映画「アナと雪の女王」感想集映画「アナと雪の女王」感想(おまけの16)
◇何しろあまりに評判のいい映画だから、少々の悪口は書いても大勢に影響はなかろうという気軽さもあって、あれこれ書き散らしていたのだが、ここに来て、おっとっと、ヤバいかもと踏みとどまりかけているのは、ほんとにこれ書いてると、いろんなとこで私の本音が出て来るのよね、自分でも気づかなかったことまでが。
三回目を見直して、深くため息ついて理解したのは、なぜ私がこの映画にこうまで怒るか反発するかって理由が、またちょっとわかったからです。
15年前、私は「グラディエーター」という映画に異常なまでにはまったんですが、どこまではまったかは、下のサイトのコーナーを見ていただければ、おわかりいただけるかもしれませんが、
http://www5a.biglobe.ne.jp/~hr-f/jubakosan.html
で、「グラディエーター」は、まあもちろん文句なくいい映画でもありましたけど、それだけじゃなくて、私が一番びりびり反応してしまったのは、「こっちが望んでもない戦いにひっぱり出されて、自分の生きる目的がわからないバカなやつの自己確認のために一方的にライバル扱いされる」不愉快さを、とことん思い出させられたからでもあります。
「アナと雪の女王」は、まったく説明不足の中途半端の及び腰の失敗作ではありますが、「グラディエーター」と同じように「あー、この状況! 私知ってる知ってる知ってる! 許せない!」という記憶と激怒を私の中に呼びさまさせる映画でもあります。
エルサは、女王として生きる、もしくは皆といっしょに普通の暮らしをすることを断念して、孤独に雪山で氷の城を作って幸福になることを選びます。
まあ本当はその前に、あんたはそんなに自分のその能力を恐れ、統御できないと自覚するなら、何で女王の座を妹に譲ろうとしなかったんだと聞きたくもあるわけですが、さすがにあのアホな妹ではその気にならなかったというのかとか考えるわけですが、その話はややこしくなるから、やめときます。しかし、ほんとに、なぜそれを考えなかったのかねー。自分の凍らせる力が女王として国民を幸福にするか不幸にするかとか長い間に、ちょっとも考えなかったというのは、王家の人間以前に人間として失格じゃなかろか。
…と、ひっかかることがいちいちあるのが困る映画なんだけど、とにかくそれは、おいといてですね。
職場放棄の家庭放棄の責任放棄をしたにせよ、とにかく彼女は孤独で氷の世界作って解放されて幸福なわけです。え、でも、この映画、幸福じゃないって言ってるの? そこもようわからんわけですが、だから見てる人の解釈もいろいろのようですが、さしあたり、あの歌歌ってる時点では幸福なことになってるようです。
でも、そこにアナが来る。そして、私や皆といっしょに暮してと姉を説得する。こんなのは、決して幸福じゃないと彼女は姉に言うわけです(よね?)。あなただってそのことはわかっているだろうと(ですよね?)。
さらに、それと、ごちゃまぜにして、あなたがいなくなって(国が凍って)皆困ってる、と妹は言うわけです。それを何とかしてくれなくちゃ、あなたならできるはず、と言うわけです。
うーん、このあたりのセリフも、たとえばスパイダーマンやらエヴァやらで、ヒーローが「自分に世界を救う力はないのに」と、うじうじするのに対し「あなたならできる!あなたでなくちゃ!」と誰かが説得し引導渡す筋書きと、うまく重ならせてしまっているし、「優れた能力を持つ者には、それで世界を救う責任がある」という問題とすりかえられてしまってるので、わかりにくいし、納得させられてしまいそうになるんですが、スパイダーマンやスーパーマンの場合は、世界の不幸や悪の跳梁は、彼ら自身の責任じゃないし原因でもないですよね。エルサの場合は、彼女が氷結を引き起こしたことになっていて、だから何とかしろという話になってしまうから、エルサの立場は非常に苦しくなる。
でもこれって、いやな説得のしかたですよねえ。私はここですでに、きいいっ!となる。
「これが、本当に、お姉さんの幸福なの?」
「お姉さんが残してきた世界がどうなってるか知ってるの?」
「何とかできるのは、お姉さんしかいないのよ?」
ぎゃあああああああああああああああああああああ。
たとえば、DV夫、だとまだわかりやすいけど、そんなに他人から見たら悪い人じゃないけど(その昔、私が子どものころの社会じゃ、DV夫だって別にそう悪い夫とはみなされてなかったからな)、妻にとっては我慢できない死ぬほどいやな夫から逃げ出して、一人でアパートで生活して就職して、幼い子どもと寝たきりの老親をおいて出て来ているとして、そこに連れ戻しに来た家族や親族の言い方そのものでしょう、これって。
もちろん男女が逆で、一見申し分ないけど、息が詰まるほどいやな妻から逃げ出した夫でもいいよ。
あなただって、こんなことしていて本当に楽しいの?
あなたが放り出してきた世界がどうなってるかわかってるの?
もうね、これがいやだから、私は世界を放り出さないんです。まあその話はさておくとして。
◇でもってエルサは、そのアナのことばに苦しむ表情を見せ、ぐらついて、氷の城もその後赤く汚れて美しくなくなるんだよね。
そんなエルサにも私はとてもいらだつ。あんたには、覚悟とか予測とかいうものがないんかい。国民や家族を思いやる優しさも、そういうものをふり捨てて自分の人生を選ぶ強さも、そのためにはどうしたらうまく行くかを考える賢さも、せめてひとつぐらいはないんかい。臆病で、激情にかられて何も考えないで飛び出して、それを指摘されたらよろよろもじもじする。鈍感とバカと弱気が重なって、その上に恥知らずと甘ったれが上塗りされる。見ててほんとに吐き気を催す。
ウーマンリブということばさえまだなかった大昔の、かの大古典、イプセンの「人形の家」の主人公ノラは、かわいい無邪気な奥様だったけど、夫と家庭を見限って(暴力夫なんかじゃないよ)家を出る時に、「子どもはどうするんだ?」と言われて「私も子どもなんだから、子どもに子どもは育てられない」ときっぱり言い切って、子どもも捨てて家を出る。何でもこの結末にあまりに批判がすごかったから、イプセンも一度、夫が子どもの寝顔を見せて「この子たちをおいていくのか?」と問い詰めて、ノラが「ああ、やはりそれはできない」と泣き崩れて家にとどまる、というバージョンのを作ったりもしたらしいけどね。
それでも、あの昔に、ノラが、イプセンが、それだけのことしたのに、このフェミニズム全盛の今になってエルサもディズニーも何をしてるんだよまったく。いや、イプセンの別バージョンじゃないけど、フェミニズムも行きすぎましたと反省し迷走してることを示してるんなら、そりゃそれでいい、それも時代の反映だろうさ。でも、少なくともこんな映画で女性の新しい生き方とかフェミニズムとかレスビアンとか、きいた風なことを言ってほしくはないよなあ。何をどうまちがっても。
もっとも私は結婚してないし、子どももいないから、上に述べたような「家庭から逃げた人を呼び戻しにくる人の言い分」の話は、あくまで空想にすぎません。私が完全に自分自身のこととして激怒し嫌悪し戦慄するのは、上にあげた妹の言い分の中の、正確には一部分です。
お姉さんはそれで、本当に幸せなの?
これですね。
◇また唐突すぎる展開をしますと、私は幸福な人たちが好きです。回りなんか何も見えずに電車の中でも大通りでも、べたっとくっついて抱き合ってキスしあったりしてる恋人同士なんか、もう一番好きです。自分たちのことしか関心がないから、こっちのことなんか気にしないし、かまって来ない。これほど安全で安心な存在はない。
逆に不幸な人は恐い。中でも一番恐いのは、自分が不幸と認めたくなくて、自分が幸福ということを証明しようと必死になっている人たちです。
そういう人たちは、世間で幸福と言われている基準に自分がかなっているかを必死でチェックし、その基準にあてはまらない幸福が存在することを決して許さない。
私は別に結婚をしたくなかったわけでもないし、子どもがほしくなかったわけでもない。ただ、それも話せば長くなるけれど、自分が好きな男と好きなかたちで恋をして家庭を持つことは、かなり難しいだろうなと思っていたし、まあこれでも一人であれこれ考えて、いろいろ選択して、結局一人で生きることになりました。
自分なりにちゃんと努力もしたつもりだし、失敗もしたつもりだから悔いはない。その結果、手元に残った状況におおむね満足しています。
今の生活や人生を他人と比べたこともない。私よりいろんな点で豊かで恵まれている人は、その分努力をしたのだろうし、その分何かを失ったのだろうと思っています。私は怠けたし、捨てなかったし、その結果こうなっているので、そうやって怠けた時間も、捨てなかったものも私に何かを与えてくれているのだから、失敗とも無駄とも思えない。
これまでの人生をふり返って、私はそんなに不幸だったことはありません。どん底の、最低の気分の時でさえ、どう考えてもこれしかなかったなと、どこかでいつも納得していました。
◇しかし、そんな私でも、若い時は特に、一番苦しかったのは「あなたは無理をしている」「それは本当のあなたじゃない」「不自然な生き方」「それで幸福なはずはない」と指摘されることでした。
もっとも、幸か不幸か、直接そんな風に言われたことはあまりというかほとんどなく、むしろ週刊誌やテレビや本や新聞や授業での教師の話や映画や小説や講演や、そういう場で一般的な話として、私の生き方は「不自然で無理をしていて、幸福であるはずがない」と言われつづけている、という実感がありました。しかし、それだって、朝から晩まで度重なればやっぱり、かなりストレスです。
それは主として二つの点についてだったと思います。一つは「女なのに、強くなって、男を守りたいという気持ちはあるはずがない」ということ。もう一つは「人間なのに、人といるより一人の方が楽しいとか幸福とか、そんなことはあるはずがない」ということ。せんじつめれば、いつもこの二つが私の存在を「不自然、異常、あり得ない、無理をしている」と否定しました。そしてそれは、「何かトラウマがあり弱みがあり、隠している部分があるだろう」ということにもつながって行きかねませんでした。
私は素直でまじめな人間でもあるので(笑)、そう言われたら一応自分で自分の内面を、できる限りチェックしました。そして、いくらくり返し考えてみても、私は無理をしてはいないし、隠したりゆがんだりしなければならない過去や秘密はないし、やっぱり強くなりたいし、守られるよりは守りたいし、人といる以上に一人でいると楽しかったのです。
◇私は次第に何となく、考えるより感じはじめたのは、孤独で自由で好きなことをしている人間を、不自然だとか異常だとか淋しいでしょうとか不幸だろうとか攻撃してくる人間は、結局、家族がいようと仲間がいようと、自分自身が淋しくて不幸で孤独で不自然で異常な生き方をしているのだなということでした。
だったらとにかく、そういう人間を遠ざけて私の孤独と幸福を守るためには、まずはとにかく、その人たちを皆いやというほど幸福にしておいてやるしかないのだというのが、私の得た結論でした。私の人生に口出しさせないでおくためには、うるさく寄って来させないためには、私のことなど忘れ果てるほど、その人たちを幸福に酔わせ口にうまいものを押しこんで満腹にさせておくしかないと、私は判断したのです。
だから私は自分のいる場では必要とあらばリーダーになり道化になりサービスしまくり、そこを誰にとっても幸福で安全な場所にするように全力をつくして生きて来ました。そうしておいて、やっと人は私を放っておいてくれると知っていたからです。
今だって世界を平和にしようとするのも、格差をなくし貧しい人をなくそうとするのも、私は自分の孤独を守るためにやっているのだと思います。幸福な人間は決して他人のじゃまはしません。他者の幸福こそは、私の幸福を守るための最大にして最高の防壁です。
まあしかし当然そこには、たかが一人の人間のすることの限界というのはあるわけで、私は自分の孤独と自由がおびやかされ攻撃される危険は常に感じています。「あなた、それで幸福なの? 満足しているの?」という問いかけは多分一番ありふれた攻撃でしょう。
エルサは若くて経験もないのですから、そういう問いかけをされたなら、氷の城自体が彼女の中で変質せざるを得ない。私にもそういうことはよくありました。
まだまだ続きますが、一応このへんで。