映画「アナと雪の女王」感想集映画「アナと雪の女王」感想(おまけの12)
◇この映画については、すでにYahooの採点批評などで、いろんな人がけっこう批判もしているし、その中には笑っちゃうぐらい私が同感の指摘も多いので、もう別にわざわざここで書くまでもないのだが、まあもうとっくに映画の感想通り抜けて私の生き方の問題みたいになっちゃってるから、どーせなら、もうちょっと続けてみる。この分だとほんと永遠に終わらないかもねー。おほほほほほほ(やけ)。
◇あ、その前に先日見た友人の批評。「あんたの影響を受けたのかもしらんが」と前置きして「とりあえず、あの妹は好かん」だって。
私は、どっちかと言うとアナが皆にバカだのなんだのと批判されてる分、そんなにアナは嫌いでもなくて(別に好きでもないが。あ、しかし、どっかで誰かが、彼女がよだれたらして寝てる場面がどうとか書いてたけど、ありゃたしかに、そう見えるように描いてるけど、よだれじゃなくって、髪の毛だよね? どーでもいいけど、誤解は解いておいてあげよう)、「そんなにひどいか?」と聞くと、「しょせん男に救われるんだろ」と言うから、「いや、それがあのひとめぼれ(コメの名みたいですが)王子は、そういう相手ではなかったんだから、ディズニーとしちゃ画期的で」と私がなぜか弁解してやると、「えー、どこが画期的なん。二番手いるなら同じじゃん」となるほどな反論が返ってきました(笑)。
それはたしかにそうですが、まあ、アナの話はまたゆっくり(やるんかい!?と言われそうですが)。彼女の心理や行動の設定も、私はかなりひどいと思いますよ。少なくともあんなんで、姉妹愛だのレスビアン的感情だのに酔えっつったって私には到底無理です。
◇男女を問わず、とあえて言いますが、自分の人との違い、個性が、危険で悪いものか、ひょっとしたら他人にとってもすばらしいものか、判断がつかないままに持ちつづけることは、つらくて恐いものです。
そこといいかげん、かつ適当に重なるから、この映画は共感されもしたのだと思います。
私は、小さい子ども(高校生ごろまでか?)までは、大人に対して無力な子ども、若者として、自分の欲求、自分の好悪をどの程度抑えたらいいのか、なくしたらいいのかわからないままに生きていました。
親も先生も好きでしたが、それとこれとは別と言いたいぐらい、どこかで彼らは敵だとずっと思っていました。
水準や基準はちがうけれど、友人たちに対してもそうでした。とても好きだったけれど、彼らにはわからない世界があったし、それを見せたら敵になるかもしれないと、ずっといつも思っていました。
親にも先生にも私は反抗はしませんでした。したら負けるとわかっていたからです。テレビドラマや映画で、若者や異端者が反抗し、たたきのめされ、改心して従順になる感動的結末のものが当時は腐るほどあって、それを見るたびに私は、反面教師として「どこがまずかったか」を検討しては参考にしていました。
あのころの私が、ふるいつきたいほど愛した小説はカミュの「異邦人」。シリトーの「長距離ランナーの孤独」も好きでした。最後まで、大人や社会の思いのままにならなかった主人公たちが、私にはこの上なく快かった。
◇私はキリスト教やマルクス主義や社会主義を愛しましたが、それは、このような強者との戦いにおいて、その思想を持つ人たちの姿勢や態度や考え方がとても参考になったからです。妥協をしない、信念を曲げない、情に流されない、力に屈しない、自分に厳しい(自分を信じられるために、敵以上に自分を厳しくチェックする)、自分より弱い存在は守る、などなど。
戦後の民主主義の中で、歴史や社会を見る上で、私のこの視点はゆらいだことはありませんけれど、ただ、私の世代が年をとり、社会の実権を握り、強者になって行くにつれて、まーたとえばキリスト教が宗教裁判なんぞをやらかし、社会主義大国が腐敗したと同様に、少数派である時はまともだった存在が多数派になり権力を握ったときのモラルについて、まずいと思って見ていたこと、なのにそのまま見逃したことは少なくありません。
自分が親になり先生になったとき、かつての自分のような若者とどう向かい合うのか、それは最大の課題だったと思っています。
今は、第一線を退き、老人と言う弱い立場に再びなり始めてはいるものの、その課題に私はまだ回答を得ているわけではありません。
ひとつ言えることは、「ものわかりのいい大人」「子どもや若者の味方」なんかに絶対なれるわけはないと思っている方がいいということです。弱者の立場には立たなければならない。彼らの思いは最大限に理解し、望みは受け入れてやらなければならない。それでも基本的に、絶対に、私は権力を持ち強い立場にいる以上、教師は学生の敵で大人は若者の敵だと思っています。
男に女は理解できない(その逆も)とか、アジア人に欧米人は理解できない(その逆も)とかいう言い方、考え方のすべてを私は嫌悪し恐怖します。しかしそれは、そういう枠付けは生まれつきで死ぬまで変えられないものだからで、大人と子どもと老人とか社長と社員とか教師と学生とかは、永遠の固定したものではありません。だから、その両者の間に越えられない壁があることは、認めた方が私はむしろ、まちがいがないと思っています。
◇映画の話に戻ります。
そういうわけで、私は孤立した異端者が周囲に反抗して破れて屈服して軍門に下って飼いならされる、という図式の話は本当に腐るほど見て、ひとりでじりじり怒っていたから、そう言った図式には言っちゃ何ですが相当の目利きです(笑)。
誰が何と言おうと、エルサのあの雪山に逃げのお城つくりの連れ戻されの救われの反省の健全な社会の一員としての再生の、は「異邦人」でも「長距離ランナーの孤独」でもない。私が死ぬほど嫌悪して、ぞくぞく背筋が寒くなって、ただもうほとんどマゾ的病的快感さえ抱いてかみしめのみこんでいた、「反抗する若者が健全な常識にアメとムチで飼いならされてマトモになってめでたしめでたし」の手あかのついた教訓ドラマに他なりません。
あ、私さっき、自分の戦う姿勢において学んだのはキリスト教とマルクス主義と言ったけど、も一つあった、アメリカのウーマンリブからフェミニズムの戦いです。みっともないほど荒々しい、ほとんど血まみれ泥まみれの、あの時代の女性たち(そして男性たち)の戦いが、どれほど私を力づけたでしょう。
彼ら彼女らの生き方と、私が嫌悪した教訓ドラマの間には、まったくちりほどの共通点もなかった。それを思うと、私はこの「アナと雪の女王」の映画がフェミニズムとか新しい女の生き方とかと結びつけられるのさえ、汚らわしくて許せない。勇敢で血まみれのフェミニズムの戦いを後追いするかたちでこそあれ、ここまで何とかまっとうな方向に変化してきたディズニーの映画の女性描写が、今さら何でこんなみっともない後戻りをするの。もしや、アメリカのフェミニズムそのものが、そういう停滞と混迷の時期を迎えているの。そんなことまで、かんぐりたくなる。
でも、逆に言うと、あれなんでしょうね。この映画がこれだけ人気を得たっていうのも、そういう昔ながらの保守的で多数派で、反抗する少数派はおうちへお帰り、いい子いい子という図式が好きな人たちの心に、じーつに快く響いたんでしょうね。アメリカ映画だって、私のキライな教訓ドラマはそれこそ死ぬほどあったんだから。そして、「フォレスト・ガンプ」の映画なんかもそうだけど、反抗した異分子や少数派も何とか自分たちの快い家族の歴史の一部にしちゃって咀嚼しようって、善意にみちたご両親的発想ってのも、アメリカと日本とを問わず、世界には常にあるんだから。
ううむ、またとまらんなあ。いったん切るか。