映画「アナと雪の女王」感想集映画「アナと雪の女王」感想-2

続けまーす。

気にくわんこと、その2。
私がこの映画見て、とっさに抱いた感想ってのが、前に言ったように、「くっだらないもんに作り替えやがってー」ですが、それに加えて「その1」のような理由で「バカにすんのもたいがいにしろや」と、さらにもう一つ、とっさに感じたのは「大きなお世話だよな」ってことでした。
ほとんど理由も何もなく、そのことばだけが浮かんだんですが、なぜそう思ったか説明すると、こうなります…。

ハンス王子ね(おっと、今さらながら、全面ネタばれです)。彼はバカだし、それに浮かれるアナもバカです。しかしなお、それでもあえて私は言うけど、いったいそれじゃいかんのかい?
エルサの「自分らしく生きる」っていう、あの表現も私は細かく言うと、なんか眉唾で、どっか間違ってる気がしてならんのですよ。人を傷つける偉大な力を押し殺すのではなく認めて、あのように解き放つという、あの描き方が。

わたしゃ何しろ、自分自身が主に女性としての自分の中のさまざまな危険で病的で異常な部分を、どう人にかくして育てようかと長いこと苦心してきたので、そのへんのテクニックにはやたらこだわりがあり、もっと言うなら、それ以前に若者として子どもとして、「反抗的な若者が大人に屈服し、立派な社会人になる」話を絶対にこうなってなるものかと、心をめらめら燃やしながら戦う、そして勝つための資料として読みこんでいた、なかなか恐ろしい長い子供時代がある(笑)。
言うて見りゃ、子ども時代から青春時代の私は、エルサとアナを同時にやってて、エルサのように氷の部屋に閉じこもって魔術修行に精出しながら、アナのように庭や町に出てフツーの女の子になる修行をするのに余念がありませんでした。どっちもどこまで成功したかは怪しいですけども。

そんな私にとって、こういう話の文脈というか構成というかは、かなりびりびり神経にひっかかるんで、たとえばエルサが魔力をほとばしらせて氷の城を作るあの場面、あれは「闘争」ではなく「逃走」の中でなされる作業です。私のように「反抗的な若者が、最後は大人に言うことを聞かせられてハッピーエンド」な話をいくつもいくつも、けっと思いながら見た人間は、もうあの時点で「あ、これは反抗でさえない、負け犬の逃亡で、しょせんは敵に負けるのだし、敗北と屈辱の延長線上か、わかりにくい妥協の果てのハッピーエンドがせいぜい」とか予測できてしまうんですよ。

だから私は、あの「ありのままで」の歌が、どこが心に響くのかわからない。もしあの歌にこめられた主張が正しいのなら、それはあんな所であんな風に歌われるべきもんじゃない。
果たしてって言いたいぐらい氷の城は崩壊するし、エルサはみじめに拘束されるし、あげくアホな妹に救われて、バカみたいな「そうね、愛よ」なんてちゃらい言葉で悟りを開いてしまう。そんなの、部屋に何年か閉じこもってる内に気づけよ、いくら何でも。
なんか、そういうキーワードが陳腐なのはいいけど、場面や流れにつながって行かないから、ものすごく説得力や感動がないの。だいたい、エルサのあのものすごい魔力のパワーの源が、いったい何なのかもわからない。わからなくってもいいけれど、この映画全部がそうなんだけど、わからないのが、力ではなく嘘っぽさにつながってしまってる。最後の方じゃ私はしらけて、あれってもしかしたら、エルサの魔法じゃなくて、ただの異常気象だったんとちゃうかとまで思いはじめたもんね。あんまり彼女がアホらしいから。考えることすること言うこと、ミズスマシみたいに、するするすべってくばっかりで。

でもって、だから、エルサの存在や生き方が示してるものや、訴えてるものが、私にはようわからんのです。あまりに、ちぐはぐ、かつ、うすっぺらで、何をしたいのかしたくないのか、さっぱりわからん。肯定はもちろん、否定もできない。むかつくよなー、こういう存在(あ、ひとりごとっす)。
で、もうちょいわかりやすい、この映画の訴えてることは(と言っても、例によって真剣に訴えてるわけでもないから誰もまともに聞いてはないような気もするが)、「ひとめぼれして、あこがれの王子様と恋に落ちてはいかん」ということなんでしょう、バカなアナがしたように。
そこで私は言いたいんですが、いいじゃんよ、ひとめぼれで、アホな王子と結婚しても。

あー、長くなったので、またいったん切ります。

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カツジ猫