映画「アナと雪の女王」感想集映画「アナと雪の女王」感想(おまけの17)
◇エルサのためにも私のためにも、魔女だと因縁つけられてかわいがってた黒猫か何かといっしょに焼き殺された昔の多くの女性のためにも、だから、私がどうしてもはっきりさせておきたいことは、「私の孤独で自由な暮らしが、親族やクラスや村や社会や国や世界の不幸と、どのくらい関係があるか、どのくらい責任があるか」ということです。
魔女がいちゃもんつけられるのは、村の暮らしが不幸だからとか疫病がはやったとか子どもが死んだとか麦が枯れたとか夏が寒かったとか、そんなの自分らの甲斐性のなさの結果でしかないじゃろがということを、皆、「あいつの呪いだ」と責任おっかぶせられるとこにありますよね。
今だって、いつだって、男女を問わず人とちがった暮らしをし、人とちがった意見を持ってると、何かがうまく行かない原因は結局そのせいだってことにされやすい。人は、鵜の目鷹の目で、そうやって責任転嫁する相手を探してるとしか私には思えないです。
私は格差社会は大嫌いだし、法人税の減税して大企業に金をしこたまためこませれば、貧乏人もそのおこぼれで少しは幸せになるという今の政府や、もはや社会全体のものになりかけてるらしい発想は根本的にいろいろと間違ってると思ってます。それは、富にしても幸福にしても、一人の人間が満喫できるには限りがあり、寄せ集めれば寄せ集めるだけ効率が悪くなるという実感があるからです。少数にそれが集まると必然的に無駄を生じる。一方で富や幸福は、まだ今の人類の現状では決して豊かにあり余っているものではないから、せいぜいが、わけあって何とか行き届く程度のものであり、それがどこかに集中すればするほど、大部分の状況はひどいものになるという、これも実感があるからです。
貧富の差があっていいとか、格差を認めるという人は、貧しさや最低生活についての認識や見通しが甘いとしか思えません。どんなに最低の生活でも何とかやっていけるだろうという楽観がなかったら、貧富の差や格差があっていいとか到底言えないだろうと思う。
多分、格差があっていいと思う人たちの漠然と考えているのは、すごい金持ちがいて、自分たちもどんなに落ちぶれてもそこそこはやって行ける世界なのでしょう。いや待てよ、ちがうのかな? 格差社会とか何とか一口に言うけれど、そのあたり、それぞれがどういう世界を想像しているのかは、一度しっかり皆に聞いてみたい気もするのよね。
◇でも、格差社会や貧富の差が嫌いではあるのですが、その一方で私は自分の贅沢やかちとったもの、保持しているものに対して、「恵まれているのだからその分何かをよこせ」「おれたちの不幸の責任をとれ」「おまえがそうやって楽をしているから、こっちが苦しんでいるのだ、いいのか、それで」「一人で勝手に幸せになるな、そんなわがままが通ると思っているのか」「そんな贅沢を一人でしていて楽しいか」という感じで迫られること、何かを要求されること、貧しい者に奉仕して恵まれない者にわけ与えて自分の好きなものを犠牲にすることが、死ぬほど嫌いでもあります(笑)。
うん、だから、格差社会を肯定したがる人たちの中に、こういう感覚もあるのだとしたら、それはね、私はそういう感覚を抱いてきたってキャリアでは、多分筋金入りだよ、たいがいの人よりは(笑)。
どうせ敵を作るから作りついでに言ってしまうと、本当に苦しんでいる人は多分私にこんなことは言わないし、魔女を焼き殺しにも行かない。自分が私のようになれないのは、何かのまちがいで、私が今持っているものは自分が持てるはずのものだったと心のどこかで真剣に信じて疑わない人が、こういうことを言うし考えるんでしょう。
私が今持っているものを得るためには、何を捨てて、失ったかを、そういう人は見ないし考えない。
そして私がどんな犠牲を払おうと、私が自分の好きなことをすることは許さない。自分もいっしょに楽しめるものを作ることを要求する。はっ!そうよ、スケートリンクみたいなね。私はもはや、あの映画「お城作らないで、スケートリンク作っとけ」という映画だ、とまとめかけそうになってて困るんですが。
おっと、話を戻して冷静になります。
あー、でもその前にまたちらっと言うとねー、人間の質というか、いつの時代もどこの社会でも変わらない、一番ろくでもない人間ていうのはね、平等とか社会主義とかが流行ってるときには、「貧しい者にもっとよこせ」とか言って自分が他人から奪い取り、今みたいな格差社会になったらそのとたん「優れた者が優遇されるのは当然」とか言って、やっぱり他人から自分が奪い取るんだろうよね。もう見えすぎていやんなる。
◇えっと、まあ、それはさておき。
だから、あの映画で私がつまらんことになぜそうこだわるんだと言われるのはわかっていても、こだわってしまうのは「国が凍った責任は、どこまでエルサのせいなの?」ってことなのよね。
何度も言うように、あの凍らせる能力がエルサにとって、呪いか恵みかはわかりませんけど、彼女にとって、それが喜びを生む要素もあったのであれば、押し殺されていたものを解放した段階で、国が凍るというのはそれは彼女の世界になり美しくなるってことですよね。
実際にアナは雪山に行ったときに、「冬がこんなに美しかったなんて」と、きらめく樹氷の美しさに感動してる。そして私が最初から、ここ「も」よくわからんなあと思うのは、あの雪山が初めからああだったのか、エルサが冬をもたらしたのか、いったいエルサの魔力が異常にしたのは、あの国のどの範囲なのかが、多分わざとわかりにくくなっている。
エルサが幽閉されている間の「凍らせる力」の描き方は、むしろ疫病めいています。「あっち行ってアナ」あたりの描写も、たとえば結核とかハンセン病とかそういうものを連想させさえするような描き方です。この映画からそういうものを連想するのは、自然だし悪いことでもまちがってもいない。
でも、その性質をきちんと整理しないまま、「抑圧された自我」だの「押し殺した才能」だのと、ぐちゃぐちゃにつなげてしまうから、ものすごく話がねじまがって、おかしくなる。
乱暴な結論を言ってしまうと、この映画には、そういう病気や自我や才能の、いずれに対する愛もなければ感情移入もありません。だから、一貫しないし、つじつまが合わないし、勇気がない分無難なことだけしようとして、本当にそういうことに苦しむ人は誰も救えない物語になっている。
もしも、国が凍ったのが、エルサの呪いであり病的な力であり、抑圧された苦しみや怒りだったとするならば、アナにせよ誰にせよ、まずすることは、エルサのその苦しみや悲しみや怒りを理解し、それを溶かしてやることではないのですか?
もしまた、国が凍ったのは、エルサの才能であり美しいものを生み出す力なのだったら(って、すべてにおいて、こうやって複数の可能性を提示しなければならないのは、この映画がそれだけ、どっちともとれるずるい描写をするからですが)、これまたアナたちのすることは、エルサのその能力を認め、氷の国で自分たちが幸福に生きる方法を探すことではないのですか?
その両方の要素があるのなら、その逡巡を見せるべきではないですか?
その、どれもが、アナの行動にも発言にも見られない。
その前に、前にも書きましたが、エルサが凍らせた世界の雪や氷に、彼女のどんな精神も浮かび上がらない。敵と対峙する時も恐怖に我を忘れたときも、同じ形の氷だし、何より彼女の生み出した世界に、怒りや呪いも喜びも何の感情も感じられない。第一、どこまでがもともとの雪山かもわからない。それはないでしょう、いくら何でも。映像がきれいと言いますが、これほどに魂のこもらない、何も表現していない映像もあまり見たことがないですよ。もっとちゃっちい安手のアニメでさえ。
おっと、時間がないので、このへんで。