映画「アナと雪の女王」感想集映画「アナと雪の女王」感想(おまけの13)

◇まあ「異邦人」にしても「長距離ランナーの孤独」にしても、異端者、異分子は飼いならされないけど、滅ぼされる危険はあるわけです。私はもう、飼いならされるぐらいなら、ほろびてしまうぐらいは文句は言わないと思っていたけど、むろん本当はほろびてほしくはなかったし、自分はほろびたくはなかった。

飼いならされもせず、ほろびないでいるためには、表向きはとにかくきちんと生きるしかなかった。「凍る力」を弱らせない、消さない範囲で、周囲が私に要求するものを用心深く選びながら身に着けて、それをそのまま「凍る力」を守る武器に変えるしかなかった。
その一方で、「凍る力」を周囲に認めてもらう方法はないかについても、考え続けた。これは人を傷つけ害になるだけではなくて、もしかしたら役に立ち世界を救うものになる可能性はないだろうか。そのことも、何度も、何度も。

この力と、それとわかちがたく結びつく自分を守り育てるためには、周囲と対立し戦うことを恐れてはならない。しかしその一方で、同じ理由から周囲と共通し共生して行ける可能性も探り続けなければならない。
憎しみと愛の両方を、決して失ってはならなかった。

◇私が女として、男に守られるのではなく、むしろ男を守るかたちで愛したいという自分の欲求や、それにつながる自分一人で自由に生きたいと思う欲求を表に出せなかった理由のひとつは、そうすることで、仕事につき権利を得るといった女性の地位の改善が、そのまま男性の地位の悪化につながると感じていたことでした。
男女の差別、男女の役割分担が、女性のみならず男性にとっても苦しく不幸なものになる可能性が高いこと、特に戦争で死ぬという役割を男性に押しつけるものであることに気づいたとき、私の抱えていた問題は、解決に向かって大きく前進したと思います。

その時に私は自分の「凍らせる力」が世界を破壊し他人を傷つけるだけではなく、新しいよりよい世界を築き他人を幸福にすることができるかもしれない可能性に気づきました。
私の勝利と解放が、他の皆の幸福につながるかもしれないと思ったから、私は戦う決意ができました。

その見通しがどうしても生まれなかったら、あるいは自分の「凍らせる力」が絶対に誰かを不幸にするしかないという見通ししか生まれなかったら、私はどうしていたのでしょう。
負けるのを承知で徹底的に周囲と戦って滅びたでしょうか。あるいは、「なのはな」の核物質が擬人化された美女のように(映画の最初のエルサのように)自ら身を隠し幽閉されたでしょうか。

◇いや、私はどちらも選ばなかったでしょう。実際、どちらも選ばなかった。一度も選ぼうとしなかった。言いかえれば、「そんな見通しは生まれない」ということを私は決して認めなかった。
私はもちろん、たくさんのことをめざしたし、悩んだし、努力もしてきました。失敗もしたし成功もしたし、まあ一口に言えばいろいろ忙しかったので、自分の「凍らせる力」について、考えたり悩んだりばかりしていたわけではありません。それでも、すべての問題はどこかでそこにつながったし、私はそのことを知っていた。あまり希望を持てたわけではないけれど、絶望したことは一度もない。

だって、そんなひどいこと、あるはずがないと、心のどこかでいつも思っていました。私に「凍らせる力」を与えておいて、それをなくさなければ生きていけないとか、それは他人を不幸にするから消すしかないとか、そんなひどいことをするはずがないと私はずっと思っていました。何が? 私は神の存在を信じているわけでもないのですが、存在以前にその善意を信じているのです。つきつめて行くと、いつも。
見通しが生まれないのは、自分の努力や工夫が足りないのだと、いつも思っていました。ありとあらゆる手をつくしてからでないと、絶望なんかしちゃいけないと何となく思っていました。

◇自分がそれを持っているばかりに、周囲を不幸にし、ひいては自分も不幸にする強大な力、あるいは人との相違点。
それをテーマとしてあの映画が描くなら、少なくとも、それがどんなものであるのか、持っている本人と周囲にどんな影響を与えるのか、どうやって共生と宥和があり得るのかを、少しは示してほしかった。
私の場合だけでなく、さまざまな人の場合もそれぞれに、人は工夫し努力して、その解決を見出してきているはずなのだから。

エルサが核廃棄物などでなく、生きた人間である以上、あれだけの「凍らせる力」が生まれて育つ間には、彼女なりの葛藤や愛憎や思考が必ずあります。そうでなかったら、そもそもあんな力は生まれないし育たない。
そして戴冠式を迎えるまでに成長するまでには、「儀式をうまく終えられるかしら」などという表面的なことだけでなく、王女として女王としてこの力を持つことは国民にとってどうなのかということも彼女が考えないわけはありません。考えない方が難しいでしょう。
そういうことが、まったく描かれないから、エルサと言う人がまったく浮かび上がって来ない。

王宮を逃げ出して嬉々として氷の城を作るにしても、そもそも王女や女王としての自覚や重圧が、「儀式をうまくやれるかしら」程度のものとしてしか描かれていないから、解放感もないし、自分の能力を憎もうとしたのか愛そうとしたのかその両方かもわからないから、好きなことができる喜びも伝わって来ない。
国民も自分も愛せない人が、なぜあんなことをしてるのか、なぜあんなことができるのか、見れば見るほどわからなくなる。

◇「愛なのよ」という、唐突過ぎてさっぱり誰にもわからない、あの解決のキーワードは、でも、多分正しくはあるのです。私も自分を消さずに他人と共存する道をさぐりつづけていた間、一番なくしてはならない大切な武器は、特定の個人であれ、不特定多数の人類であれ、とにもかくにも人間すべてを愛する力だと思ってきました。それはもう理屈ではない、体験にともなう実感でした。人類でなければ動物でも風景でも無機物でもいい、とにかく何かを愛することを忘れたら、判断力は狂います。

しかし、私が愛と同時に大切にしていたのは憎しみでした。憎しみを忘れたら愛も消える、薄らぐ、お題目に過ぎなくなるということも私は体験から実感していました。
憎しみが描けなければ愛も描けません。エルサがラストに近く愛にめざめるのなら、それまでは彼女にあったのは憎しみか、あるいは何もなかったことになります。
しかし、エルサの憎しみもまたはっきりとは描かれず、要するにそこまでの長い時間、この人は何も感じず考えず生きてきたようにしか見えないというのが、どうしようもない印象です。
恐怖があったのだろうと言っても、それは「儀式が」という程度にしか見えず、そもそも恐怖とは愛するものや守るべきものがあるから抱くものであり、エルサには、それほど執着しているものが最後まで何もありそうには見えません。戴冠式で久しぶりに会った妹に対してさえ、自分(の力)はこの子を傷つけるのではないかという恐怖はエルサに見えず、それではどう考えてもアナへの愛もそれほどに深いようには見えないのです。

あらゆる意味で、そこにあるべきものが、どんなに目をこらしても見えないまま、話が進んで行くのがこの映画のものすごい徒労感の源だろうと思います。こんなに適当にいいかげんに、こんな大切なテーマをあつかってほしくはなかったと、つくづく感じます。映像や歌がいいと言いますが、それさえも私には逆に薄気味が悪いですね。

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カツジ猫