映画「アナと雪の女王」感想集映画「アナと雪の女王」感想(おまけの11)
◇エルサは、というべきか、あの映画を作った人たちは、というべきか、まあ、わかりやすいからエルサは、と言っとくけど、彼女のすべてを凍らせる能力というのは、マイダス王のすべてを黄金に変える力と似て、やっかいなこともあるにせよ、やはり普通の人には持てない特殊能力にはちがいない。
それは、早く走れるとか、ダンスがうまいとか、射撃が得意とか、語学が達者とか、まあとにかく、あらゆる点で人より飛びぬけて何かが出来る能力とも共通するところがあるだろう。
最近の親は、子どもをタレントにしようと涙ぐましい努力をする人も多いそうで、それはそれで子どもは大変かもしれないが、逆に絵を書いたり音楽を演奏したり小説を書いたり文学を読んだりすることは、勉強のじゃまになるとか、生活の役にはたたないと言われて禁じられたり、周囲に笑われたり魔女扱いされたりして、危険だから親にも友人にも隠す他ないという場合もある。私が子どものころの日本はけっこうそうだったような気がする。
私自身、別に禁じられたりいじめられたりしたわけではないのに、小説や空想は、まるで自慰行為のように人に隠れて楽しんでいた。学校の作文で公に書く文章とはまったくちがった二重生活を、こと文筆活動においては私はずっと守っていた。
今でも私は、小説を書くことは、危険で恥ずかしいという思いがずっとある。もっと言うなら、危険で恥ずかしく、世の中に受け入れられないものでなければ、書く価値はないという思いもある。評価されるために書く、賞賛されるために書くというのは、私にとっては最終目的ではない。では最終目的は何かというと、よくわからない。このへんを考えつめるのを、ずっと前に私はやめた。あるいは、もう長いこと、それを休んでいる。
◇おそらくは、私にとって創作活動とは、世間や周囲、家族や友人、愛する人も含めて他者のすべてと、どうしても一致できない自分のある面を、こっそりと解放し、保存して、ひそかに飼っておくための手段なのだと思う。私はよき家庭人、よき市民、よき社会人として、ちゃんと生きていたいし、尊敬もされたいし愛されたいし、そのための努力も惜しまないのだが、そうすることによって、たくさんのものを犠牲にしていると感じている。私はそれを他人に理解してもらおうとか、受け入れてもらおうとかは、恐ろしいほど考えていない(笑)。
なぜなら私は自分と同じ人間など、いるわけがないとずっと思っているし、いたからと言って幸せになれるとも感じていないからで、むしろ私が好きなのは、自分とまったくちがう考え方や感じ方をする人間で、そういう異質なものの中にいるときほど、安心するし、心地いい。
家庭も社会も多分世界も、私の好みとはちがった風に運営されているといつも感じているが、それはそんなに不愉快ではない。私の好きなように運営されているとかえって、私と好みの合わない人ががまんしているんだろうなと落ち着かなくなる。
子どものころや若いころ、八方美人とか偽善者とか裏切り者とかよく言われた。特に悪口というのではなく、恐いとか淋しいとかいうニュアンスでよく言われた。とても気が合うと思っていたのにとか、すごく優しいと思っていたのにとか、自分とそっくりと思っていたのにとか。で、私はいつもそんなとき、そんな都合のいい人間が世の中にいると思うこと自体無理があるんじゃないのとか言って、ますます相手を落ちこませていた。
自分の好きなことは一人のときにするから、他人といっしょにいるときは、その人の好きなことをしていればよかったのである。それでおまえは幸福かと言われたら十分私は幸福だった。じっくり考えたこともなかったが、何となく私は、相手も一人になったら自分の好きなことをするんだろうなと思っていた。
◇まあ、話をある程度戻して、手っ取り早く言うならである。私は自分の好きなことをすることで、社会的な地位を確保したり、人や周囲に好かれようとは夢にも思っていなかった。好きなことをするのは(ひょっとしたら、正しいことをするのもだ)、だいたいにおいて、ろくな結果は招かず、人に嫌われ皆を不幸にし、世の中を破壊し自分を孤立させることにつながって、それでもやめられないのだけが、好きなことであり、本当の自分であり、正しいことだと思っていた♪ うん、認めます。部分的にはまちがってますね(笑)。部分的には。
だからねえ、今の世の中、絶対に私が変だと思うのは、自分を解放し、本当の自分を見せたら幸福になるとか、自分の好きなことをしたら、それは他人を喜ばして、世の中をよくするとかが、もう自明の理として言われてるようなとこなんですよ。
そりゃ、そういう場合もあるでしょう。そして、多数派が平気で自分を解放してるという意識さえないままに、自分の好みがイコール人類の本質とか国民の本質とか勝手に思いこんでて、自分と好みや趣味や意見のちがう者は人間じゃない国民じゃないなどとほざくような世の中じゃ、そりゃ、少数派が「好きなのはこれ」「本当の自分はこれ」と宣言する必要はあるでしょう。
でも、そういう場合も含めて、そうすることは得てして幸福よりは不幸につながるってことは知っておいて損はないです。だからこそ、よっぽどうまくやらないと。
ましてや、自分の好きなこと、人とちがうことを言ったりしたりして、人に受け入れられようとか、好かれようとか、そうでなければ失敗だとか、私にはものすごく、何かがずれまくっているように思えてしかたがない。
政治家だって昨今じゃ、自分の好きなことするのが目標みたいになってますが、皆を幸福にしようと思ったら、自分の好きなことはやっちゃだめでしょ。
少なくとも私は社会生活、家庭生活を営むにあたって、好きなことは皆がまんして、周囲のために生きました。ほんとかよ、と言ってる人たちが多いでしょうが、たとえ人を攻撃し自分の欲求を通しても、それは世界や周囲の未来のために、その方がいいと思ったからです。そうやって、周囲を平和にし、皆を幸福にしておいて、じゃまが入らないようにして、自分の幸福や楽しみは、そうやってかせいだ時間中に、ささっと一人で追求しました。
まあ、昔の男なら、こんな時に愛人を抱きに行ったりするんでしょうね。そういうシステムはいやですが、その生き方の図式は私はよくわかるんですよ。
◇前にも書いたことですが、そういうことを考えるとき、エルサの「凍らせる力」は、どういうことになるのか、どういうものとして描かれているのかが、私はわからなくなるのです。
彼女の力はアナを傷つけることがなかったとしても、親はあんまり認めていそうにないですね。恐ろしいほど完璧に人間関係、社会生活というものが描かれてない映画なのでわかりませんが、見る限りでは、親や周囲に好かれる手段として、あの能力は役には立ってないようです。
アナを喜ばせるという点では、はっきりと、エルサの能力は有効です。しかし、あの事故によって、それはむしろ完璧に逆転し、封印する理由になってしまいます。アナ自身はそのことを忘れていて知らないから、凍らせる楽しみを共有しようとし続けるのですが、だからこそいっそうエルサは拒否するしかありません。
優れた能力を持つ者にとって、愛する相手に嫌われる以上に、愛する相手を傷つけることは恐怖ですから、それは無理のないことでしょう。
閉じこもっていた間に、エルサは、あの能力を使ってはいないし、楽しんでもいなかったようです。しかし、彼女の気持ちに反して、その能力はどんどん増大します。それはむしろ呪いだしホラーですね。病気だと言ってもいい。
しかし彼女が、それを嫌悪し憎悪し恐怖しているという描写はない。だから、あの戴冠式のときに彼女がおびえているのは、自分のその呪われた力そのものなのか、それが周囲にばれてしまうことなのか、はっきりしません。
まあそれも、とても現実的かもしれないですよね。自分自身がいやなのか、それは別にいやじゃないけど、人に知られるのがいやなのか。でも、あの場合、人に知られたらどんな困ったことになるのか、彼女が女王にならなくてはならない事情はどの程度切実なのか、そのへんの説明がないから、ものすごく、どこが問題なのかが、浮かび上がらない。
王宮を飛び出して逃亡したとき、彼女はこの能力が自分と切り離せないこと、自分の一部であることを自覚し、いわばこの能力とともに生きて行こうとする選択をし、決意を固めます。それがあの氷の王宮で、たしかに美しい場面です。しかし、彼女をそこへ追いやったものが、しっかり描かれていないから、彼女のその決意の正しさが漠然としか伝わって来ない。
◇また自分のことに重ねてしまいますと、私は「凍らせる能力」を立身出世や人気取りの道具に使おうとするのは危険だと思っています。しかし、周囲と敵対するための手段として武器として使うのも同じくらいまた危険だと感じる。自分でもまだ限界もコントロールも知らない能力を、そんな風に使うのは、その能力にも、それを与えてくれた存在にも、それを持つものとして選ばれている自分にも、あまりにも失礼です。
人と自分との差、自分の個性は、そんなに粗末に安易に行き当たりばったりに、他者との関係に利用するものではありません。