映画「アナと雪の女王」感想集映画「アナと雪の女王」感想(おまけの8)

◇あの、もはや映画の感想でも何でもなくて、ただ、この映画をさかなに自分のあれこれを語る場になってしまっているかもしれませんから、ひらにご容赦を。

大学時代、私のいた学部の学生自治会は、いろいろあって崩壊していた。それを皆で話し合ってクラス討論をし、学生大会を成立させて自治会を再建した。まあその数年後に学園紛争が起こって、私たちと意見の違う人たちが執行部になって、バリケード闘争に入るのだが、そのへんのことは、「板坂耀子研究室」の「じゅうばこコーナー」の中にある「従順すぎる妹」という小説でもごらんになっていて下さい(笑)。
とにかく、そこそこ苦労をして、そうやって自治会を再建した夜、私は幸福で満足していた。だから、バス停二つほど大学から離れたアパートまで、夜中にひとりで歩いて帰って、大きな道路でひっきりなしに車が通ってやかましくて、誰にも聞こえるわけではないのをいいことに、映画「マイ・フェア・レディ」の主題歌の「踊り明かそう」をずっと声を限りに歌いながら帰った。飲んではいなかったのだけど、まるで酔っ払いのおじさんだ。

あの歌は日本語訳では、夜明けまで踊りながら語り明かそう、あなたの腕に抱かれて夢を見たい、とかになっている。でも、あの夜、歓喜と達成感の中で私はあの歌が自然に口をついて出て、一番その時の気分にふさわしい歌だった。しかも私はそのときまったく、誰かに抱かれたいとも抱きたいとも思ってはいなかった(笑)。そして何となく直感したのは、きっとあの歌のもとの英語では、誰かに抱かれたい愛されたいという要素はなくて、ただ夢中の爆発するような喜びがあるだけにちがいないということだった。多分そうじゃなかったろうか。

まあそれはいい。そのことを私は親友に語った。その少し後で彼女は卒業論文が書き上げられず留年した。まあ翌年はちゃんと卒業して就職もしたのだが、その留年のとき、卒業論文がもう間に合わないとわかってあきらめた夜に、彼女は私に「いやー、もうそう決めたらかえって、せいせいして、『踊り明かそう』を歌って帰ったよ。あんたの気持ちがよくわかった。あの歌は、あんたの言う通りだった」と言った。
私は、それもいろいろあって、彼女が留年したことに相当がっくりしていた。自分に何かできなかったかという思いもあった。そして彼女も私の気持ちはわかっているから、めそめそしないで元気よくそういう態度をとったのだし、何よりそうして自分のことを励ましているのだということもわかっていた。つまり、どんな意味でも彼女のしたこと言ったことに私は文句をつけられなかったし、事実文句はつけなかった。

でも今、「アナと雪の女王」のエルサと「ありのままに」の歌のことを考えて、わりきれない思いでむしゃくしゃしていると、その時のことを思い出す。
私の話を聞いていた彼女が、その時とっさに歌う歌としてそれを思い出したのはわかるし、留年の決断と再スタートの決意として、ふさわしい歌と言えばそうかもしれない。
でも、やはりそこで、その歌を歌っちゃいかんのではないかという思いが今も消えない。私が歓喜の中で歌った歌をパクられたから腹が立つというのではない。いくら何でもそこまでケチな根性の私じゃない(笑)。
ただやっぱりそこでは、もっとちがう歌があるはずと言う気がする。じゃあ何かというと、その時も今も、なかなか思いつかないのだが、絶望や苦さの中で、まじりけのない喜びの歌を歌うのは、自分の行く道さえも、ごまかし見間違えることにつながる気がしてしょうがない。

ゴーリキー「どん底」の、牢屋は暗くて鬼が窓からのぞくとかいう、あの歌とか、「レ・ミゼラブル」の映画の最初で囚人たちが歌う「下を向け、上を見るな」という、あれとか。黒人奴隷の「オールド・ブラック・ジョー」とか。ああ、やっぱ「レ・ミゼラブル」の中でマリウスに報われない片思いをするエポニーヌが歌う歌とか。切なすぎるもんなあ、もうあれは。
でも、自らの苦悩や絶望と向き合って、しぼり出す歌は、逆に生きる力を生む。ジャベールみたいに死ぬ力を生む場合もあるけどな。それだっていい。
どういうか、そういうところで、何かちがう歌を歌ってしまうと、歌う本人も聞く方も、話がややこしくなってしまうと思うのだ。私は世の中も恋愛も人間も、ややこしくしないように努力することが大切なことだと、心のどこかでいつも考えている。

◇エルサが雪山で歌うあの歌は、最初は絶望的で暗い。しかし、やがて彼女は開き直って自分の人生を生きようとし、世の中と皆に対して「放っておいて、好きにする」と宣言する。
それを、たとえば夫の暴力にあえいでいた女性が、へとへとになって逃げ出して、混乱し絶望する中、「いいのだ私はもう、好きなように生きるのだ」と決意する過程と重ね合わせると、うーん、やっぱりそれはそれでいいんじゃないかと認めざるをえない気分になる。実際、そういう風に重ね合わせて感動する人は少なくないだろう。

でもねえ、私はやはり、あそこで、あの歌を、エルサのような人には歌ってほしくない。
彼女は結局その後で、「戻って、いっしょにいて」と説得する妹を厳しく拒絶できず、迷いや苦悩の表情を見せる。追手の軍隊には力で負ける。彼女の決意は、意志にも実力にも裏打ちされていない。あの歌がみごとであればあるほどに、その歌を裏切って汚すのは彼女自身であることに、どうして誰も怒らないの? 私は怒らずにいられない。
彼女が妹の説得に悲しみの表情を見せ、ハンス(ごとき)の説得で戦いの手をにぶらせるのは、どっかのリケジョと同様に、そのはかなさともろさとがファンをふやすのかもしれないが、私に言わせりゃ、もう何をどう考えても、その程度の意志や力しか持てない人が、氷で城作って国中を凍らせるほどの魔力を持てると思えんのですよ。ミルクセーキも作れたらいい方だって思いますとも、いや実際。

◇彼女は結局、親や妹もふくめて自分をこんなにした周囲に、怒りも憎しみも持ててないわけでしょ。そこがまたファンを増やすんでしょうが、怒りや憎しみを持つのも能力で、そういうものがなかったら、あんな魔力のパワーはどこから生まれると言うんです。前に書いたように、人々や自分の魔力や氷や雪を愛している風も、特に見えないんだから。
そんなに怒るのも憎むのもいやだったら、あんな歌歌わないで、大人しくしてればいいじゃないですか。そんな恐ろしいことできない、普通の女の子だって言い張るんなら、それでもなぜかものすごい魔力が身についてしまってるんですって言い張るんなら、せめてその能力を持つ自分を自分でもっと愛するといい。その結果、世界と対立して世界を滅ぼしてしまうにしても、敗北し閉じ込められて死ぬまで孤独でいるにしても。あるいはまた、世の中の役に立つかどうかして、その魔力を持ったまま自分が生きられる生き方を、必死で模索しつづけるとか。

まったくもう、私が彼女にがまんできない一つは、ハンスが彼女を殺そうと切りかかったとき、あの人どうしてたか知ってます奥さま? 吹雪の向こうにちらっとしか見えなかったけど、彼女、背を向けてうずくまってたんですよ、口ばっかりの根性なしが(もはや、あんた実在の誰かのことを思って書いてるだろうと言われそうですが、そんな人いません、ええ断じて)。
あの時、彼女の両手がどんな状態だったか知りませんが、もう鉄の籠手か何かははずれてたはず、最後まで立って戦わんかい。もう生きてるのがいやになったという、これまた涙もろいバカなファンを増やしそうな言い訳はちゃんと準備されてるでしょうが、あんな歌歌った人間に、それが許されると思うとるんかい、無責任もいいかげんにせーや。

と、ゆーよーな怒りはさておき、彼女の魔力と、それの解放をあれだけ歌い上げるなら、この映画のメインのテーマは姉妹愛でも真実の愛でもなく、この魔力と周囲との妥協や融和をどうかちとるかということでなけりゃならんでしょ。難しいのはわかるけど、そういう話になってるんだから、しかたがない。その解決法をわかりやすく感動的な見せ場にしないと、収拾がつかない。
かたちというか、結果としては、そういうことになってるんですが、何せそれを示すのが「愛だわ」という悟りと、氷が一気に溶けて、あとはスケートリンク、と言うだけじゃ、あまりにも手抜きで、実感として伝わりにくい。
ネットで見てると、筋や構成はものたりないけど、子ども向きならこれでいいかも、なんて言う意見もちらほらありますが、ふざけたことを言いなさんな。子どもにこそ上質の、最高の、ゆるぎない哲学を、わかりやすく的確に伝えなくてはならないんです。この乱雑な、ふまじめな話は、大人以上に子どもにとって害毒でしかありません。

うう、止まらないんで、いったん切ります。

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カツジ猫