民教連サークル通信よりウサギの穴から出られない
昔、大学の現職だったころ、学生委員会の委員長か何かだったから、学生たちのサークル代表者の集まりで、事故を起こさない心構えみたいな注意をしなければならない時があった。たまたまその前後の数年、部活動中の死亡事故が続いて遺体捜索に何日も参加するなど、学生も教員もつらい思いをしていた。専門的なことはよくわからないなりに、私は彼らにこんなことを話した。
「事故は起こしてはならない、起こったら悲惨だ、ということは、そりゃもう、よく言われるし、わかっていると思います。
しかし、どんなに注意していても、事故なんて起こるときには起こるものです。
だから皆さん、事故を起こさないよう気をつけるよりは、むしろ、事故は起こるものと思って、起きたときにどうするか、今日、今からでもすぐ部のメンバーと話し合って、体制を整えておいて下さい。
不幸な事故が起こったとき、大学、警察、ご家族、マスコミとの対応は誰が窓口になるのか、皆をまとめて指示し指揮をとるのは誰か、連絡網はどう作るか、責任者は誰か、その人がいなくなっていたら、次は誰がなるか、あらゆることを考えてみておいて下さい。これは私の好みですから強制はしませんが、女性のメンバーも排除しないで、きちんと役割を与えてもらえるとうれしいです」
そういうことを細かく具体的に考える内に、かえって事故を起こしてはならないという実感も生まれるのじゃないかとも考えてはいたのだが、今思えば立ち会っていた事務の方々は、この人何を言い出すのやらと、聞いていてどきどきしたかもしれない。
ホームページを新しくして、その名も「いたさかランド」というのを立ち上げた。そのことを放ったらかしていたフェイスブックでお知らせしたら、ずっと以前の卒業生で、海上自衛隊に入った女性からお返事が来た。かんたんなごあいさつだったから詳しいことはわからないが、まだそこでがんばっているようだ。
それで思い出したが、彼女が入隊をメールで知らせてきた時、「大切なものを守るためにがんばる」というようなことを書いていたので、いつもの癖で私はつい「たとえ大切でも、私のことは守らないでもいいから」と返事したついでにこれまたうっかり、「だいたい、あなたが国を守る仕事について最初に決意しなくてはならないのは、大切なものや愛するものを守るということよりも、必要な時には自分の大切なものや愛するものでも殺すということなんじゃないかと思うが、そういうことは自衛隊の面接試験では聞かないのか」と、本当に嫌味でも皮肉でもなく、まっとう素直な疑問として尋ねてしまった。
彼女もまじめに、「まだそういうことを聞くような試験はないようです」みたいな返事をくれて、私は、そうか、私なんかいつ非国民や国家への反逆者になるかわからないのに、そこんとこ決意しとかないで大丈夫かあいつは、と、とことんいらん心配をした。
そしてまたまた思い出すのだが、もう何十年前か、大学改革とやらが始まったころ、政府が全国の大学を調査して、すぐれた大学とそうでない大学をランクづけして、与える予算の額を決めると聞いたとき、私は「ああ、なるほど、劣った大学にたくさん予算をやって、立派にして、全体の水準をそろえるのだな」と、反射的に何の疑いもなく考えた。
それが、まったくその逆で、弱小だか劣等だかの大学は切り捨て、優秀で力のある大学に予算を多く与えて伸ばすのだということがわかったとき、青天の霹靂なみにびっくりし、ついでに周りの先生たちが、それで切り捨てられないよう、高い評価を得るにはどうしたらいいかと頭をしぼっているらしいのを見たときは、いったいぜんたい、曲がりなりにも教育大学で教師を養成する場所で、障害児課程や福祉課程もある中でそんなこと考えていて、いったい学生や未来の教師に、「子どもはみんな大切だ」とか「どんな人間も生きていていいんだ」とか、多重人格や夢遊病にならずに、どうやって教えるんだと、「不思議の国のアリス」の世界にでもさまよいこんだような呆然とした心境になった。
いろいろ、あれこれ、私の方がどこか狂っていておかしいのかもしれないが、あのとき迷いこんだ混乱ととまどいから、いまだに私は抜け出せていない気がする。
(2019年2月)