民教連サークル通信より華やかな霧が晴れて行く
コロナの流行はさまざまな人を苦しめている。私自身、非常勤先が休講で収入がなく、貯金がじわじわ減って行くのは心配だし、体調が悪いとたとえ虫歯でも胃ガンでも脳梗塞でも、今は診療してもらえる状況ではないという危険を実感しながら生きている。若い学生たちや、まじめに働いている人たちや、不要不急といういやなことばで後回しにされそうな芸術や文化の未来を思うと、暗澹などというものではない。
しかし、その一方でこの状況は私には必ずしも不愉快ではない。
私はびくともゆらがぬ安定した日常より、通常では考えられない非常事態がどことなく好きだ。少なくとも変化というものが不愉快ではない。今まで見たことのない世界を見るのが苦にならない。そういうこともあるのだろう。
だが、それだけではない。この数ヶ月、会いたい人に会えず、行きたいところに行けず、映画も野球も大相撲も各種イベントもなくなって、出身大学の学会や研究会、地域や民主団体の行事や会合も皆中止になって行くのを見ていると、寂しさや不安よりも、「なんだ、やめようと思えばやめられるんじゃないか」「なしですまそうと思えば出来るんじゃないか」という、新鮮な発見がある。
もともと学校が好きでなかった。いやなことがあったわけではないし、行けば友だちも先生も好きで、それなりに愉快に過ごしていたが、家で一人でいる方がいつでもずっと満ち足りていて幸福だった。コロナで長く学校が休みになると聞いて私の心にこみあげるのは、「どうしてそんなすばらしいことが私の子どものころには起こらなかったのだろう。今の子はずるい。いいなあ」という羨望でしかない。顰蹙を覚悟でこんなことを口にするのは、私のような子どもも時にはいるかもしれないことを、先生方に心のどこかにとめておいてもらえればと思うからだ。
学校がいやだった最大の理由は、休み時間はもちろん授業中でも、いつも騒々しくて賑やかで楽しくしていなければならなかったからだろう。そして今は、いつからか日本全国が学校のようになった気がしている。
一人暮らしで年金生活で世捨て人に近いはずの私でさえ、ここ十数年のイベントや行事の多さには息を切らせていた。正月から始まってバレンタインデーにひな祭り、ホワイトデーに卒業式に入学式に母の日に父の日にこどもの日、七夕にお盆に花火大会に高校野球に原水禁大会にハロウィンに憲法記念日、日本シリーズ、サッカー、ラグビー、オリンピック、クリスマスと一年中まさに何かのお祭りで日本中が浮かれている。博多どんたく、山笠、大相撲、運動会、まだまだあって、静かなときなどどこにもない。
この浮き足立った、狂瀾怒濤の日常は、何かおかしいとずっと前から感じていた。一方でこういうことにまったく携わらない人たちは、これまた入試や甲子園や花園や司法試験や会社の営業成績や子育てやその日の暮しのために、脇目もふらずにノルマや修行に没頭してまったく余裕というものがない。
私は一応「むなかた九条の会」に入って平和と民主主義を守るために活動している。たしか地元の共産党の後援会員でもあったと思う。家の窓には「アベ政治を許さない」のポスターを張っている。しかし、本当は私としては、時にはゆっくり共産党はまちがっていないかとか、憲法は変えてもいいのではないかとか、平和がそんなにいいものかとか、安倍晋三もどこかいいところはないだろうかとか、虚心坦懐、白紙に戻って根本的に考えて見たい。迷って、悩んで、ゆれてもみたい。
だが現実にはまったくそういう余裕がない。ばたばたと新聞やネットを走り読みして、やっぱり今の政治は腐ってるとか、野党を応援しようとかとりあえず決めるが、そこには我ながらまったく根本からの問いかけも、厳しいチェックも検証もない。条件反射的に無難な道を選択している。いやな気分だ。
何かを深く見つめよう、考えようとするのは、深淵をのぞきこむような勇気がいる。暗黒の中の孤独な作業である。それに耐えられず、不安や不快の原因も求めず、とりあえず毎月のイベントに逃げて、好きな選手の活躍やチョコやぼたもちで不安をまぎらわす、私も含めた国民全部がアル中かパチンコ中毒に近い状態で踊り狂って何事からも目をそらしているのが、普通になっているように思えてならない。
スポーツもイベントもお祭りも交流も、それ自体はいいものだ。だがそれは麻薬のように人の目を曇らせ、感性も理性も麻痺させることがある。あらゆる喜びや楽しみが消えた今、私はまるで、華やかな霧が晴れて行くように、透き通った空気の中に遠くまでの景色が、久しぶりにはっきりと見えてくるようなある安堵感に包まれている。