性質のもので、どこが問題なのかがつかめなかった。それがわからないから、彼女の苦悩が伝わらなかった。もう、感覚だけでとことんむちゃくちゃを言ってしまうと、よくも悪くもあれだけ平凡でちっぽけで弱くてアホな人に(これは、そういう普通の凡人に近いように設定することで、観客に親近感をもたせようとするセコい計算なんだろうけど)あんなものすごい魔力や能力が降臨するということが、何かもう決定的な違和感だった。

そりゃま、エヴァンゲリオンの主役の彼あたりから、思いきり普通の平凡な子に世界を救うような能力がそなわってしまうという、当人にしたら超悩ましい事態というのは、ハリウッドでも日本でも今の時代は定番なのかもしれないが、あー、考えてみたら私は、多くの人が共感し感情移入するこの事態に、あまり興味を持たないんだなあ。なぜかしらん。

泣いても笑ってもそういう能力を持ってる時点で、それはもうある意味障害や病気と等しいものなんだから、あきらめて対応するしかないだろうとしか私には思えない。
それにしても世界を凍らせる、いわば天候を左右できるというのは、巨大ロボットを操縦できるとかいう程度の能力とはけたちがいにすごいよね。昔「電撃フリントGOGO作戦」とかいうアホなスパイ映画があって、その中の悪役は天気を操れるしくみを手に入れて、世界を支配しようとしてた。似たような話はきっと、他のB級映画にもあるだろうが、とにかく天候を思うようにできるというのは、人類にとってまだ夢でしかない巨大な権力だ。

エルサは自分の力の限界をよく知らなくて、最初はあたりを凍らせる程度のものが、いつか国全体を冬にするまでに発展していたのに自分でも驚くのだが、そのような力の増大がどうやってなぜ生まれたのかの説明が、これまたあまりになさすぎて、何がどうなってるのか実感としてつかめない。彼女の力の増大は、最初の方で部屋がじたーっと凍っていくあたりの描写から見ても、明らかに疫病めいた不吉なものを連想させる。だがそれが一気に国を凍らせると、そこには何か美しい世界も生まれている。このへんの整理がものすごく出来てない。雪の材質を描き分けたとかいうが、そんなことより問題は、エルサにとってのこの能力が、呪われたものか祝福なのか、それがいつ何によって変化するのか等々が、なーんにも考えられていないことだ。二人の王女と同様に、氷も雪もその場その場での都合に合わせて、ちぐはぐに、いろんな雰囲気のものになっていて、よせあつめ感、つぎはぎ感がはんぱない。

私はたいがいの人がけなしつくす「ゲド戦記」の映画を、実は大変高く買う。それは、あの映画の風景や場面の描写が訴えようというテーマにぴったり沿って、寸分のすきなく計算されて、おぞましく病的だからだ。そのような統一感や計算が「アナと雪の女王」にはまったくない。魔法の力がエルサにとっていったい何なのかが、さっぱりわからないままに、そのときどきで雪と氷は楽しかったり不気味だったり美しかったりしている。そうやって変化するのは、むろんいい。よくないのは、それが表面的な効果だけねらって、全体の構成や展開と何の関係もなく、つなぎあわされていることだ。それは、エルサにとって何よりも重要で重大な彼女の魔力を、ちっとも理解も説明もしていないことになる。だから私は危険な力を持つ人としてのエルサが、その本質も全体像も、まったく見えてこなかった。

そもそもそのように何だかわからない力を、最後にいきなり「愛よ!」とまとめて、こりゃまた思いきりちっぽけな範囲にまとめてコントロールしてしまうのも、だから狐につままれ、けむにまかれたような気分になるのだが、ここでエルサが「愛よ!」とか言うても、それは妹への愛だけでなく、多分国民への、人々への、愛もあるんだろうけれど、これがまた、その国民や国や人々がまったく描かれてないのだから、受け皿がないまま、彼女のことばも行動も宙に浮いてさまよってしまう。わけのわからん能力が、描かれなかった国民とぶつかりあって、支えあえないままにばらばら散らかって終わってるのがあのラストで、そこには何の幸福感も充実感も感じられない。

えーと、もしかして、まだ続くかな? でもとりあえず、今夜はこんなところかな。おやすみなさい(笑)。

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カツジ猫