映画「アナと雪の女王」感想集映画「アナと雪の女王」感想(おまけの15)

◇でもって、アナのことですが、これは別に見直さないでも、最初の印象と変わらなかったですね。
初めの感想でも書いたように、私は彼女がひとめぼれするのは別に全然悪いとは思ってなくて、「それはあかん」という妙に常識的な理由で彼女の恋が否定されるのは、最初は冗談かと思ってました。どうやらまじめにこの映画、それを主張してるらしいと思ったときにはずっこけました。
トナカイ男クリストフとの健全路線もいいけどねー、トロール村での変な強制結婚イベントは、昨今日本の地方都市で話題になってる、女性をだまして嫁にしてしまうとかいう事件と重なって笑えなかったよいやほんと。
そしてしかも、流れから言ったら、あれは肯定的に描かれてるんでしょ。どこまで男らしさが保存されてる地方文化を美化するんだか。ひとめぼれ王子路線をそんなものですげかえるってのも、安易すぎて情けない。制作者の頭の中には、ほんとに人間や男女の生き方についての手札がないんだなー。悲しくなるぐらいに。

だからアナは、この映画ではどっちかというと気の毒な扱われ方してると思ったから、あんまり考えもしなかったんだけど、あらためて考えようとしてみると、私はそもそもこの人を、まともな登場人物として見ようにも見られないって気分だったんだなーとわかった。

◇ちなみに私は、男女を問わず、エルサみたいな内向的なしっかり者と、アナみたいな猪突猛進の行動派は、どっちもほんとに好きなんですよ。自分の小説にもよくそのタイプがセットで登場するし、私自身の中にもその両方が存在している。そして、ほんとに甲乙つけがたく、どっちも好きなんだけど、どっちかというと私はアナのタイプが好きだし、自分の中のそういう要素を愛して大事にしています。

そう、だからこそ、本来だったらこういう二人の関係は私にはツボだし、めちゃくちゃはまりやすいはずなんです。なのに、まったくノレなかった。エルサを救いに行くアナも、アナを拒絶するエルサも、泣きたいぐらい感情移入できるはずなのに、見ててずっと「ああ、そうなのお…ここはきっと、こういう風に感じるべきなのねえ…」と、ずうっと感じさせられつづけた、あの欲求不満!
昔、まだ「劇団四季」がダンスが今ほど上手じゃなかったころ、「コーラス・ライン」で主役の彼女が「踊りたいの~♪」と言って数分踊りまくるシーンで、「ああ、ここは、このダンスはものすごく上手ということになってる場面なんだなー」と頭で言い聞かせて見た、あの感覚にもちょっと似てるか。まあ、「コーラス・ライン」は話がしっかりしてるからね、それでもちゃんと感動できたが。

◇何が心を打ちにくいったって、まず第一に、これはトロールと両親のせいだけど、アナはエルサに傷つけられたって記憶を抜かれたままなわけですよね? 最後までそのまんまですよね?
私は最近の(って昔のも)心理学療法なんか知りませんが、PTSDだかの治療で、こうやっていやな記憶や不幸な記憶を抹殺し削除して生きていくのがふつうなんですか、治療として?
言ってみればこれはロボトミー手術で、こんな大切な記憶が欠落しているアナがエルサとどういう関係を結べばいいっていうんでしょう。
エルサっちゅう人がまた何を考えてるのかさっぱりわからん人だから、もう推測も何もしようがないのだけど、あえて普通に考えるなら、その点の記憶が皆無の妹が、昔のようになろうとか仲よくなろうとかせまって来たって、そりゃ困るよね。どう対応していいかわからんでしょう。
しかしエルサは、どう対応していいか困ってる風も別にないんで、もうその時点でこの二人、私には理解不能な宇宙人で感情移入なんかできそうにない。

おまえができないのは、おまえの勝手で放っておけとか言われそうですが、こっちの都合も言わせてもらうと、こんな映画がそれなりにヒットして、こんな関係に感情移入して感動できる人が増えたら、日常生活でも社会生活でもそういう感覚で生きていいって常識が一般的になりそうで、これって私は恐いです。
最近読んだ「ガザに盲いて」って、めちゃくちゃ昔の外国の話だけど、友人が自分に大切なことをかくしたまま親切にふるまったのに、深くとことん傷ついて自殺する男性が描かれていました。最近の小説でも貴志裕介の「新世界より」なんかでは友人についての失われた(失わされた)記憶がよみがえる瞬間が、痛切に強烈に描かれます。古今東西を問わず「都合の悪い記憶は封印し、なかったことにしてふるまう」ことの醜さ、危険さ、残酷さはあらゆる文学で描かれたし、それが理解できる世の中で私たちは生きていたはずです。

それが、この映画では問題にもされないまま、つるっとスルーされてしまう。
私は、自分でも他人でも傷つけたり傷つけられたり裏切ったり裏切られたりした事実を伏せたままで、新しい関係を作り上げていくことが出来るとは思いません。もしもそれを隠したままで、そういう関係を作るなら、それ相応の決意と覚悟が必要です。
だいたい、トロールが「楽しい思い出だけは残して」とアナの記憶を改ざんするのもどうかと思いますが、その偽りの記憶の上に作られるアナとエルサの関係って、いったいどういうものなんでしょうか。アナはその方が幸せだからとエルサが判断して、自分が彼女を傷つけたことを胸にしまっておくってのも相当つらいことのように思うのですが、そのわりに彼女はのほほんとしてますからねえ。もう、この二人の関係って私には理解不能としか言いようがないです。

◇私はたくさんの人を傷つけて来ました。わかってやったこともあれば、気づかないでやったこともある。相手がそれを許してくれても忘れてくれても気がつかなくても、私は忘れないし、もしもそのことに気づかないまま、相手が私を信じて、そんなことをしてないという前提に立って私との関係を構築しようとしたら、私はそのことを相手に告げます。
話せば相手を傷つけると思ったら、話さないまま遠ざかる。遠ざかれない場合には、それを相手が知ったとき、自分がどんな目にあってもしかたがないと覚悟してつきあいます。でも基本的にはそんなことはしない。危険と負担があまりにも大きすぎます。

裏切ったり傷つけたりした相手が、それに気づかず、それを忘れて近づいて来たら、それを知らせて、思い出させた上で、許すかどうかは相手にまかせるしかないと私は思っています。相手が怒って私に危害を加えるのが恐ければ話さないこともあるでしょうが、それは結局相手を信じておらず、相手より自分の方が大事と判断したということです。それが悪いとは言いませんが、相手より自分を優先しているという自覚は必要でしょう。

逆に相手がどんなに苦しむかがわかっているから話せないということもあるでしょう。でも、それは結局のところ相手をだまし続けることであり、そんな関係を続けて行くことはとても相手に失礼だと私は思います。私ならそんな相手は絶対に許しません。許していないことに永遠に気づかせないほど許しません(笑)。そんな人間に、真実を知ったときに私がどれほど傷つくかなんて、身の程知らずな心配はしてほしくないっちゅうのよ。

エルサはアナに「あっちに行って、近づかないで、あなたのためよ」とくり返しますが、その理由は言いません。アナがいかにバカでも、こんな言い方で説得されるわけはないし、エルサが同じくらいバカでなかったら、そんなことはわかるはずです。それでもこんな言い方しかしないのは、結局近づいてほしいんだろうとしか私には思えないので、そういう人間が私はすでに嫌いなの(笑)。「私はあんなに近づかないでって言ったのに」と、あとで言う気だなおぬしは、としか思えない。うーん、だから私は恋ができなくて結婚できなかったのね。こういう見え透いたかけひきが許せないという時点で、すでにもう。

冗談はさておき(笑)、アナは自分の記憶が改ざんされていることに気づいていませんから(しかし考えて見るとそれってすごいホラーだよなあ)当然「近づかないで」という姉に向かって「大丈夫よ、私は傷つかない」とくり返します。これもねえ、傷ついた記憶が欠落してるあなたに、そんなこと言われてもねえと、それはエルサでなくっても二の足踏むのは無理ありません。

ちなみに、私がこの映画くり返し見てむしゃくしゃするのも、たしかに、あちこちで痛切に覚えのある心情が伝わるからで、制作者はそういうところを見事につぎはぎ細工してるんだなあと思うからですが、この「大丈夫、あたしは平気だからあなたの本心を見せて、正体を明かして!」とせまる人間ってのが、昔からもう私は唾棄の対象と言いたいぐらい嫌いで、おまえは自分より危険だったり偉大だったり異常だったりする相手はこの世にいないと思ってるのか、何を根拠のその自信だ、私がおまえの目の前で大蛇になったりドラゴンになったり悪魔になったり竜巻になったり疫病になったりした時に責任とってくれるのかと、2ちゃんねる風に言うなら小一時間問い詰めたくなるのだよね。
私の本性知りたければ、本心が見たければ、そんなごたくを並べてないで、私の前で自分が限りなく強く優しく賢くなって見せろ。私が安心して、この人ならば私が本性をあらわにしても壊れないし傷つかないし平気で生きているだろうと思えるような、大海原か大平原かたぬきの金玉(江戸時代の絵本では、これって、ラグのように広がって地上にしきつめられてることが多いのよ)かいっそ宇宙ぐらいになってみせろ。そうしたら頼まれなくても、いつでもドラゴンになるし魔女にもなって見せてやるから、とっとと自分が偉大になれ、神になれ、それを私にちゃんと見せて納得させろ。話はすべてそれからだ。そう言いたいのよね、いつだって。

◇エルサを理解してるわけでもないし好きでもないけど、彼女の気持ちになって言えば、アナなんて昔自分に傷つけられて、しかもそのこと忘れてて、忘れてることさえ知らないガキですよ。どうして信用できるっていうの。
だいたい、言ってることも支離滅裂でしょうがアナは。大丈夫とか私を守らないでもいいとか言うてる口の下から、凍った国を何とかしてだもんね。何しに山に来たんだか。
大丈夫とか言うんなら、「エルサの凍らせる力をいくら発揮しても私は大丈夫だから安心して、あなたがいくら世界を凍らせても私は気にしないから」じゃないんですか、普通、言うことのすじとしちゃ。

昔のようにいっしょに楽しく、と言っても、その「昔」はトロールに作られた幻想でしょうが。そしてその幻想は、エルサの築いた氷の世界なの、氷が溶けた春の国なの。彼女がエルサに何を要求しているのかさえ、私にはわからない。エルサを救いたいのか、国民を救いたいのか、それも私にはわからない。冬を終わらせたいからエルサに助けを求めに行ったのか、エルサといっしょに二人で楽しく生きられる氷の世界を見つけに行ったのか、多分前者なんでしょうが、それだとエルサの生き方を肯定するんじゃなくて否定することになるんじゃないの? いったいアナはエルサに何を求めているんでしょう? エルサのことを考えているような言い方していますが、結局は自分に都合のいい生き方を求めているだけのような気がします。
まあそれは、次の問題にも関わるので、ここではいったんおいといて。

◇記憶の欠落の話ですけど、私が何だか無気味なのは、この「傷つけた相手がそのこと忘れていてくれたら、もうそれでいい」って発想は、すでに相当世の中に広まってるんじゃないかってことです。それとも昔からけっこう、あったんですかね。
私がそのことを非常にリアルに感じたのは、14年ほど前に自分のサイト作って、いろんな人と交流してたとき、もう信じられないほど失礼なことして私と絶縁状態になった人が、一年か二年したら何ごともなかったように、しらーっとまた掲示板に書き込みをしてくることでした。

まあむろん世の中には、ほとぼりがさめるということばがありますし、そういうこともあっていいですが、しかし一方ではどう考えても、そういう問題ではないだろうという水準のこともあって、あれだけ私に罵詈雑言に近いことばを浴びせておいて、失礼をわびるでもなく事情を説明するでもなくそれとなく反省の意を示すでもなく、本当に、もう何事もなかったように、「夕焼けがきれいですね」という感じでひょいとまた顔を出す人というのが何人もいて、私はまったくどういう感覚なのか理解できませんでした。
中には、ごていねいに別の名前やにせの肩書でやって来る人もいて、これはまあ、ある程度の自覚はあるのでしょうが、それにしても、別人になりすませばそれでまた前と同じようにつきあえると思ってしまう感覚というのが私にはもう、どう考えていいのか、想像さえもできませんでした。

自分が傷つけた記憶を消されているアナと、さほどの葛藤もなく会話をし仲よくしているエルサを見ると、その人たちのことを思い出します。希望的観測として、相手の中で自分との関わりの不愉快な部分はすべて消え、楽しい思い出しか残っていないという可能性がないのか、もしそうだったらそれでおたがいラッキーでハッピーではないかと何の無理もなく思いこめる人というのが。
私はこれでも優しくて我慢強くて温厚で人がいい人間というので世間では通っていて(本当ですよ)、実際たいがいのことは気にならないし我慢するし忘れます。しかしいちいちめんどうだから気にしていないだけで、ちゃんと記憶のファイルにはどっかにとどまっていて、ある時点までそれがいっぱいになると、一気に見限って二度と修復しません。と言っても実際には普通につきあい、攻撃もしませんから、私に見限られても実害は多分まったくありません。

でも、意識の中ではもうその人は私にとって存在はしていません。少なくとも前と同じようなかたちでは。形状記憶合金ではあるまいし、それが時間がたてば元に戻って、過去は消えると思う人って私には宇宙人やゴキブリよりも理解不能な異生物です。
まあ私は極端かもしれませんが、普通の人でも何十年かたってというならいざ知らず、半年や一年で忘れたように現れて昔と同じになれると思うのは、いかに何でもすごすぎませんか。それとも、よっぽど、ものすごく自分にそれだけの魅力があるという自信があったりするのでしょうか。私も相当の自信家ですが、それほどにすごい魅力が自分にあろうとは、いかに何でも思ったことはないですけどね。

エルサとアナが記憶が欠落したままで、うふふと仲よく笑ってる戴冠式の情景は私にとって、くり返しますがホラーでしかありませんでした。そして、ああいう関係が姉妹愛だのレスビアンだの女性同士の絆だの、そもそも人間関係として成り立ちうると思う人が増えるとしたら、それはもう私にとって、ただもう、何とも、ひどい世の中でしかありません。この映画の大ヒットが、そういう意識を人々の中に刷り込んでいくのだとしたら、これはもう笑い事ではないですね。

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