昔のコラム忘れられる教師

今はそうでもないが、昔はよく学 生から「授業が面白い」と言われた。 同僚が気にして授業の内容を尋ねる と学生は「それは忘れたがとにかく 面白かった」と答えたそうな。別の 大学でも「面白くて夢中で聞いてい て、あとで何を聞いたか思い出せな い」と言われた。
私は恥をしのんで告白しているの だ。この状況は私が理想とする教師 像と完璧に逆だからで、かねがね学 生には「『いい先生だった』『いい 授業だった』と印象に残るようでは まだまだだ。『そんな先生いたっけ』 と誰も覚えてないし、授業の記憶も まったくないけど、確実にその期間 生徒は幸福で、学力は進歩し、でも それは教師のせいとは全然気づかれ ない、そういう授業をするのが理想」 と言ってきたが、誰も本気にしてく れない。おまけに最近は学生の授業 評価ということが盛んに言われはじ めて「それと気づかせず、いい授業 をする、いい教師でいる」というこ とはますます至難の技になった。こ の学生の授業評価はよくレストラン の食事と客の関係になぞらえられる のだが、そういうことを言う人たち は「スープの熱さは」「接客態度は」 などというアンケートに記入しなが ら食べる食事の味気なさを体験した ことないのかな、といつも私は首を ひねる。
貝原益軒をはじめ、江戸時代の知 識人はよく、人に知られず善行を積 む「陰徳」の大切さを説く。キリス ト教でも仏教でも同様の教えはある はずだ。だがこの評価全盛の時代、 私の理想の授業と同様、「陰徳」を 行うこともどうやらますます困難に なる一方のようだ。

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カツジ猫